毛沢東
Fuck youする毛同志 誰是構わずに喧嘩腰な性格が伺える | |
基本資料 | |
本名 | 毛沢東 |
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通り名 | 毛、ハゲ、けさわひがし |
生没年 | 西暦1893年12月26日~1976年9月9日 |
身体情報 | 毛が禁則事項です |
職業 | 独裁者、皇帝、軍人、神 |
好物 | 権利 |
嫌物 | 資本主義、日本、小醜国 |
出身地 | 湖南省 |
出没場所 | 天安門 |
所属 | 中国共産党 |
親戚等 | |
始皇帝(前世) |
毛沢 東(マオ・ツォートン/けざわ あずま、けざわ ひがしとも、中国のと或る方言ではマオウ・サ・タン、西暦1893年12月26日~1976年9月9日(毛がいっぱいなのに検閲により削除)は中国大陸に毛王朝を建国させた中国のラストエンペラーであり、多くの人間を畑の肥やしにしつつ自らは不老不死の蝋人形となったギネス記録に残るAK47と並ぶ大量破壊兵器である。世界一のベストセラー作家としても有名。ノーベル殺人賞を2度受賞した。 毛沢東は、あまりに多すぎる毛量から頭髪を剃っており一番安定する髪型を毎日模索していたのだが、生前に一番良いと考案されたのがこの犬の耳のなり損ないのような偉大なヘアーである。
各界からの語録[編集]
地球環境の救世主[編集]
- 歴史に残る毛の偉業は、まずは、大躍進事業である。共産主義農法とか言って、畑を1メートルも掘って種子を撒き、大凶作を作った。次に農村製鉄所である。製鉄には多くの石炭(炭でも代用可能)が必要で、炭の原料として山の木を伐採しまくって、洪水を引き起こした。素人が、炭で作った鉄など使い物になるわけなく、鉄くずだけを生産した。鉄くずが生産できる地域はまともな方で、呵責無きノルマをこなすために、なけなしの農具を土製溶鉱炉に放り込んで鉄くずにして、大凶作となった。ごくわずかの製鉄所は増産に成功したが、その使いみちが無く、自動車に貼り付けて、国家建設に消費したことにした。
- 次に真打ちの文化大革命である。これにより、中華ソビエト共和国は古代文明の黄金時代どころか原始時代にまでタイムスリップし、お陰で、地球環境破壊が大幅に食い止められたのである。また、狡い知恵の働くインテリ共を皆殺しにしたことで、学力・教育の格差を減らすことにも大いに貢献した他、プロレタリアート達の溜飲だけを大いに下げたことも特筆に値する。ヨシフ・スターリンと共に、毛は、地球環境破壊防止・人類粛清による地球浄化作戦に貢献した功績を称え、1968年ノーベル平和賞を受賞した。さらに、雀を殺しまくることによって農家達をアヘン戦争時のような顔に仕立て上げ、害虫を増産し地球温暖化に貢献したとも言われている。
なお、その後中国はPM2.5による汚染など環境破壊が著しいがこれは資本主義の犬共が中国人の安価な労働力を求めて中国にホイホイ工場を建設させたせいである。毛は悪くない。
毛沢東の波乱の生涯・前半[編集]
毛は毛人の事とされ、大日本帝国で毛沢とされ、東方にいた殷の紂王系だから東とされた。その後、周からきている周恩来に謀反を起こされるのもこの事であると言えよう。
父は毛沢山(モウ・タクサン)、モウ・アホカト、モウ・アボカドとも言われている。元々はローゼンメイデン第10ドールになる予定で毛沢燈として生まれたが、いつの間にか一字違いの毛沢東になった。そのころ中国は日帝という東の蛮族に攻め込まれ国はめちゃくちゃになってしまっていた。日帝は野蛮なだけでとりえの無い連中だった。その上に狡賢く、中国で毛沢東同志と蒋介石が戦って疲弊するのを見計らって攻め込み、罪の無い女子供をブレーンバスター・バックドロップ・ウエスタンラリアットなどのプロレス技を駆使して皆殺しにした。
中国の人民が苦しむのを毛沢東同志はほうってはおけなかった、そこでヤクザの蒋介石と組んで中国人を救うことにした。ところが蒋介石は自分のことしか考えないヤクザだったから、毛沢東同志の崇高な考えに賛同しなかった。そこで毛沢東同志のお考えを理解していた張学良同志が蒋介石を捕らえ、無理やり共産党に協力させることを約束させた。こうして国共合作はなった。
ところが蒋介石の国民党は自分の事しか考えない愚か者の集まりだったから、日帝と全然戦わないで逃げ回っていた。それに対し共産党の軍隊は日帝と勇敢に戦い、次々と打ち破っていった。これをみて中国の人々もどちらに正義があるか理解し、共産党に協力していった。共産党の圧倒的な強さの前に日帝は壊滅し、中国から逃げ帰った。
ところが蒋介石は卑怯者だから、日帝との戦いで疲れた共産党を攻撃した。しかし全ての中国人は共産党に正義があると理解していたから、皆で蒋介石に立ち向かった。蒋介石は破れ台湾へ逃げ込んだ。こうして毛沢東は遂に自らの理想の塊である支那極大共和国/大支那一党制人民社会共和国を建国した。こうして中国は毛沢東同志の志す理想郷への第一歩を踏み出すことになった。
毛沢東の波乱の生涯・後半[編集]
建国後は「暇じゃー、どっか遠くへ行こう」と勝手に約40000kmに及ぶ大旅行で最初は1万人いた同乗者が最終的には10人しかいなくなったお散歩に行って世界に名をはせた。場所は北京、洛陽、黄河、上海、揚子江、広東、香港、マカオ、成都、重慶、西安、チベット、ウルムチ、モンゴル、吉林省、豆満江、北朝鮮の国境近く、遼東半島、万里の長城の東の端、同じく西の端、そして北京と言う規則正しくない滅茶苦茶なルートで同乗者を減らしたとされる。
しかしその後、鳥だといって害虫駆除の果てに天候が不順になるなどの失政を重ねて、日本を主体として開かれた北京国際軍事裁判(北京裁判)により、死刑が言い渡され、即刻刑が執行された。中国人民は彼の犯罪を忘れまいと北京にある天安門に彼の大きな肖像を掲げ、永遠のさらし者とした。肖像は今ではみんなから落書きされて人民の笑いの的となっている。
1978年、北京で開かれた中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議で鄧小平主席は次のように述べた。
なお英語版アンサイクロペディアでは「Chairman Mao」と表記されているがサッカーでいうチェアマンではなくただ単に「椅子に座っているだけの男、毛沢東」として描かれており、常に用を足していることが書かれている。大のトイレマニアとしても知れ渡っており、写真ではいつでもどこでもトイレ(もちろん大事なところはカットされているが)をしていることが分かる。ただ写真の殆どがトイレをしているところしか写しておらず、その臭さは写真を超えて困っている。
中華民国建国を阻害し、殺人を行使したボランティアんであることも有名。
世界一のベストセラー作家[編集]
毛沢東は、ウィリアム・シェイクスピアやアガサ・クリスティを凌ぐ世界一のベストセラー作家としても有名である。全盛期には『毛主席語録』『毛主席文選』『毛沢東詩選』『毛沢東全集』など、毛の本は出せば必ず1億部売れた。
毛は『毛主席語録』で単一作家の著作書籍の部数としての世界記録を保持しており、その印刷部数65億冊(諸説あり)は、発行から40年を経た現在でもそれに迫る記録すら生まれていない偉大な記録である。日本でも池田大作や大川隆法などのエッセイストが毛の記録に挑戦しているが、10万人程度とされる彼らの熱烈なファンに1人で10冊以上購入するなどの熾烈なノルマを課しているにもかかわらず、書籍一冊での販売記録は毛主席語録には達していない。
尚、聖書よりは売れてないとのk...おや、こんな時間に来客とは珍しい。
関連項目[編集]