徳川秀忠
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徳川 秀忠(とくがわ ひでただ、1579年~1632年)は、徳川王朝の第2代将軍である。幼名は長丸、もしくは長松。
家康の三男(土井利勝、永見貞愛(さだちか)を併せると五男の説もある)、生母は西郷局(お愛の方)で、同母弟は松平忠吉(忠康)。異母兄は岡崎信康、結城秀康。異母弟に松平信吉(武田信義)、松平忠輝ら。のんびり屋で、人が好く温厚だがヘタレでうっかり屋。蔑称はボンクラ公方。おっかない嫁を持った恐妻家としても知られる。しかし実は腹黒との噂も。
略要・人物[編集]
おバカ秀忠の逸話[編集]
- 関ヶ原の戦いにおいて真田昌幸と真田信繁(幸村)父子の罠にはまってノロウイルス入りのうな重を食べてしまい腹痛でのた打ち回って結局関ヶ原に大遅刻してしまった。
- そのため父家康から「たわけ者!! うつけ者!!! この徳川随一の阿呆が~ッ!!!」と峻烈に叱責された。
- しかし、付家老の榊原康政の必死な弁護によって、怒りを収めた父家康からなんとか意外に軽い?罰として江戸城の外堀を100周走らされた(その時、同じく付家老本多正信は「ボンクラのせいでせっかくの舞台が台無しだ」と舌打ちした)。
- 異母兄秀康や同母弟忠吉の方が優れていると言われて頭に来た秀忠は秀康と忠吉に決闘を申し込んだ。結果、見事ボコボコにされた。
- 父家康は「嗚呼…後継者がこんなボンクラしかいないために長男の三郎がこの世にいないのが悲しいわい」とうっかり漏らしたという。
- 正信の嫡子正純からも「ボンクラ公方かつバカ将軍だな!」呼ばわりされ、バカ扱いされている。
- そのため、関ヶ原の戦いの後の将軍後嗣の会議で、正信らは異母兄秀康を推し、井伊直政らは同母弟忠吉を推すなど、家康の息子の中でもバカっぷりを披露された。
- そのことを聞いた福島正則に鼻で笑われた。後々福島が改易処分を食らったのも、秀忠がその事を根に持っていたゆえの報復とも言われる。
- 秀忠を推したのは、生まれた時からの筆頭付家老で、唯一の味方の大久保忠隣ただ一人であった。
- 異母弟の忠輝を極端に恐れ、寝床でおねしょを漏らしたという。
- 寝ぼけてパンツ一丁で江戸城に登城するのは日常茶飯事。
- 武家諸法度の発布を宣言している最中に放屁してしまい将軍の威厳が台無しに。
- 怖い鬼嫁の虐待に耐えかねて、側室のお静ちゃんと遊んだ夜キスマークを消し忘れて嫁に半殺しにされる。ちなみにその時保科正之という子供が出来てしまったため、その事をお江与に隠すため別の家(保科家)の養子にさせ、お静ちゃんと別れた(しかし、その後もお静ちゃんを忘れられなかったらしく、『風雲児たち』などと言う保科正之マンセー漫画によれば静らしき位牌を握りしめて死んでいたという。本当にどうしようもない男である)。
- 仕事の合間に集めたエロ画像で性欲を満たしていたら嫁にバレて窓からPCを投げ捨てられた。
- こっそり隠れて2ちゃんねるに父家康や嫁の悪口を書いていたが、利害のみの腹心の柳生宗矩に通報された。秀忠はカミさんからケツ叩き1000回の刑に処された。
- 大坂の陣では出陣の時が迫っているのを忘れて時間スレスレまでアニメを見ていた。家臣が知らせに来てはっと気がついた秀忠は大慌てで支度をして出陣した。その為鎧を上下逆さまに着てしまっていたがそのことに気付かなかった。
- そのために嫁さんから「アンタ!! 私の大嫌いな姉貴(信長の娘とされる淀君)を何としても滅ぼすのよ!!!」と尻を蹴飛ばされて、しぶしぶ出陣した。
- そのため、近江国守口まで、昼夜問わずに「早く大坂城まで急いでYO!」と叫んで軍勢を強制進行したため、睡眠不足によって多くの兵隊がヘトヘトとなり、疲労や病気で使い物にならなくなったので、父・家康から「たわけ者! うつけ者!! 貴様は関ヶ原の二の舞を踏む気かーッ!!!」と逆鱗に触れてしまい、「やはりお前はボンクラだ!! 軍事指揮者としては使い物にならん! 大坂城攻撃ではお前を将から外すからな」と言われてテンションを下げてしまい、落ち込んでしまった。
- 秀頼が禿鼠の子ではなく、父家康の落胤だったことにショックを感じトラウマとなった。
- 父家康がなぜか「可愛い倅の秀頼を大和か石見30万石の大名とし、松平姓を与え準親藩扱いにしよう」と言い出し、秀頼に対して異常に贔屓することに妬みを覚え、秀忠は「予は絶対に秀頼を嬲り殺すYO!」と誓ったが、もともと意志が弱いので、本多父子から「所詮はボンクラ公方よの」と絶望させた。
- 父が避けて通った石矢魔に目にもの見せるために自ら陣頭に立って進軍したが、未来からやって来た男鹿辰巳とベル坊にボコボコにやられ、家康から叱責される。
- 古田織部を尊敬している。父家康がゲヒ先生(織部)に切腹を命じた時には、抵抗するも父から「阿呆は黙ってろ!!」と蹴られる(へうげものを参照)。
- 1623年で将軍職を辞退したのは、春日局から「上様はお遊びが大好きでしょう?家光殿に譲位されれば、茶道・和歌・舞踊を好き放題に楽しめますよ」と囁かされたから。
- 実は側近の藤堂高虎、柳生宗矩らからも密かに「ボンクラ公方、リアルバカ殿」と馬鹿にされていた。
- 父家康から「秀忠、俺の夢は増上寺と寛永寺に徳川の骨を埋める事だ!」と言われ、死後自らを増上寺に埋葬する様に指示した。
秀忠の功績?[編集]
- 徳川幕府の支配体制を盤石の一枚岩に固めたのは彼の功績である。しかしそれ以上にヘタレで間抜けな失態が目立った為後世における評価はロクなもんじゃない。
- 父・家康以上の倹約家でありコツコツ金を貯めた。しかし3代目の家光が湯水の如く使ってしまった。
- 一説には徳川埋蔵金は全て彼が埋めたとも。
- それなのに家光は彼を将軍として勘定に入れず、自分のことを2代目と自称していたらしい。少なくとも家光が批判していい人物ではない。
- エクストリーム御伽衆を考案し、数々の大名を改易した。
秀忠腹黒説[編集]
- 妻の尻に敷かれている腹いせに、外様の福島正則をいびって改易した。
- 自分より人望がありそうな異母弟・忠輝に妬みを抱いて改易し流罪とした。
- 息子・家光に「大名には出来る限り言いがかりつけて改易しろ!!」と言うも「るせぇ!! ボンクラオヤヂが。俺は俺のやり方でやる!」と反論されて凹んだという。
- 家光の苛烈な武断政治は秀忠の教育の賜物との説があるが、実際は家光の母とされる春日局のおかげだとか。
- 将軍の威光を示すも、嫁さんから「親の七光りのくせにナマイキだよ!!」(あんたも似たようなもんだろ)と言われて、終始頭が上がらなかったのだからやはりヘタレである。
- 「殿ってば、あの鬼畜ババアとしかヤってないんだってよ…」とうっかり口を滑らせた愚か者を、メッタ刺しにしてその場で、SATSUGAI したことがあるという。
- ある日、秀忠いつものごとくうっかり城内で放屁してしまった。その様子を一人の旗本が笑ったが、翌日からその旗本は姿を消した。言うまでも無く秀忠に粛清されたのである。
- 江戸城中に盗聴器と監視カメラを仕掛けて自分の悪口を言うものや怪しげな行動をする物を監視していたと言われる。
- ぶっちゃけ、隆慶一郎の小説を読んだ方が手っ取り早いと思う。“柳生宗矩との陰謀と暗殺ツープラトンがアツい”。でも命が惜しければ、秀忠×宗矩本なんか妄想しないことだね。
- 功名心も独創もなく、極端なほどの現実主義者で慎重家。二代目としてはこれ以上ないほど理想的な人物ともいえる。ていうか親父の家康にしてみれば信長の子信忠みたいなもんだけどさあ~(実際の信忠は兄信康よりも優秀で、禿鼠の陰謀による早死にが惜しまれたほどの人物である)。
- 宇都宮城での釣天井事件で、その藩主の本多正純を冤罪で改易&流罪としたが、その理由は「正純は予を“ボンクラ、バカ殿”としょっちゅう言ってたから、すごいムカついてたんだYO!!」とコメントしている。
秀忠阿呆説[編集]
- 大坂の陣の最中にすでに父の家康がくたばったら、徳川家は彼の代で間違いなく滅亡。
- 泰平の凡君・乱世の暗君と噂される人物(今川氏真と同じ)。
- 政治家としては平凡か愚鈍。武将としては典型的なへタレ(秀忠の指揮下の将兵はたまったもんじゃない)。
- 実は、劉禅の生まれ変わりで「今公嗣」と呼ばれているとか(同じボンクラ氏真は劉璋の生まれ変わりらしく「今季玉」と呼ばれてるらしい)。
子息[編集]
- 長丸(長松) - お江与に毒殺、お灸で殺害された説がある。
- 徳川家光 - 春日局の子という説が最有力。実の父親は秀忠でなく家康という説もある。
- 徳川忠長 - 松平長七郎の父とされるが妄想に過ぎない。
- 保科正之 - 会津松平家の開祖。メガネっ子保科智子の祖先でもある。
関連項目[編集]
この項目「徳川秀忠」は、歴史に関連した書きかけ項目から歴史に残る記事に進化しなければならない。
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先代 徳川家康 1603年-1605年 |
徳川幕府将軍 徳川秀忠 1605年-1623年 |
次代 徳川家光 1623年-1651年 |