中嶋悟

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中嶋悟(なかじま さとる、1953年2月23日 - )は、元F1ミサイル。日本人初のF1チーム正式採用となったミサイルである。後に退役し、オーディション事務所「中嶋企画」を立ち上げる。

F1参戦前[編集]

中嶋は下働きを重ねながら小遣いを貯め、当時現在の高校生バイト程度の給料で走り回っていた。そしてデビュー戦はいきなり3位に上がり、2年後にはシリーズチャンピオンになるなど、基本性能としてはなかなかのものを見出された。その後は下位のフォーミュラクラスの改造を受ける。以前から自身の開発能力は高く評価されており、下位チームに移籍しても後に3連覇を成し遂げるなど、国内ではまさしく中嶋無双だった。しかし、運の悪いことに、国内でいくら中島無双状態であっても「いくらボクが実績をあげても、日本一速い男が別にいるんだよねえ」と本人がぼやくほど、当時は環境に恵まれていなかった。

仕方がないので、国際F3000にも参戦。ようやく、F1の名門ウィリアムズのミサイルをテストするチャンスを得るなど、当時誰もが夢見ていた「日本人がF1ミサイルになる」という機運が高まっていた。しかし参戦を決めた1987年には、17歳の2倍という「ベテランルーキー」になっていた。

日本人初のF1正式採用[編集]

たった一人でその扉を開いた中嶋。17歳の2倍という今のF1では引退も考えられる歳であったにもかかわらず、名門で名高いロータスで改造を受けることとなった。そして当時最強を誇っていた異次元テクノロジー満載のホンダエンジンを武器にもらう。このルーキーイヤーの相方は後にF1の神となる音速の貴公子であった。

しかしF1の壁は想像以上に厚かった。国内で中嶋無双をプレイしていた中嶋は世界のギャップに苦しむことになる。確かにエンジンは良かったが、主にマシントラブルに泣くハメになるなど、決して楽なものではなかった。でも言い訳はしなかった。一言エライと言っておこう。ルーキーであったにもかかわらず度々光る快走を見せ、最高位は4位の計7ポイント(当時入賞圏内は6位)をもたらす。ポイントゲッターのセナも彼の走りを「もっと若かったら大成していた。本当に惜しい」と評価するほどであったのだ。このときセナは「まるでカジキマグロのようだ」と語った。これが後に彼が生み出すカジキフォームの始まりだったのだ。

苦難の日々[編集]

2年後の1989年、ロータスはホンダに見放され特売セールで叩き売りされていたジャッドエンジンを渋々手にすることとなる。ジャッドエンジンは専ら壊れやすいとの評判であったために1988年から一緒の元チャンピオンのネルソン・ピケも手こずっていた。まだパワーがものを言う時代だったためかエンジンに執着しすぎて肝心の駆動系やサスの開発がほったらかしにされていたためにアップデート内容はガタ落ちし、ピケですら度々予選落ちを喫するハメになってしまう。エンジンもたいした成果が挙げられず充填されていたバルサンが吹き荒れる日もあるくらいであった。何せガソリンの代わりに入れてたんだし。

そんな中、中嶋は水面下でカジキフォームの開発にいそしんでいた。中嶋はカジキマグロになるべくありとあらゆる訓練を重ねた。この人知れぬ努力が後に語られる伝説を作ることとなる。

カジキのごとく![編集]

最終戦のオーストラリアGPで、中嶋を見たチームは驚愕する。中嶋の全身がカジキのごとく濃紺とシルバーのツートンに変化していたのだ。しかしそれ以上に目立つのはカジキのごとく尖っているノーズだった。これでは相手をノーズで刺し殺してしまうではないかと叱られたが、予選ではミスって下位に沈んでしまう。しかし決勝は大雨であった。この濡れた路面がカジキフォームの真価を発揮させるのだ。トップドライバーが次々リタイアする中、大雨の中を泳ぐように突き進んだ中嶋は気がつけば3位を走る鉄人を追い回していた。しかしいよいよというところでタイムアップ。4位フィニッシュで惜しくも日本人初の表彰台を逃した。しかし日本人初のファステストラップを記録したのだ。(ちなみに翌年に電気系が日本人初の表彰台を手にすることになる。)

その後も雨のレースで目の覚めるような走りをみせる。1991年サンマリノGPでは4位を走っていたがここでもトラブルに泣かされリタイア。しかし雨の中黙々と順位を上げ続けた中嶋は他のチームにとっては大きな脅威となっていた。あるジャーナリストが発した「中嶋は表彰台に昇れるだろうか?」という本人が聞いたら激怒しそうな質問に、ある評論家はこう答えている「無理だろ。でも全てのレースが雨だったら話は別だ」と。でも雨じゃないとかえって遅い欠点があった。何しろ魚が水陸両用なわけじゃないし、本人もフォームを好きなときに変えることが出来なくて困ることもあった。しかし変身前に比べれば基本性能は大幅に向上しており、安定感が増したため、結果的には元から持っていた後方からでも確実に追い上げるほどのポテンシャルを生かすことができたのだ。

中嶋のカジキフォームの欠点を後のF1ドライバーである息子が克服したとされているが、父のもつ雨での爆発的なパフォーマンスは犠牲となり、そのかわりいつでもフォームチェンジできるようにはなった。が、せっかく得たフォームチェンジをうまく使いこなすことが出来ず、苦戦が続いている。そして息子は彼の付けられていたコードネーム「NaKajiki」をもじり「NaKajiki-Mk.II」を襲名したのであった。なお、カジキフォームの詳細は息子の項目を参照されたし。

関連項目[編集]