10.8決戦

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10.8決戦(じってんはちけっせん)とは、読売新聞中日新聞による覇権を賭けた争いである。

概要[編集]

時は1994年、新聞はニュースをテレビ番組のみを見るものから契約を打ち切られ、パイが急速に縮んでいった。これに伴い新聞社の影響力も小さくなっていった。実際は新聞社がテレビ局を操っていたため、そこまで影響はなかったのだが、それでも新聞の時代は終わったと思われるのは決して気分がいいものではない。そこで、各新聞社は日々少なくなっていく需要を奪い合うこととなったのである。

そうしたパイの奪い合いを繰り返すうち、ついに読売新聞と中日新聞の利害が決定的に対立してしまう事態が起きてしまった。両者は一歩たりとも引く気配がなく、どちらも何かなんでも100パーセント自分の意見を通そうとした。なぜなら、相手の条件を飲むということは、自らが持つ新聞界に対する権力を失うことと同意だったからである。仲裁に入った第三者は対立しているのがどちらも球団を持っていたことに着目し、9月30日につぶれた試合の振り替えである、読売ジャイアンツ中日ドラゴンズの試合結果で対決すればどうかと提案した。どちらもそれを飲んだのは、自分の持つ球団の強さに絶対の自信を持っていたからに他ならない。この騒動が10.8決戦と呼ばれているのはその振り替え日が10月8日だったからである。

偶然にも巨人と中日はこの日までに同率首位で並び、10月8日の試合が優勝決定戦となってしまった。新聞社の意地とプライドをかけた戦いはジャイアンツとドラゴンズによるペナントを賭けた戦いと化したのである。この模様はアメリカでも放送され、注目度の高さがうかがえる。

試合[編集]

この試合によって親会社の運命が変わることを知らなかった選手たちは直接対決最終戦で優勝が決まるという状況にピリピリしていた。ただ、巨人側は長嶋茂雄にのみこのことを伝えたため、選手たちに「俺たちは勝つ」と何度も鼓舞し、絶対に勝たなければならないといい意味でプレッシャーをかけた。中日側は選手たちに自分たちの運命を握っていると伝えるのをためらい、いつものようにやれと伝えた。後にこれが決定的な差となる。

試合の内容を詳しく知りたければウィキペディアの同項目を見ればいいだろう。ウィキペディアでは新聞界の覇権を争っていたという裏事情は書かれていないものの、試合内容だけは克明に記してくれている。

結果[編集]

この試合は巨人が中日に6対3で勝ち、巨人がペナントを持ち去っていくこととなった。日本シリーズでも巨人が勝ち、1994年は巨人の年となったのだ。なぜそのような結果になったかというと、これは特別な試合と考えた巨人と、いつものようにやればいいと考えた中日、その覚悟の差がそのまま相はにつながったというのが今の通説である。

この結果により、オーナーである読売新聞は中日新聞から名古屋圏以外でのシェアを根こそぎ奪うことが出来、中日新聞は名古屋のローカル新聞となってしまったのである。東京新聞等中日新聞系列の新聞はあるが、それは読売がかっさらい損ねたシェアを中日名義以外で取り戻すための苦肉の策に他ならない。

10.9決戦[編集]

その翌日にはヤクルトスワローズ横浜ベイスターズの公式戦最終となる同率最下位決定戦が行われた。最終戦が最下位決定戦になったのは単なる偶然である。これはどちらの球団の株式も保有しているフジテレビが、来年以降どちらの球団をひいきして放送するかを決めるための試合であったと言える。負けた球団はフジテレビが試合の放送数大幅カットやニュースでの扱いを小さくする、そして球団ひいき番組を打ち切ると宣言したため、10.8決戦と同様に、球団の経営に大きくかかわる試合となったのである。結果はヤクルトが2-1でサヨナラ勝ち、横浜の最下位が決定した。今に至る横浜の不振は、この10.9決戦に原因の一つがあるのではないかとささやかれている。

なお、このときヤクルトの指揮を執っていた野村克也監督は14年後の2008年10月7日、パ・リーグの最終戦での最下位決定戦(東北楽天ゴールデンイーグルス福岡ソフトバンクホークス)でもサヨナラ勝ちし、最下位を免れた。この試合はIT業界における主導権争いに決着をつける戦いであったとされ、12回表には、●1 ストレート 140km/h 真中中央 ゴロ(二併打)が発生している。

関連項目[編集]

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