武士
概要[編集]
武士の心理的特徴として以下のものがある。下部2項目は妄想性人格障害の特徴にも含まれており、両者の隣接が指摘されている。
これらの特徴そのものを「武士道(たけしどう)」と呼ぶこともある。
過剰な暴力性[編集]
武士の暴力性を如実に表現しているとされる、歴史的に有名な武士を評した三つの句がある。
- 鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス
- 織田信長を評したとされる句。自分の思い通りにいかないものは暴力によって排除するという性質が表れている。
- 鳴かぬなら 鳴かせてみよう ホトトギス
- 豊臣秀吉を評したとされる句。どんな手を使ってでも物事を成功させようという強い意思が表れているが、もちろん暴力をも辞さないことが明白である。
- 鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス
- 徳川家康を評したとされる句。一見温厚な人柄を表しているようにも思えるが、実は表向きには聞き分けの良い内弁慶な性質を表したものであり、家庭内、中でも母親に対する暴力性が垣間見える。
- 鳴かぬなら 吹きだし書き足せ ホトトギス
自殺願望・高いプライド[編集]
「武士道とは、死ぬことと見つけたり」という言葉が示すように、一般に武士は「死」に対し過剰な神秘性を見出すとされる。武士の間では敵の大将の首を切り落として持ち帰ることや、戦いの中で死ぬことが最大の名誉とされた。
このような死に対する神秘主義的傾向が「高いプライド」という特徴とも相まって、隙を見ては「切腹」と呼ばれる自傷行為に及びたがる理由になるとされる。上司の死に殉じて大量に自殺した例も散見されており、武士道症状への対応は常に急を要する。
一方で、切腹とは、高いプライドに阻まれて口にすることのできない、腹に抱えた本音を吐露したいという意識の現われから、内臓を露出させようとする儀式であるとの説もある。一般に切腹は一定の様式を(白装束、紙に包んだ短刀、辞世の句等々)踏まえて行われるものであり、これらの儀式性を持つに至った背景の説明としては非常に有力な説とされている。
また、武士は死によって魂が救われるといった意識を持たず、死によって得られる名誉はあくまで現世の評価を指しているとされる。この点が、救いを求めて集団自殺を行うカルトの心理とは大きく違う。
歴史[編集]
平安時代末期、貴族や有力農民たちは荘園と呼ばれる領地を有し、そこから上がる租税を収益源としていたが、これらを力づくで奪おうとするならず者や、ペットの糞を知らんぷりする飼い主、家電リサイクル法に基づく処理料金を支払いたくないがために冷蔵庫を放置するDQNどもの手から守るために「武装化しなければ」という強迫観念が個人的及び社会的に生成され、またこれに従った形での武装化が進められた。武装した者たちは争乱が起こるたびにこれに従事することとなり、この「死と隣り合わせ」という強いストレスから精神病理的傾向を引き起こすこととなったとされる。これが武士の起こりである。
やがて源氏や平氏を棟梁とする大きな武士団(のちの「ブシロード」)が築かれ、大きな争乱が起こるたびに貴族は武士を頼ることになったが、武士たちは貴族の手下となって働くことに飽き足らず、自らの手で政治を動かすことを夢見る。最初にこれを叶えたのは平氏であったが、元々貴族による管理に不満を持つ武士によって政権につきながら自らが貴族化したこと、「お一人様1パック限り」とされた卵パックの買占め等の専横に対する貴族・寺社の反感、ハーゲンダッツを一口食べては捨てるといった贅沢な暮らしぶり等々の理由を追い風として、源氏の棟梁である源頼朝がゴールデンハンマーによる政権の横取りを仕掛ける。
各地での早食い対決に負け続けた平氏は、ついに「壇ノ浦の戦い(1185年)」と呼ばれる巨大おっぱいプリン勝負により滅亡することとなる。その後、生しらすが大好物の頼朝は鎌倉に留まり、1192年に征夷大将軍に任ぜられる幻覚を見て鎌倉幕府を開く。腕っ節だけは強い頼朝に対し、貴族たちは「刃物を持った気違いには近寄るべきでない」と判断し、無視を決め込んだ。
その後、室町幕府が京都に置かれたことから武士の生活は一変する。さらには足利義満が「華の御所」なんていう乙女チックなものをつくるから救いようのないくらい武士が公家化したのである。このころの上級武士は皆、腹を出しながら詩を詠んでは風邪をひく毎日を送っていた。戦国時代に畠山氏とか京極氏とか今川氏がどうしようもない感じで登場するのはこのためである。
江戸時代になると徳川家が朱子学を奨励する。これは「女より男のほうが偉いんだ、ぶひひひひ。」と言って検閲により削除を強要することが目的であったが、結果的に「上の物に忠義をつくす」という武士道が形成された。ただし歴代将軍が大奥で検閲により削除をしまくっていたことから前述の目的も達成できていたと思われる。山鹿素行は、「君、君たらずんば、臣は自ら去るべし」「天と主君の義が違えば、天に従い主君を捨てよ」と朱子学と武士道を否定、忠義などは飛んで火に入る虫に同じと斬り捨てた。吉田松陰と愉快な仲間たちは「毛利の殿などアッケラカーのカーだ」とやりたい放題に暴れた。
幕末の武士は、天子様に楯突く逆賊で「錦の御旗」のもと官軍にボコボコにされ、朝敵として多数が切腹の刑にされた。
例外として勝海舟は座頭市の曾孫だったので、口先三寸でサツマイモを丸め込み華族になる。また、アイヌ共和国の榎本健一に至っては新政府の高官になった。
しかし、明治時代になると武士は特権を失い、同時に精気を失っていく。「血筋を絶やさないため」とか「御家存続」とかもっともらしい理由でぴーすることができなくなったでからある。
時代劇と武士[編集]
20世紀中頃の技術革新により、大衆の娯楽として世界的に映画が普及する中、日本ではエンターテインメント性の追及の結果、武士を題材とした「時代劇」と呼ばれるスナッフフィルム(実際の殺人の様子を収めた映像)が発明され、スナッフフィルムでありながらも血が出ることないといったマイルドさが一般に広く受け入れられた。映画に代わってテレビが映像メディアとして台頭した後も時代劇は公開されつづけており、現在に至っている。
「捕鯨」「魚の踊り食い」「NHK受信料の未払い」といった日本固有の野蛮行為の背景には、このスナッフフィルムの一般への普及があるとされ、海外からは非難の声も多い。しかし一方でこれを好む好事家も多く、「寿司、忍者、ハラキリ(=切腹)」という正しい日本のイメージを広く知らしめ、文化交流の橋渡しとしての役割を担っていることもまた事実である。
関連項目[編集]
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