日暮里

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
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日暮里(ひぐれさと)とは、東京荒川区の地名。西の方を望むと鮮やかな夕陽が拝めることから「日暮れの里」と呼ばれ、それが転じて「日暮里」と呼ばれるようになったようである。「日暮れて道遠し、日暮れの里」それが日暮里である。この街は別名「黄昏の里(トワイライト・ヴィレッジ)」、暮れなずむ夕陽に何故か涙がこぼれる落ち目の人々をひきつけてやまない街である。そもそもこの地で夕陽を見て初めて泣いたのが太田道灌であり、その時夕陽に向かって「青春のバカヤロー」と叫んだらしい。その故事に因み、涙を流し嗚咽している道灌の銅像が建てられている。

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駄菓子屋壊滅[編集]

日暮里はここ数年大きな変化があり、かつての面影を急速に失っている街である。下町職人が集まる街であり、服飾産業の問屋街でもあり、「石鹸の国」吉原の入り口でもある・・・。日暮里はこのように様々な顔をもっているが、最近この地でほとんど壊滅してしまった業種に「駄菓子屋」関連の問屋がある。かつては駄菓子屋の帝国とも呼ばれた日暮里。駅からこの地を眺めればそれこそウサギの巣のような低い屋根の駄菓子問屋がうじゃうじゃ軒を連ねていたのである。その数は1000軒をはるかに超え、素寒品(スッカンピン)な荒川区の税収を補ってなお余ったと言われている。かつて荒川区役所には「駄菓子屋さんを顕彰する碑」がでーんと建っていたらしいが今は跡形もなく、何事もなかったように撤去されている。

多くの年配者にとって「駄菓子屋」という言葉は、かつての子供時代の郷愁を誘う言葉であろう。駄菓子特有の微妙な匂いに誘われて、青っぱなたらしてるひねたガキがわいわい集まり、手垢のついたチャリ銭が飛び交う。いつもは老人特有の緩慢な動きのばあさんが、目ざとく万引きしてるガキを見つけると、目にもとまらぬ俊敏な動きで腕をつかんで頭をボコボコにしていたのもよく見たものである。まさしくレトロ昭和の懐かしい光景である。

この商売をやっていた業者には、最盛期にはガキというガキから集めまくった儲けで、豪遊しまくったり、「駄菓子御殿」を建てた猛者もいたらしい。それにつけても平成生まれの諸君には10円20円の小商いで儲けまくる、ということが俄かに信じがたいかもしれない。詐欺まがいのあこぎな手口でいたいけなガキからなけなしの金をふんだくったと早計してはなるまい。いやいやそんな小商いであっても駄菓子屋が楽々と経営できる時代があったのであり、東京オリンピックあたりまでガキは掃いて捨てるほどうじゃうじゃしていたのである、そしてそれがそのままうじゃうじゃ老けたのが団塊世代である。少し減らしたいぐらいである。

東京の下町であってさえ駄菓子屋というもの自体が、街という街から消滅しているご時勢である。どこで仕入れたんだかわからないビリジアンやショッキング・ピンクに染まった着色料べったりの駄菓子、しかもご丁寧に合成保存料がむらなくまぶしてあって、病院からくすねてきたような薬品のにおいがぷんぷんするようなその駄菓子が山と詰まれ、終戦直後もっと言うと戦前にスタンプが押されたような得体の知れない玩具が何の不思議もなくぶら下げられていた駄菓子屋。これらは21世紀に入って絨毯爆撃を受けたかのように壊滅したのである。もはや日暮里で駄菓子屋を見つけるのは至難の業である。

2004年の駄菓子問屋立ち退きの日は、日本全国津々浦々から往年の駄菓子ファンが集まり、いい大人というかすでにおっさんである彼らが安いシャツに半ズボンをはいただけという格好で駆けつけた。こうして「見た目は子供 頭脳は大人!」の江戸川コナンの逆を行くような、「見た目はおっさん 頭脳は子供!」のおっさんが数々の思い出を胸に駄菓子を大人買いしていったことで、この界隈の最後を締めくくるよい思い出になったに違いない。しかしまだ手癖の悪い奴がいて、どさくさまぎれて最後の万引きをしていたようである。

日暮里の駄菓子屋壊滅には様々なウラがあるとされている。ここまで読んできた諸賢はもうお気づきであろうか。実はこの「駄菓子」そのものを抹殺したのが「スイーツ(笑)」と「デパ地下」軍団であったらしい。「和菓子」を「和スイーツ」と言い換えることはできても、「駄菓子」を「駄スイーツ」と呼ばせることはできなかったからである。そのため連中は腹いせのためか、駄菓子の存在を抹殺しようとしたものらしい。さすがに悪辣な両者の存在に荒川区役所も危険を察知したのか、駄菓子職人養成講座を設け、一級職人を人間国宝にまでしようとしたらしいが、すでに時遅く、トキのように絶滅寸前になった駄菓子屋は、日暮里駅前ビルの「日暮里・駄菓子屋保護センター」でかろうじて細々と生き残っている模様。

京成族の天下取り[編集]

日暮里がこのように変化したのはこの街の産業の90%を牛耳っていた駄菓子屋業界を根絶やしにしてしまったところが大きい。この犠牲で今日の日暮里がある。日暮里・舎人ライナーの開通、JR駅ビルの改修、そして成田スカイアクセスの開通と、ここのところ日暮里を取り巻く情勢はすさまじい。中でも京成族の近年の凄まじさは言葉にし尽くしがたい。いや、もとからスゴかった訳だが。なお、京成族は、新型スカイライナーの宣伝に「都心から36分で成田空港へ」と宣伝しているが、その「都心」は「日暮里」であることに注意を要する。なお、田舎者のために説明すると、「日暮里」は「副都心」の一つ「上野」よりさらに、本当の都心からは遠い。

谷中銀座で会いましょう[編集]

西のない日暮里[編集]

そう言えばJR日暮里駅は荒川区西日暮里二丁目にある。JR西日暮里駅は荒川区西日暮里五丁目にある。「西のない日暮里」は実は存在しないのである。(東日暮里?そんなものは知らん。)

関連項目[編集]