東村山市

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もしかして: 埼玉県

東村山市(ひがしむらやまし)は、東京都下の市。武蔵野台地の一部であり、西武鉄道新宿線西武園線国分寺線が利用可能な東村山駅があり、典型的な東京近郊の私鉄沿線の町である。二丁目が存在しないことで有名。

東村山藩の志村公[編集]

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これだけだとそれほど魅力的な場所とは思えないであろう。しかしこの地こそ江戸時代を通じて賢君・名君を輩出し続けた東村山藩10万石志村家が支配していた歴史的に名高い土地である(ちなみに東村山駅はもとは城があった場所に設置された)。藩主の姓をとって廃藩置県後は「志村県(けん)」とよばれていたこの地にあって、「志村けんの(バカ)殿さま」は郷土の誇りであり希望であり夢である。(以下「殿様」を「志村公」と表記。なぜ「バカ」と呼ばれるのかについては後述する)。

加賀102万石の前田家、薩摩77万石の島津家、仙台62万石の伊達家といった大大名と比べることはできない志村家ではあるが、「東村山石高わずか10万なれど、おめでたき殿のおつむは100万石並み」と呼ばれるように、優れた主君によって誉れ高いこの藩は、徳川御三家の地位に匹敵する大廊下詰め伺候が許されるなど、江戸城でも高い格式を与えられた。不自然なくらい志村家が幕府で優遇されたことに対し、志村家が親藩大名だったからだと言う説がある。つまり将軍の御落胤(隠し子)が志村東村山藩を継いだというのである。しかし徳川家子孫たちは真っ向からこの説に反対している。

東村山藩には古式ゆかしい礼法があり、独自の有職故実に基づくやかましい作法があった。歴代志村公は身なりや化粧にも気を配らなくてはならなかった。「清廉潔白」の意味を込めて顔を全部白く塗りたくり、「堅忍不抜」という意味で黒い眉をことさら太く書き、「無駄口を叩かない」決意からおちょぼ口の紅をさし、「たゆまざる向上心」を刻むように天井を見上げるような大きく太いちょんまげを結ったのである。時に鼻の下に鼻毛を書いたり、頬にぐるぐる渦巻きをしたこともあるが、ともかくキンキラキンの金襴緞子(きんらんどんす)の羽織・袴をつけて、刀を腰に差すのが礼装だったのである。

志村公は藩校を優秀な成績で修めた者を家臣に揃え、東村山藩の統治に力を注いでいたのである。「藩の知恵袋」と呼ばれた家老の桑野、「至誠一貫」を旨に身命を投げ打って仕えた「駝鳥(だちょう)三人衆」の肥後・寺門・上島、そして必要以上に多い腰元の面々。特に上島は志村公に対して誰はばかることなく諫言をし、冷水や墨汁や生クリームを落とされても「訴えてやる」などと啖呵をきって、決してその信念を曲げない剛の者として知られている。なお一時期、側用人として田代というキレ者がいたのだが、志村公の恩顧を忘れ脱藩し、2ちゃんねらーによって「ネ申」と崇められるようになってしまい、爾来東村山藩には戻っていないという。

規律正しさが求められた城内にあって、すべての物事の始まりは挨拶からだ、と君臣一体厳しく教育されていた。城内では「元気である・息災である」という意味で「アイーン」と、「便通に悩んでいる人」に便意を促すよう「だっふんだ」と、「気落ちしている人を慰める」景気づけとして「大丈夫だぁ」と大声で挨拶することが守られていた。また殿がちょっと自慢して天狗になったことを自ら家臣向かって戒めるために「そうです、私が変なおじさんです」と言葉を投げかけることも習慣となっていたのである。特に頭の良さをひけらかすような「驕り・高ぶり」は嫌われ、志村公が自分を戒めて常に家臣に「バカ殿」と呼ばせるように仕向けていたことは、彼の思慮深さと奥ゆかしさを示す挿話としてよく知られている。

志村公は城下をそれとなくお忍びで行き来し、世情にも通じ民衆の声によく耳を傾けたといわれている。今でも東村山に残る野火止用水や狭山茶の育成などは殿様の指導によるものとされ、幕府崩壊や廃藩置県の時代の変革があっても城下の人々は志村の殿様を守ろうと命がけで明治政府に抵抗したことで知られている。こうした城主と領民との関係を羨み、熊本県知事から日本の首相となったのが殿様の末裔である細川護煕氏である。彼は常々「志村けんのバカ殿様」が自分の理想とする人物であると公言しており、「平成のバカ殿様」になろうと大きく目標を掲げていたのである。

名誉市民・志村けん[編集]

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江戸時代を通じて東村山藩は幕藩体制のお手本となるような領地経営をしていたこともあって、幕末の騒乱に際しては新政府に味方することなく、敢えて徳川将軍家に味方し佐幕派についたのである。志村公が戦陣の先頭に立ち、挫けそうな武士たちに肘を突き出し「アイーン」と激励したことはこの地に長く語り継がれている。甲州勝沼で敗走した新撰組近藤勇が下総流山で無残な最期を遂げるまで秘密裏に保護していたのは志村公である。

志村公の獅子奮迅の活躍にも拘わらず、幕府方は関東各地で新政府軍に押され始めた。江戸城天璋院篤姫からは激励の手紙が届くも、もはや持ちこたえられず、奥羽越列藩同盟に与しようと辛くも城から抜け出すも、新政府軍に追われる身の上となり、関東各地を遍歴する仕儀となったのである。この時期が志村公にとって最も苦しい時期であった。殿様の身分が敵に分からぬよう、そして追っ手に追われているのをそれとなく知らせるよう、部下たちが敬称を略して、「志村ぁ~、うしろ、うしろ!」と苦心して声を張り上げていたというのはこの時期のことである。

明治維新を迎え、最後まで新政府に抵抗したということで武蔵国東村山藩10万石(志村家)は、上総国請西藩1万石(林家)と並び、戊辰戦争の罪により取り潰されることになったのである。しかも大名名家はそれぞれ華族の地位と爵位が与えられたにも拘わらず、志村家の人々は明治政府に媚びることなく、東村山の地に埋没することを選んだのである。こうした名利に囚われず無欲恬淡に生きる志村一族を「バカ」と呼ぶような輩もおり、もともとは卑下する意味での「バカ殿」という言葉がやがて「本物の大バカの殿様」を意味する言葉として定着してしまったのは返す返すも残念なことである。かくして名家・志村家の事跡はここで絶えようとしていたのである。

しかし志村家の血筋は脈々と生き延びていたのである。1950年に生まれた志村けんこと志村康徳(やすのり)、彼こそが栄光の志村家の記憶を呼び起こすことになったのである。明治初年以来、巷間に隠れていた東村山藩・志村家の嫡流の家に生れ落ちたのが志村けんこと志村康徳だったのである。志村康徳本人も成人するまでそのことを知らなかったそうであるが、元軍人であり教頭まで勤めた厳格な教育者であった父が、遺言として言い聞かせたそうである。父が語るには「志村康徳」の名は尊敬する「徳川家康」の「徳」と「康」にあやかってつけたものであり、やがては志村家の名跡を世に伝えるために自分の息子に大望を託していたというのである。この辺の経緯はあのインチキ辞典ウィキペディアにも載っているので確認せられたい。

志村康徳は父譲りの真面目で一本気な性格であり、この遺言に大きなショックを受けたらしい。それまでは父同様に教職の道を進み、やがては平凡ながらもつつましい人生で終わるものと思っていた。しかし真相を聞いてからは10万石志村家の末裔として、先祖の名に恥じぬよう、東村山の人々のためにこの身を捧げる覚悟で人生の転換点を迎えたのである。ここにいたり朝敵・賊軍の謗りを長らく受けてきた東村山藩の名誉回復に全力を尽くすこととなったのである。

学究肌の志村康徳が最初に手がけたことは、東村山藩10万石歴代藩主の事跡を調査することであった。「東村山藩史」の編纂や、各地の石碑の拓本取り、そして寺社の記録蒐集が主な仕事であり、年に4回のミニコミ機関紙でその調査を小出しに発表する程度であった。しかし東村山住民と肌で触れ合うようになると、一般の人々から隔絶した自分の調査方法に疑問を持つようになった。この状況を打開するためには、やはりご先祖である殿様をもっと広く知ってもらうべきだと、康徳自らが古式ゆかしい白塗り、太眉、おちょぼ口、ちょんまげをして東村山界隈を練り歩き、城内で用いられていたという「アイーン」「だっふんだ」「変なおじさんです」のセリフを道行く人々に投げかけたのである。

初めは奇異な目で見られていた志村公の物真似だが、そのリアルな再現は、東村山の古老を感涙させ、子供たちに尊敬の感情を沸き立たせたのである。まさに「兄さん姉さんパパにママ、じいちゃんばあちゃんお孫さん、そろったところで始めようそろったところで は~じ~め~よ~」のセリフそのものだったのである。こうして「バカ殿」は「郷土の偉人」として再び広く知られるようになってきたのである。

志村公の名誉回復とともに志村康徳が扮する「バカ殿」のコスプレそのものも郷土愛の強い東村山市民の歓呼によって迎え入れられ、好評を博することになったのである。こうした地道な努力が実り、東村山駅前には「志村康徳(けん)扮するバカ殿がアイーンをする銅像」が建てられる事になり、市長や市議会議員といったお歴々が居並ぶ中、志村は名誉市民として大いに讃えられたのである。

東村山音頭[編集]

いかりやが志村を狙う[編集]

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地域の歴史文化振興に貢献したとして東村山で志村康徳が顕彰されていた頃、彼の「バカ殿」での類稀な演技力を高く評価していた人物がいた。ザ・ドリフターズのリーダーいかりや長介である。志村康徳はこの時まだ一介の郷土史家に過ぎなかった。しかしこの才能を東村山だけで埋没したままにしておくのは余りに惜しいと、いかりやは何度となく交渉をしていたが、志村からは「これはあなたのお考えになっているギャグなどではなく、東村山市の歴史文化と伝統のためなのです。浮わついたお話なら、失礼ですが、お断りさせていただきます」と、にべもない返事を繰り返すばかりであった。

志村版・東村山音頭の誕生[編集]

いかりやは志村の人柄にますます惚れこむようになり、志村をドリフのメンバーにする手筈を整え、嫌がる志村を引っ張り出し、この当時お化け番組として知られていた「8時だョ!全員集合」への出演を一方的に進めていた。「全員集合」は公開生番組でもちろん全国ネットで生中継である。特にこの番組の中盤の「少年少女合唱団」のコーナーは、ウィーン少年合唱団をはじめとする世界的な合唱団が招かれ、指揮者に扮したいかりやとウィットの効いた軽快なジョークを交わすコーナーであったが、このコーナーに無理やり連れて来られた志村は、緊張と不安でろくに他の出演者と声を合わせることもままならなかったのである。

そしてその日おもむろにいかりやは何の準備もしていなかった志村を指名し、ソロで歌うように言いつけたのである。生放送であり、逃げ場のない会場。満場の視線を気にしつつ、志村はまな板の上の鯉だと観念し、「私には皆さんのようなご大層な歌は歌えません。せめて郷土の誇りである「東村山音頭」を歌わせていただきます」と前置きを言うや、マイクを持ってアカペラで「♪東村山ぁ~庭先ぁ~多摩湖ぉ~」と歌いだしたのである。いかにも舞台慣れしていない様子ではあったが、民謡調で哀切極まる歌声は会場の人々に異様な感動を与え、スタンディングオベーションがひきもきらず続いたのである。

東村山音頭の謎[編集]

ちなみにこの「東村山音頭」は志村のオリジナルではない。1963年にキングレコードから発売された三橋美智也・下谷二三子のものが元祖である。東村山市民でないと理解にしにくいキーワードがあるが、いつしかアンサイクロペディアの項目が補充されることを期して列挙しておく。多摩湖狭山茶どころ・八国山伊豆殿堀二瀬川久米川小河内ダム浄水場・・・etc・・・

志村はこの三橋・下谷版を「全員集合」で歌っていたつもりだったが、余りの緊張のため歌詞を一部間違え、オリジナルにはない「四丁目」「三丁目」「一丁目」の地域名を無理やり入れてしまったらしい。却って東村山市民からは「愛郷心に富む」と評価され、そのままの形が踏襲されることになったのである(一説には志村が芸能人全国区デヴューのため三橋・下谷版のあまりにローカルな情報は省いたという説もある)。それはさておき、志村版では「~丁目」それぞれ地域住民の性格をよくつかんでおり、作詞のみならず振り付けまでも住民に合わせたという志村の人間観察力には定評がある。それぞれの「~丁目」の特色を以下にあげよう。ところで何故「二丁目」がないのかについては、志村も東村山市当局も何故か沈黙を守っており、大きな謎となっている。

  • 東村山四丁目

狭山茶農家関係者が多く、ガンコでコンサバな東村山の保守層を代表する。TVで流す東村山音頭に抵抗が大きいと言われたが、実際流されると情けが厚いこともあって、志村けんを応援する一大勢力となった。

  • 東村山三丁目

東村山の観光地化を進める商工業関係者が中心で、熱っぽくて冷めやすい甘えん坊のお調子者が多い。「ちょいとちょっくらちょいとちょっと来てね」などこの地方特有の言い回しを日常でも用いている。

  • 東村山二丁目

東村山市最大の謎である。志村けんの「東村山音頭」が流されると、この地域はテレビのスイッチを切る習慣があり、回線まで切って電灯まで消されたという黒歴史がある。当局は何かをなかったことにしたいらしいが、どう考えても大人の事情なので後はお察し下さい

  • 東村山一丁目

東村山の伝統工芸の職人が多く住む。彼らは磨き抜かれた技で東村山音頭にふさわしいコスチュームを仕上げることで名高く、実際志村けんの着ていたコスチュームの多くはここの職人のものである。特に評判が名高いのはチャイコフスキーの「白鳥の湖」のバレエの精神とと東村山音頭の和の心を組み合わせた逸品で、レースと飾りの花と股間に据えられた白鳥の首が目立つチュチュである。一丁目では町民そろってこのコスチュームに身を包み、志村の踊りに合わせて、激しく「いっちょめ、いっちょめ」と踊りまくることで知られている。


もちろん西武東村山駅の発車メロディは東村山音頭である。1番線が1丁目、3番線が3丁目、4番線が4丁目であるが、他の番線は通常の西武鉄道の発車メロディである。

憑依芸人・志村けん[編集]

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志村はこれを機会に正式に芸能界入りし、ドリフの新メンバーとなったのである。志村康徳はここに名実ともに「志村けん」となったのである。殿様の子孫であり「名誉市民」でもある名だたる郷土史家とはいえ、単なる素人がここまで大抜擢されるとはありえない話である。このようなことは他に例を見ない。そのため歴代志村公の霊が降りてきて、子孫である彼を導いたのではないかとも言われている。志村けんが世に「憑依芸人」と呼ばれるのもこうした経緯があるからであろう。

重力異常[編集]

将来の国教化を目指し、とりあえず八王子市や常勝関西と共に市教となっている宗教をバカにした市議が、市内でエクストリーム・自殺を行ったとされている。実際は、東村山市付近の地下は豊富なDHMOを含み重力異常がよく起こることが知られており、他の地域では物理学的・航空力学的に起こりえない、生身の人間の空中浮揚が可能である。練達したサマナであれば重力波をコントロールし安定した飛行が可能であり、日本角界もアフガン航空相撲の稽古場とするなど、東村山はエクストリームスポーツやスカイスポーツの聖地として世界的に注目されている。

出身有名人[編集]

  • 鳥谷敬(野球選手。阪神へ海外移籍した苦労人)
  • ユージ(生まれはアメリカ。JOYとウエンツ瑛士のものまね芸人)
  • 原田泰造(芸人、曲がったことは大嫌いと言うのが持ちギャグだが、最近は俳優業へ曲がっている)

関連項目[編集]