東海道
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東海道の噂[編集 | ソースを編集]
- 言わずと知れた江戸時代の五街道の筆頭、現在でも交通の大動脈。
- 現在ではJRの東海道線や東海道新幹線、国道は1号、東名~名神高速道路とかがおおよそこの街道を踏襲していると言って良い。
- ただし、難所の箱根峠と鈴鹿峠は別ルートを通っていることが多い。
- 国道1号を除いては箱根部分は高速道路は御殿場経由、鉄道は熱海経由。鈴鹿峠部分は、鉄道、高速道路ともに関ヶ原から米原方面を経由する方を通ってしまっている。
- 大本となる東海道本線がもともと琵琶湖海運を活用する形で整備され、更に当時は中山道線としての計画だったのが大きい。
- 岐阜から名古屋・大府を経て武豊までの区間は本来、武豊港から中山道線の建設資材を山中に運びこむため造られた支線だった。しかし東西幹線が東海道経由に計画変更されたことで、大府以北は東海道線の一部に。残る区間が武豊線となった。
- 岐阜~熱田はルートとしては「美濃路」に相応する。江戸時代から東海道における木曽三川の難所を避けられる迂回路として使われていた脇街道ではある。
- 東海道新幹線は、北陸連絡強化と建設期間短縮・費用圧縮のために鈴鹿貫通が断念されて東海道線と同様の米原経由に。高速道路は新名神高速道路が後に本来の東海道に近いルートを通るようになった。
- 前身の弾丸列車計画では鈴鹿経由か米原経由か最後まで決まらなかった。
- 実は、京~熱田のルートは、元々、飛鳥や奈良に都があったことの名残だったりする。
- 飛鳥時代、東海道は飛鳥→桜井→榛原→名張→上野→加太→関→亀山→鈴鹿→伊勢湾連絡船→三河御津と伸びており、奈良時代には、奈良→加茂→上野のルートに変更されている。
- 結局、都が京都に移っても東海道は関以東のルートを活かそうとして、宿駅を整備した結果、草津から水口、土山、関と、わざわざ峠越えをして南東へ向かっておきながら、その後、北東に進路を向けて、さらに、木曽三川河口部の湿地帯という難所を抜けるような非効率なルートを取る羽目になった。
- 都が京都にある場合、三河国府と京都の間を、なるべく労力を取らずに進むことができるのは、平安初期の地形と操船技術、荷馬の価値等を鑑みると、不破の関までは東山道と同じルートを行き、そこから、羽島までは概ね名神高速沿い、羽島から名古屋までは概ね新幹線沿いに名古屋まで進んだあと、国道1号線沿いに行くルートらしい。そう、平安初期の人にとっても草津・亀山回りは実は遠回りだった。
- 飛鳥時代、東海道は飛鳥→桜井→榛原→名張→上野→加太→関→亀山→鈴鹿→伊勢湾連絡船→三河御津と伸びており、奈良時代には、奈良→加茂→上野のルートに変更されている。
- 大本となる東海道本線がもともと琵琶湖海運を活用する形で整備され、更に当時は中山道線としての計画だったのが大きい。
- 箱根越え区間については、東海道線も元々は御殿場迂回だった。
- 高速道路は鉄道と違い、勾配をそこまで気にせず済むので、山際を通る現在の東海道線ルートではなく御殿場線ルートを踏襲したようにも思える。
- 国道1号を除いては箱根部分は高速道路は御殿場経由、鉄道は熱海経由。鈴鹿峠部分は、鉄道、高速道路ともに関ヶ原から米原方面を経由する方を通ってしまっている。
- 静岡県区間は国道1号線に沿ってはいるが、本道(ほとんどバイパス)と重複しているところはあまり多くない。
- ただし、難所の箱根峠と鈴鹿峠は別ルートを通っていることが多い。
- 基本的には「東海道五十三次」として、お江戸日本橋から京の三条大橋まで53の宿場町がある街道として知られる。
- 浮世絵でも東海道五十三次は有名。
- 多くの宿場町の資料館でコレクションされている。
- ところが、京都からさらに大坂まで五十七宿で東海道、とする説もあるようで。
- 残り四つは伏見・枚方・守口・大坂だっけか?
- 淀宿もあったと思う。
- この区間は「京街道」とも呼ばれている。
- 残り四つは伏見・枚方・守口・大坂だっけか?
- 浮世絵でも東海道五十三次は有名。
- 政府が唯一メガロポリスに指定している東海道メガロポリスは東京から大阪までであり、京街道を含んでいる。
- いや、京都とかもう東海道じゃなくて区分は畿内でしょ。地図帳でそう色分けされてた。何にでもしゃしゃり出てこないでほしい。
- 色分けとか畿内とかはそりゃ五畿七道の話しでしょ。ここは街道としての東海道の話しですんで。
- 下記も参照ください。
- 色分けとか畿内とかはそりゃ五畿七道の話しでしょ。ここは街道としての東海道の話しですんで。
- 最も有名な旅行者はなんと言っても弥次さん喜多さん、東海道中膝栗毛の主人公二人だろう。資料館や道ばたの説明板でも、その道中の模様が描かれていたりする。
- 東海道沿いを辿って徒歩旅する人がいるが、見た限り、東京から京都方面に歩く人が多く、逆向きはそんなにいない模様。
- 静岡・愛知あたりでは灯籠なんかに「秋葉神社」の銘が入っていることが多い。秋葉神社は火除けの神様で浜松市/天竜区にある。宿場町に限らず、江戸時代は火事が多いしね。
- 律令国の東海道の範囲も街道の東海道の経路とほぼ一致する。異なるのは律令国の東海道の範囲は日本橋以東にも広がっている事くらい。
- ところでこれ、律令国と街道名が一緒なのは単なる偶然なんだろうか。山陽道や北陸道はともかく、東山道・南海道・西海道は街道としての名もあるのかどうか分からんし。
- 東海道は少なくとも五畿七道の継承で今の名前になったと思う。徳川政権時代より前も道の名称として「東海道」が使われることはあった。
- 五畿七道の七道にはそれぞれ実際に都から国府への道があった。時代による変遷があるので完全では無いにせよ、江戸期以降の東海道もおおよそその時の道を踏襲していると言って良いかと思う。国道1号は東海道を踏襲している、と言うのと同レベルで。
- 中山道も江戸時代中期までは東山道などと呼ばれることがあった。
- 律令国の東海道は江戸期以降の東海道が通る範囲に加え、伊賀、甲斐と安房・上総・下総・常陸。江戸期以降の東海道は近江を通るが、律令国の近江は東山道。
- 余談過ぎるが、東海道自然歩道は全然別物。
- 正確には「東海自然歩道」ですな。主な経由地である東海地方からの命名です。
- すまん、記憶違いだったわ。
- 正確には「東海自然歩道」ですな。主な経由地である東海地方からの命名です。
- ところでこれ、律令国と街道名が一緒なのは単なる偶然なんだろうか。山陽道や北陸道はともかく、東山道・南海道・西海道は街道としての名もあるのかどうか分からんし。
- 難所が多いため、迂回ルート(脇往還)が幾つか存在した。
- 上の美濃路もその一つ。七里の渡しに対して十里の渡し、佐屋街道・三里の渡しもあった。また浜名湖をまたぐ新居辺りでの姫街道なども。
- 江戸時代、大井川など大河川に橋をかけなかったのは幕府の戦略と言われてきたが、実際には渡し屋の反対と当時の建設技術に基づくところが大きいらしい。
- そういった場所では方言・食文化などの文化的な境界も生じている。
- 川が多いことから女性は遠回りでも中山道を行くことも多かったらしい。幕末の皇女和宮の降嫁の時も中山道経由。
- そして大井川では明治になって橋が架かり、失職した渡しの人足たちは、同じく失職した元徳川幕府の武士の人たちと共に牧ノ原台地でお茶の生産に励むことになる。
- ただし一部の資料館などでは今でも旧説に基づく説明がされている。
- 東海道と北海道が同じ「行政区分」(五畿八道)に因んだ名前であったことを知らない人は多い。今では「東西のルート」と「四島の一つかつ都道府県の一つ」で大きく立ち位置が異なるから。
- かなり古い時代から紀行文が書かれている。
各宿場・街並みの噂[編集 | ソースを編集]
- この項目では地域順に割込を許容します。要約欄に「地域順割込」の旨をお書き下さい。
東京都・神奈川県区間[編集 | ソースを編集]
- 東京都内区間は、品川付近を除いてほぼ国道15号線を辿る。世界の高級ブランドが軒を連ねる銀座の街並みや、田町の札の辻交差点の歩道橋から見る東京タワーは、現代の旅の始まり(京都側からだと終わり)と大都会東京を象徴する華やかな眺め。
- 但し始点の日本橋付近は1号線になっている。1号線は永代通りで曲がり、日比谷通り→内堀通りを経由し、桜田通りとなった後に第二京浜(五反田~横浜間)として、横浜駅付近まで東海道の内側を走る。
- この第二京浜は、第一京浜≒東海道とは比較にならぬほどアップダウンが激しく、先人の道選びの賢明さを改めて思い知らされることとなる。
- 一方の15号は、ローカルでは中央通り(新橋まで)→第一京浜(新橋~横浜間)と称される。道中、部分的に「旧東海道」が分離している区間も存在するが、第一京浜区間では基本的に通常の舗装道路である。
- 但し始点の日本橋付近は1号線になっている。1号線は永代通りで曲がり、日比谷通り→内堀通りを経由し、桜田通りとなった後に第二京浜(五反田~横浜間)として、横浜駅付近まで東海道の内側を走る。
- 日本橋から出てから初めて街道っぽい雰囲気を出してくるのが品川宿。左右に商店が並ぶ街並みは、古い歴史を感じるような商店から、和の雰囲気に凝ったカフェまで色々あって、歩いて楽しい。
- 関東大震災や東京大空襲の被害を奇跡的に免れたので古い家屋が残った。
- 幕末にアメリカから神奈川を開国するよう迫られたが、宿場町を開放したくない幕府は近隣の横浜村を神奈川として開港した。
- 横浜駅付近で第一・第二京浜が合流して以降は、基本的に1号線沿い。
- ハマのアメ横とも称される洪福寺松原商店街のメインストリートはこの街道の程ヶ谷宿手前(京方面)の部分である。松原の由来は東海道に植えられた防風林だったとか。
- そして日本橋から歩いて初日の宿泊地として栄えたのが程ヶ谷宿。
- 程ヶ谷宿から権太坂(箱根駅伝の難所ではない旧道の方)を越えてしばらく行くと今なお完全な状態で残っている品濃一里塚がある。
- 廃止された戸塚駅横の大踏切も東海道の一部であった。
- 藤沢宿は箱根駅伝でも有名な遊行寺の門前町でもあった。
- 茅ヶ崎の少し京都寄りに左富士という名所がある。有名なのは富士市吉原の方であるが。
- 平塚宿は現在の平塚駅前の商店街に位置している。
- 平塚~大磯は東海道五十三次の中でもかなり短い。二宮の方がバランスがいいようにも思えるのだが…。
- 小田原宿は日本橋を出発して最初の城下町であった。
- 天下の険・箱根峠越え。箱根湯本で国道1号と別れ、県道に入ってからの登りがえぐい。
- 休みの日なんかは自転車(レーサー等、スポーツ車)で登る人が大勢います。そりゃいいトレーニングになるでしょう。
- 本当の旧東海道は県道から離散集合(?)を繰り返しながらハイキングコースのようなものがあります。石畳も。静岡県に入ってからも三島に下るまで、国道1号に並走するハイキングコース、部分的に石畳の道がある。
- 石畳の道は、畳というにはかなり凹凸が激しいので、少し歩くぐらいなら雰囲気があって良いが、全区間を通して歩こうとするとかなり足や靴に負担が大きいので、初心者は注意。
- この箱根越えの終盤に箱根関所が設置されている。また、当初は小田原宿と三島宿から住民を移住させて宿場を作ったとされ、「小田原町」「三島町」という小字が今も残っている。
静岡県区間[編集 | ソースを編集]
- 三原宿~吉原宿間は千本街道という脇往還がある。山側の今の県道163号が東海道、海側の県道380号が千本街道。街道にこだわらず歩く・サイクリングならさらに海側、松原の中の道を行くのも良いかもね。
- 江戸側からきて、吉原宿手前に「左富士」という場所がある。通常は富士山を右側に見て歩いてきたのが、この区間だけ左側に富士山が見えるという場所。
- とはいえ、真左に見える訳ではない。だいたい左前方20度くらいかな。
- これ、吉原宿が海側から山側に移転したために起こった街道の付け替えでこうなった。
- 吉原宿は2回宿場の移転を行っている。そう言われると地図をみたら吉原あたりにはそれっぽい道が他にもあったり、吉原宿の京都側に不自然な曲がりがあったりする。
- 付け替えの原因は大浪による物らしい。最近「旧街道の山側は津波等が来なくて安全」とかいう話があるが、この付近(付け替えられていない部分)ではそれは当てはまらないということになる。ま、地元の方は地形等からわかっておられるのだろうけれど。
- 吉原宿は現在商店街になっているこれはこれで旧街道らしい現在の街並み。が、江戸側から来ると商店街の途中で街道が分岐して非常にわかりにくい。
- 「左富士」はバス停の名前として今もそこに残っている。
- 蒲原から由比宿あたりも国道1号の山側に分かりやすく残っている。蒲原、由比ともに資料館有り。
- だいたいその辺りが例の世界一列………。
- 蒲原宿のところに、一里塚の跡の小さいお社を囲うようによけて建てられている民家がある。民家の持ち主の方、律儀だなぁ。
- 由比から興津へのさつた峠(さつたは薩と土偏に垂の字)は昔から交通の要衝。
- 現在も狭い範囲にJR東海道線、新幹線、東名高速が密集。その上の崖を旧東海道の道がある。
- 旧東海道は時代によって3本くらい峠道がある。海沿いの道もあり、一旦使われなくなったが、江戸時代に地震による海岸隆起で再び使えるようになったとか。
- 難所だけあってここで合戦も起こっている。南北朝時代(足利尊氏軍vs足利直義軍)と、戦国時代(武田信玄軍vs今川氏真軍)。
- 今はハイキングコースになっている。
- 清水駅前付近、国道1号から分岐しているそれっぽい道がいくつかある。どうも時代による街道の変遷があったらしい。
- 県民にはCMでお馴染みの「漢方薬の荷居屋」も街道沿いにある。街道を行き交う旅人の荷物預が発祥であるらしい。
- ちびまる子ちゃんの舞台は巴川を渡った先の街道沿い。
- 静岡は駿府城の城下街だけあって経路が折れ曲がってる。県庁所在地の繁華街でも(おそらく)一番賑わっている通りを通る。
- その手前で貨物ヤードが街道を分断しているのだが、その迂回路である北村地下道はクラクションが絶えず鳴らされ、旅人をビビらせている。(狭いためトンネル進入時にクラクションを鳴らすのが暗黙のルール)
- 丸子宿はととろご飯が有名。昔も今も。浮世絵に描かれた店が今もそれっぽい店構えで営業中。
- ただし、昭和の頃は一旦普通の建物になっていたものをまたを昔風の建物にしたので、江戸時代からずっと残っている建物というものではない。
- 丸子宿は「まりこ」と読む。昔は鞠子とも書いた。
- 宇津ノ谷峠は旧東海道が2本残る。江戸時代のと、さらに、昔の物と。
- ついでに国道1号のトンネルも、明治期の物と昭和初期、昭和後期、平成の4時代のものがある。昔から道の取り付けに苦労する難所なんですな。
- 鉄道、高速道路は南側を石部トンネル、日本坂トンネルで抜けているが、どちらも一筋縄ではいかなかったようで。
- 鉄道はトンネル崩壊、弾丸列車用のトンネル転用、新幹線敷設により旧トンネル再活用。高速道路は火災、トンネル2本化。
- 岡部宿、ガラ付きの布をサッカーボールの五角形、六角形形状に貼り合わせて鞠にしたのをぶら下げている家がちらほら。
- 藤枝宿、島田宿は今は商店街。
- 大井川は橋をかけられず、人足に渡してもらっていた。「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川。」
- 三代将軍家光の時に、将軍の実弟の徳川忠長が利便のために舟橋を架けようとしたが、「天下の大井川に橋を架けるなどけしからん」と激怒したとか。防衛のためにわざわざ架けなかったらしい。
- 水位が高い(胸元以上)だと川渡しは行われない。長雨が続くとそのあいだ川の両側(島田宿・金谷宿)で足止め。足止めの間に持ち金がなくなって江戸に引き返す人もいたとか。
- そのため島田宿・金谷宿は儲かったんだろうな。
- 上にもあった通り、幕府発足直後はともかく、中期以降は実際は技術的な困難と川越人の失職を恐れた幕府の癒着&事なかれ政策の結果というのが最近は真実と思われつつある。
- そもそも大井川は暴れ川で、近代に治水が行われるまで洪水の度に川の流れる場所が変わったとか。木の橋をかけるなんて金の無駄という声が出てもおかしくない。
- 治水が進んだ現代でも近代以降の技術を用いた鉄橋でなく、木製の橋は台風等が来る度に流されて架け替えられている(蓬莱橋が有名)。2000年代以降でも既に4回崩壊してる。
- 「東海の河川」では3回崩壊って書いてあるけど、どっちやねん?
- 2000年は20世紀であって21世紀じゃないからです(同年に崩壊)
- 「東海の河川」では3回崩壊って書いてあるけど、どっちやねん?
- 金谷過ぎに夜泣き石というのがあり、乳飴がある。茶店では乳飴ソフトクリームがあるよ。でも国道1号にバイパスができて交通量は減っているはず。
- 交通量減少のあおりで2軒あった茶店が1軒になってしまった。
- これと大井川があるために東西の文化が別れる。
- 掛川は城下街なんでやっぱり折れ曲がる。やっぱり旧街道宿場町感はそれほどでもない。
- 復元だけど、掛川城や大手門付近なんかがいい雰囲気なだけにちょっと中途半端でもったいない。
- 掛川~袋井宿は松並木が少しある。この辺は旧街道っぽい。
- 袋井宿は江戸・京都どちらからも27番目の中間宿。そんな袋井市のキャッチコピーは「どまんなか袋井」
- 宿場町内には「どまんなか茶屋」もある。
- 磐田市内は高低差が激しい。両側の袋井浜松が平坦であるのでちょっと異色。
- 浜松も城下街なんでやっぱり宿場町感はない。でもそれほど街道筋がそんなに折れ曲がってない。元々がこんなものなのか、昔の道筋が残っていないのか。
- 舞阪、松並木が残って良い感じ。
- 東海道で唯一脇本陣が現存している。
- 舞浜~新居は浜名湖河口を渡る、今切りの渡し。
- 新居には関所があった。今はその資料館がある。
- 今その辺りで最も目立つのは競艇場。
- 幕末に建てられた関所の建物が残っているほか消滅した建物も復元整備中。
- 見附から御油までは「姫街道」という脇往還があった。浜名湖に宝永地震で4kmもの渡し船区間ができてしまったため、海路を避けるルートとして人気を呼ぶ。
- 静岡最西端の白須賀宿は大津波によって宿場が内陸に移転している。
姫街道の噂[編集 | ソースを編集]
- 「姫街道」というのは新居関所を避けた女性陣から着いた名前。しかし旧東海道の宿場にとっては大打撃だった。
- 気賀から三ヶ日のあたりは昭和になって鉄道で同じような理由における迂回路線として「二俣線」が敷設された。後の天浜線である。
- 東名高速は姫街道のルートに近いルートを通過している。
- こう考えると、道路公団が高速を敷く時までは姫街道ルートの優位性に誰も気づいていなかったということになるのかもしれない。
- 浜松市街を避けるルートなのが大きいと思う。高速道路は一般道と接続するから市街地を通る必要ないからなあ。
- こう考えると、道路公団が高速を敷く時までは姫街道ルートの優位性に誰も気づいていなかったということになるのかもしれない。
愛知県区間[編集 | ソースを編集]
- 二川宿は街道の街並み復元に結構力を入れている。
- 資料館で江戸時代のコスプレできる。
- 豊橋市内は旧の吉田藩城下なので、右へ左へうねうね曲がる。おい、そっち反対方向やぞ、という方向に一旦戻ったり。数ある城下街でも屈指の折れ曲がり。
- 御油の松並木は結構残っていて良い感じの景観。
- 御油宿と赤阪宿は近い。松並木を隔てて隣、というと言い過ぎだが、そんな気がする。名鉄で一駅、2km足らず。
- 半里程度で宿場が並ぶ例って他にどっかあるんだろうか……?
- 平成の合併までそれぞれ別の自治体(豊川市と旧音羽町)だったとはマンホールを見ない限り信じられない。
- 御油宿と赤阪宿は近い。松並木を隔てて隣、というと言い過ぎだが、そんな気がする。名鉄で一駅、2km足らず。
- 藤川宿は東側の入り口付近を整備していたり、札所があったりぼちぼち整備されている。街並みとして悪くない。
- 資料館があるが、無人だったりする。小さい資料館だが、街道の模型があるしちょっと立ち寄るのは良いかも。
- 藤川宿の先の松並木もそこそこ残っていて良い感じの街並み。
- 名物だったむらさき麦を今は地元の小学生が育てている。
- 岡崎の城下は二十七曲がりといわれていたくらい、曲がりくねっている。
- 現在の地図で数えると二十曲がりくらいだが、訳のわからん右折左折の連続。
- 知立宿、昔は池鯉鮒と書いた。字面のイメージが違いすぎる。
- 有松は宿場町ではなかったが、良い街並みが残る。東海道を歩き通した人が、東海道で一番の街並みと絶賛していた。
- それでも重伝建地区になったのは2016年と意外と遅い。
- 熱田神社の参道を真っ直ぐ行ったところに「七里の渡し」の船着き場がある。かつてはここから桑名までの7里は船で渡った。
- 江戸時代は木曽三川の河口部分を架橋したり徒歩で渡るのは難しかったのだろう。
- 実は佐屋路廻りというコースもあったらしい。ルートとしては熱田~金山~鳥森~千音寺~神島田~佐屋~海津~多度~桑名と行くらしく、今も佐屋街道としてその一部ルートをたどることができる。
- このルート、今も地名や駅名、さらには高速のインター名としてよく残っていたりする。神島田も津島市役所の連絡所の名前として残っている。
- その他、四日市まで行く十里の渡しもあった。
- 東海道線よりも名鉄名古屋本線の方が旧東海道を踏襲している。
- 蒲郡を経由したことについて、かつては岡崎や御油・知立などの「鉄道敷設反対運動」によるという説が有力だったが、今日では「蒸気機関車では困難な勾配を避けるため」というのが一般的に。名古屋本線は愛知電気鉄道により昭和に出来たもので、開業時より17‰の登坂能力があった電車運転だった。
- 名古屋の手前の熱田(宮)から海路に入る。
- しかし海路を避けるために使われた脇往還の美濃路は名古屋宿を通る。こちらも需要がそれなりにあったとか。
- 実をいうと高低差、距離等々を鑑みると、こちらの方が合理的なルートであった。詳細は総論の項目を参照。
- 名古屋は東海道も中山道も中心を通っていない。しかし街の発展が美濃路と善光寺道をメインに引き寄せ、交通拠点にしてしまった。
- しかし海路を避けるために使われた脇往還の美濃路は名古屋宿を通る。こちらも需要がそれなりにあったとか。
- 伊勢湾岸自動車道が現代版「七里の渡し」となっている。
- 愛知県のスーパーチェーンであるヤマナカが出している大判焼きの商標にもなった。
三重県区間[編集 | ソースを編集]
- 桑名は七里の渡しの京都側の湊。桑名城の割と近く。往事は湊に近づくにつれて桑名城がよく見えたことだろう。
- 桑名も城下街、東海道はうねうね曲がる曲がる。
- 「その手は桑名の焼き蛤」で有名な桑名の蛤、名産なのは実は富田と言うところで今では四日市市になってしまった。当時は桑名藩領だったから桑名の焼き蛤で間違いなかったんだけどね。
- 四日市まで直行できる十里の渡しのほうが人気があったらしく、桑名宿の人が幾度か訴えてる模様。
- 似たような話が上街道(木曽街道)の宿場町で下街道(善光寺道)に対する訴えとして…尾張はそんな話が多い。
- 渡し場には伊勢神宮の一の鳥居が建っている。
- 四日市宿は現在ではすっかり商店街。でもその南の方では街道っぽい街並みも残っている。
- その商店街を除き、日永あたりまでは国道の抜け道に使う車が多く走っており、結構危ない。
- 四日市の日永の追分で伊勢街道と別れる。お伊勢参りの人たちはここを左へ、京へ上る人は右へ。東海道を行くが伊勢神宮には行かない人のための遙拝の鳥居と、道標が残ります。
- 分岐点の少し北には小さいながら資料館あり。
- 三重県で東海道の宿場町と言えば関が有名だが、亀山も街並みは良い。昔の家の屋号が書かれたいたりする。城下街なんでやっぱり道は折れ曲がっている。
- 三重県区間の東海道にそう区間に引かれたのは、上述のような理由で官営の東海道線ではなく私鉄の関西鉄道となった。
- 現在の関西本線柘植以東と草津線に相応する。
- 昭和末まではこのルートで名古屋と京都を結ぶ急行「平安」があった。
- 道路では新名神高速道路が21世紀に。
- 現在の関西本線柘植以東と草津線に相応する。
- 鈴鹿峠区間にある坂下宿まではなだらかな登坂だが、峠の手前で急勾配となる。が、箱根峠ほどでもなく、割とあっさり峠に到達する。
- 大昔は急勾配の区間に宿場があったようで、森の中に石垣が見える場所がある。
滋賀県・京都府区間[編集 | ソースを編集]
- 鈴鹿峠を越えると、そこから水口まではダラダラ下る。
- 土山には宿場があった。そしてそんな宿場町にある田村神社は東海道有数の厄除けの神様として崇められたとか。
- 鈴鹿馬子唄に「 鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」と唄われていた。そこから現代版宿駅と言える道の駅の名前は「あいの土山」。
- 土山には宿場があった。そしてそんな宿場町にある田村神社は東海道有数の厄除けの神様として崇められたとか。
- 水口は宿場町と城下町が一体ではなく川を挟んで両者が併存する形だったとか。城下町区間では鍵曲がちょこちょこと存在する。
- 水口を出ると石部宿までは松並木が続いていたとか。今はそんな気配すら感じさせないけど。
- 野洲川を跨いだ横田渡の跡地にはどでかい常夜灯が有る。
- 途中の夏見に茶屋があったらしい。因みに黒蜜をかけて食う心太は、そこが発祥だとか。
- 石部の宿場は京都を朝出ると、だいたい夕刻に着けるところだったということでかなり栄えていたとか。
- そんなところだったからか、地元はかなり力を入れて整備している。資料館やら茶屋を再現した無料休憩所やら宿場風テーマパークなど……
- 草津宿で中山道と合流する。そんな所だから、結構大きい宿場だった。
- 今でも草津宿本陣が残っているが、これは現存する国内全ての本陣の建物のなかで最大のものらしい。
- 草津~大津は瀬田の唐橋を通るルートが一般的で、膳所城下の義仲寺横を抜けて浜大津へ行くのが通常ルートだった。
- ただ、矢橋帰帆島~浜大津に高速船があったらしく、これだと瀬田経由よりも速かったため、こっちを使ってショートカットする人も多かったらしい。因みに「急がば回れ」という諺は、急ぐなら船に乗らず瀬田を回れという格言が元らしい。
- 大津は、西近江路経由北国街道と東海道の分岐にして、京都にとっては日本海方面への外港であったため、宿場町に登録されていたが、どっちかというと港町という感じ。
- 大津から先、蝉丸~追分~四宮~山科~蹴上~三条は石畳だったとか。理由は馬や牛車による輸送が盛んなため地面を傷めないようにということらしい。
- 大津から追分を目指して行くと、脇に関蝉丸神社がある。ここで手を合わせた旅人はさぞかし多かったことであろう。
- 逢坂の関まで来ると、目の前に盆地が開ける。しかし、それは、京都盆地ではなく山科盆地。そして、そこから下りに転じてもまだ江州。
- ただ記録によれば江州であるにもかかわらず逢坂の関までは畿内として扱われていたという。
- 関所ではあるが、ただの関所ではなく、休憩所としての役目も果たしていたとか。
- 逢坂を過ぎると伏見・大阪方面への京都飛ばしルートと分岐する。だからそこを追分と呼んだ。因みに今もその分岐が住宅街の中に残るが、そこが京滋の境。
- 奈良街道の分岐点でもある。
- 府県境は意外にも逢坂山の京都側にある。
- 山科からは天智天皇陵をかすめ、そのまま蹴上を過ぎて南禅寺の南側抜けると青蓮院の傍を通り、粟田口へ出る。
- 京阪京津線がこのルートに沿っている。