李治
李治(貞観2年(628年)-弘道元年(683年)12月4日)は、中国唐第三代皇帝。字を為善、幼名を稚奴。諡号、天皇大聖大弘孝皇帝。廟号、高宗。在位649年-683年。
若い頃は王皇后、晩年は則天武后と相次いでおっかなーい年増な皇后に操られ、最後は現職のまま権力の座を追っ払われたという恥辱を味わった。いじけた挙句、天皇を自称するなど悲哀たっぷりな一生を送っている。一方で、ツーリングを趣味とし、自由人としての楽しみを謳歌した。
生い立ち[編集]
唐二代皇帝・太宗の9番目の子として生まれたが、父のおしおきでは嬉しい悲鳴をあげず痛がるばかりだったので後継者とは目されず、隋の煬帝外孫である呉王が太子に立てられる。だが、母方の伯父である朝廷最高権力を握る外戚の宰相にして妖術師の長孫無忌によってドMな性格に生まれ変わり太子の地位を獲得し、呉王は長孫無忌の策謀によって一家とともにあの世に送られた。
この頃から、尼僧に変装する趣味を覚えた李治は尼寺に侵入し、そこで太宗の後宮に入っていた武后(のちの則天武后)と出会うのである。だが、不審者と見られた李治はきついおしおきを受けたが「あんまり虐めないで」とMッ気たっぷりな態度をとったため武后に気に入られ、夫婦(半ば奴隷)となった。
だが、夫婦倦怠期に武后の姉の娘に手を出した事がバレて緊張関係となり、武后から強い電磁波攻撃を受けた皇帝李治は眼病を患い政務を滞らせる結果となった。折りしも高句麗占領という歓喜に国中が沸いているのを利用し、皇后廃立を画策したが、これも武后のしるところとなり逆に刺客を送られて命からがら逃げ延びた。
ついに皇后に政権をすべて乗っ取られ、嫌気がさした李治は、執拗な武后の電磁波をかわすため特製サングラスをかけてひきこもりを続けていたが、自分お姿に自惚れて、じっとしてられなくなり珍しい仏像を求めてツーリングに出かけ第二の青春を謳歌した(模様である)。