金科玉条
金科玉条(きんかぎょくじょう)とは、きわめて大切なきまり、法律、規則のことを言う。転じて、なにかルールやガイドラインに違反した者や、規則の条文で殴りつけられた者が、その決まり事を非難するために好んで用いる語である。「金」「玉」はともに美称であり、出典である揚雄の詩『劇秦美新』の注によれば、「善曰く、金科玉条は法令を謂うなり。金玉はこれを貴んで言う」[1]とある。
由来[編集]
金科玉条は、中国の詩文集『文選』に収められた、前漢時代末期の文人・揚雄(よう ゆう、紀元前53年 - 18年)による詩『劇秦美新』に由来する、故事成語である。原文は以下の通り。
諸吏中散大夫臣雄稽首再拜皇帝陛下:臣雄經術淺薄,行能無異,數蒙渥恩,拔擢倫比與羣賢並,媿無以稱職。臣伏惟陛下以至聖之德,龍興登庸,欽明尚古,作民父母,為天下主,執粹清之道,鏡照四海,聽聆風俗,博覽廣包,參天貳地,兼並神明,配五帝,冠三王,開闢以來,未之聞也。臣誠樂昭著新德,光之罔極。往時司馬相如作封禪一篇,以彰漢氏之休。臣常有顛眴病,恐一旦先犬馬填溝壑,所懷不章,長恨黃泉,敢竭肝膽,寫腹心,作劇秦美新一篇,雖未究萬分之一,亦臣之極思也。臣雄稽首再拜以聞。曰:
權輿天地未袪,睢睢盱盱,或玄而萌,或黃而牙,玄黃剖判,上下相嘔。爰初生民,帝王始存。在乎混混茫茫之時,舋聞罕漫而不昭察,世莫得而云也。
厥有云者:上罔顯於羲皇,中莫盛於唐虞,邇靡著於成周。仲尼不遭用,春秋困斯發。言神明所祚,兆民所託,罔不云道德仁義禮智。獨秦屈起西戎邠荒岐雍之疆,因襄文宣靈之僭迹,立基孝公,茂惠文,奮昭莊,至政破縱擅衡,並吞六國,遂稱乎始皇,盛從鞅儀韋斯之邪政,馳騖起翦恬賁之用兵,剗滅古文,刮語燒書,弛禮崩樂,塗民耳目,遂欲流唐漂虞,滌殷蕩周,㸐除仲尼之篇籍,自勒功業,改制度軌量,咸稽之于秦紀。是以耆儒碩老,抱其書而遠遜,禮官博士,卷其舌而不談。來儀之鳥,肉角之獸,狙獷而不臻。甘露嘉醴、景曜浸潭之瑞潛,大茀經霣、巨狄鬼信之妖發。神歇靈繹,海水羣飛,二世而亡,何其劇與!帝王之道,兢兢乎不可離已。
夫能貞而明之者窮祥瑞,回而昧之者極妖愆。上覽古在昔,有憑應而尚缺,焉壞徹而能全?故若古者稱堯舜,威侮者陷桀紂。況盡汛埽前聖數千載功業,專用己之私,而能享祐者哉。
會漢祖龍騰豐沛,奮迅宛葉,自武關與項羽戮力咸陽,創業蜀漢,發迹三秦,尅項山東而帝天下,擿秦政慘酷尤煩者,應時而蠲,如儒林刑辟歷紀圖典之用稍增焉。秦餘制度,項氏爵號,雖違古而猶襲之。是以帝典闕而不補,王綱弛而未張。道極數殫,闇忽不還。
逮至大新受命,上帝還資,后土顧懷。玄符靈契,黃瑞涌出,滭浡沕潏,川流海渟。雲動風偃,霧集雨散,誕彌八圻,上陳天庭。震聲日景,炎光飛響,盈塞天淵之間,必有不可辭讓云爾。於是乃奉若天命,窮寵極崇,與天剖神符,地合靈契,創億兆,規萬世,奇偉倜儻譎詭,天祭地事。其異物殊怪,存乎五威將帥,班乎天下者,四十有八章,登假皇穹,鋪衍下土,非新家其疇離之?卓哉煌煌,真天子之表也。
若夫白鳩丹烏,素魚斷蛇,方斯蔑矣。受命甚易,格來甚勤。昔帝纘皇,王纘帝,隨前踵古,或無為而治,或損益而亡。豈知新室委心積意,儲思垂務,旁作穆穆,明旦不寐,勤勤懇懇者,非秦之為與﹖夫不勤勤,則前人不當;不懇懇,則覺德不愷。是以發祕府,覽書林,遙集乎文雅之囿,翱翔乎禮樂之場,胤殷周之失業,紹唐虞之絕風。懿律嘉量,金科玉條,神卦靈兆,古文畢發,煥炳照曜,靡不宣臻。式軨軒旂旗以示之,揚和鸞肆夏以節之,施黼黻袞冕以昭之,正嫁娶送終以尊之,親九族淑賢以穆之。夫改定神祇,上儀也;欽修百祀,咸秩也;明堂雍臺,壯觀也;九廟長壽,極孝也;制成六經,洪業也;北懷單于,廣德也。若復五爵,度三壤,經井田,免人役,方甫刑,匡馬法,恢崇祗庸爍德懿和之風,廣彼搢紳講習言諫箴誦之塗,振鷺之聲充庭,鴻鸞之黨漸階,俾前聖之緒,布濩流衍而不韞韣,郁郁乎煥哉,天人之事盛矣。鬼神之望允塞,羣公先正,罔不夷儀;姦宄寇賊,罔不振威。紹少典之苗,著黃虞之裔。帝典闕者已補,王綱弛者已張,炳炳麟麟,豈不懿哉!
厥被風濡化者,京師沈潛,甸內匝洽,侯衛厲揭,要荒濯沐。而術前典,巡四民,迄四嶽,增封泰山、禪梁甫,斯受命者之典業也。蓋受命,日不暇給,或不受命,然猶有事矣。況堂堂有新,正丁厥時,崇嶽渟海通瀆之神,咸設壇場,望受命之臻焉。海外遐方,信延頸企踵,回面內嚮,喁喁如也。帝者雖勤,惡可以已乎﹖宜命賢哲,作帝典一篇,舊三為一襲,以示來人,摛之罔極。令萬世常戴巍巍,履栗栗,臭馨香,令甘實,鏡純粹之至精,聆清和之正聲。則百工伊凝,庶績咸喜,荷天衢,提地釐,斯天下之上則已,庶可試哉!
この詩は、王莽が前漢の帝位を簒奪して興し、その治世によって当時の中華の人口6000万人を2000万人まで減少させる歴史的異業を成し遂げた新王朝『新王朝』を称えたものである。
もっとも、この詩は新の建国時に詠まれたもので、当時文人としてだけでなく官吏でもあり、さらに王莽とは皇帝即位前から顔見知りであった揚雄は、王莽が目指した儒教思想・周王朝時代への回帰政策に対して「秦の治世って……クソだよねー!それに比べて、新ちゃんったら、殷・周時代の偉業を受け継いでるし、マジ三皇五帝、堯とか舜レベル!!重要な法律(=金科玉条)も整ってるし!!!」という具合に、大変なヨイショを含めて詠んだものであった。
なお、この後に王莽が行った政治は、治水の失敗・井田制(社会主義のハシリみたいなもの)の実施による混乱・当時一般に流通していた貨幣の禁止・官僚を生きたまま人体解剖・人体飛行実験など、中華史上最凶レベルの悪政として後世に広く知られることとなり、揚雄は揚雄で新の建国からたった2年で、自身の門人が皇帝王莽の不興を買ったことにより「自分も捕まる!もうダメだ鬱だ死のう」と早とちりして投身自殺を図るなど、どちらも散々なものであったのだが、それはまた、別のお話。
金科玉条は、そんな上記の故事が奈良時代の日本に伝わった故事成語である。
語意[編集]
「金」と「玉」は大切なもの、「科」と「条」は規律や規定、法律という意味を持っている。特に「金」は「黄金」、「玉」は「宝玉」を表しており、これらの語を組み合わせた金科玉条は、「美しい金玉のように貴重な法律や規則[2]」という意味になる。
「金科」も「玉条」もそれぞれ、人がよりどころとして守るべき大切な法律や規則のことを表す言葉であり、「金科」と「玉条」という類義語を2つ併置した成句である。大事なことなので2回言いました。
美辞麗句を並べるにしても、なにもわざわざ敢えて「金」と「玉」を並べて用いる必要もないだろうに…、と思わなくもないが、揚雄は無為自然を説く道教思想に傾倒していたこともあり、ありのままの天衣無縫なその姿を、自らの理想に重ね合わせたとも考えられる。
このように、金玉のように大事な規則を表す金科玉条ではあるが、元来は自身の揺るぎない信条といったポジティブな意味で用いられる語だったものの、近年では専ら、押し付けられた絶対的なルールであったり、融通がきかない規則に対するネガティブな意味で用いられることが多い。しかし、ここまで述べたように、金科玉条は元来、美しい金玉のようなルールを表す故事成句であるため、粗末にせず大切に扱い、王莽が新王朝で目指したような、理想の社会を体現することが望まれる。