中山道
中山道(なかせんどう)とは、とても大事な江戸時代の幹線だったらしい。
概要[編集]
江戸時代に東海道、日光街道、甲州街道、奥州街道と共に5大幹線とされた街道が中山道である。中という字が入っているだけに、外国人が見ると最も大事そうな街道に聞こえてくる。早速、街道を鉄道時刻表と対照しながら69宿と東海道53宿より多い宿場町を巡回していこう。
道中[編集]
江戸~軽井沢[編集]
大江戸の日本橋を出発したら、まずお婆ちゃんと囚人に人気の高い巣鴨の地蔵通り商店街で最初の買い物を済ませ、東北本線ではなく埼京線の近くで蕨もちを食べ、県庁所在地のはずの浦和であっさりと快速列車に通過されていくのを目撃する。そして、大宮で東北本線と別れたら、新幹線と並走しているのに本線を名乗れていない高崎線に沿いながら、高崎まで北上していく。午前中に旅すれば、ありえないほど長大で空気を輸送している下り列車と並走できるはずだ。
熊谷の辺りまでは、江戸時代からずっと大江戸の経済圏だ。江戸時代からずっと、大江戸に本拠を構える大店舗に支配されていて、今日でも多くの民が江戸に向かう満員の上り列車に吸収されていく。人を食う江戸の嵐から逃れられない民のことを思いつつ、熊谷では「あなたの幸せが私の幸せ」と数少ない土着企業を思いながら通り抜けよう。深谷は、近代経済を築いた渋沢栄一の生誕地だ。2時間ばかり離れた血洗島が厳密な意味での生誕地となっている郷土の偉人だ。そのあとは世界文化遺産指定された製糸産業の遺産を慎重に回避しながら高崎へ向かう。そうしたら、前橋城には目もくれず、本線扱いのはずなのに東京駅に直通しない2両の列車を片目に、横川まで信越本線と並走する。伝説の安中榛名駅に行くのなら、安中駅でなく松井田の宿から向かうのが王道だ。
ここから先が碓氷峠となる。地元客が空気なので廃線になった鉄道跡と並行しながら山道を登り下りすると、軽井沢に到着だ。中軽井沢という駅名になった沓掛の宿で一泊しよう。
軽井沢~塩尻[編集]
起きたら、北陸新幹線の開通で天下のJRから経営分離された鉄道線と追分でお別れして新幹線の下を歩く。ただし、新幹線はトンネルばかりなので、間違ってもトンネル内に入らないように。正しい出口は佐久平ではなく、岩村田だから間違えてはならない。
ここから先は、上州ではぐれた博徒たちが辻斬りをしていたという険しい峠地帯だ。なんでこのような道が五大街道なんだと思うような険しい道がどこまでも続く。すれ違う人間はまれだ。この辺りは雪も多いからくれぐれも用心するように。明治時代、この辺りに鉄道路線を通そうとした官僚がいたが、そのような官僚は五大街道扱いされていたから需要十分と踏み、現場は一切歩かなかったに違いない。
このような道が下諏訪まで続く。諏訪大社の中心があるのに特急列車が一部しか止まらない駅が見えたら、上諏訪を経由して甲州街道で江戸へ向かう大名行列にひれ伏して先を急ごう。岡谷も辰野も経由せず、中央本線の新線ルートより早い緑の道をまっしぐらに塩尻まで進む。とはいっても中央本線が東西に分断される駅までは行かないで、平出に泊まるのがコツだ。そこだと、知名度では勝沼に劣るが、量では負けていないブドウをおまけでもらうことができる。
塩尻~恵那[編集]
この間は中央本線と並行して、奈良井や宮ノ越などたくさんの宿場がある。1日10本ちょっとの普通列車が、本陣からほんの少しずれた特急の止まらぬ駅にやってくるから、運が良ければその短い車両を拝めるかもしれない。どれほどいたのか分からない不届き者の脱出を監視する関所があった木曽福島駅には例外的に特急が停車するが、本陣までは30分くらいの時間を見込んでほしい。南木曽じゃなかった三留野と上松の様子をあげつらうのはこの地域の禁則事項だ。
南木曽から中津川までは中央本線を通らない。馬籠の宿場町は島崎藤村のご先祖さまが夜明け前を求めていた聖地だ。明治の大火を超えて復元された宿場町が整備されている。鉄道という近代がやってこなかったこの区間もまた山一色で、これぞ中山道と思いたくなる絶景が広がっている。
中津川で中央本線と再合流する。ここと恵那じゃなかった大井との間のどこかに近い将来リニア中央新幹線という赤字そうな鉄道路線がやってくる。つまり名古屋と結ばれる訳だが、中山道は名古屋には行かないから、リニアが通ったとしてもこの区間は保全されるだろう。
恵那~関ヶ原[編集]
恵那もとい大井からは再び木曽川沿いに明治以降の鉄路が無い大湫の険しい山中を行く。名鉄の終点の御嵩に出るまでその道が続く。明智という駅の近くは伏見という京都風情の名称でも、裏切られること間違いない田舎宿場だから覚えておくと良い。
そして、カニでなく、美濃太田の鵜をみにいくと目が晴れる。ここからは岐阜じゃなくて加納まで高山本線という地方交通線扱いの自称・幹線と並走し、新加納駅で立ち止まらずに、県庁所在地近くなのにろくに利用者のいない名鉄本線の茶所駅まで進む。加納駅の隣のそこが中山道から名古屋の殿さんにスシを運んだ幹線との分岐点だ。岐阜の代官様は、この鮨街道から東海道へ出て江戸へ向かったものだ。
そして、平行する鉄道路線が中山道本線じゃなくて東海道本線となる。とはいっても、まずは北上して美江寺に参詣し、芭蕉終焉の地の大垣駅でなく、秘境駅となった支線の美濃赤坂駅を目指す。そして、途中駅のない垂井線を渡ったら、垂井だ。そこの中山道博物館でタルイ思いをして、400年以上ずっと合戦を売りにしている関ヶ原で一泊するとよい。
関ヶ原~草津[編集]
東海道本線に駅のない今須を超えると、近江入りして柏原となる。鉄道の近江長岡駅を無視して醒ヶ井に入ったら、次は米原に立ち寄らないで鳥居本に直行だ。そして、新たな並走相手となる支線状態の近江鉄道の路線通りに彦根に行くのでなく、高宮へ向かう。近江商人になりたいのなら、多賀大社は大鳥居を通過するにとどめ、豊郷で小学校の陰に隠れて商う伊藤忠を見習おう。そして、愛知川に入ったら、八日市でなく武佐へ直行するのも忘れないように。その次は近江八幡に寄らずに守山へ。そして、やっと草津となる。
中山道は正式には京都まで続くが、ここからは東海道との並走区間なので気にしなくてよい。むしろ、彦根から安土、近江八幡に寄り道すると、朝鮮人扱いされることを気にしてほしい。
京都の三条大橋まで踏破したら、東海道で下劣なギャグをかましてきた弥二さん、喜多さんの像が出迎えてくれる。
偉人[編集]
飛鳥時代や奈良時代には、多少異なる経路で東山道という武蔵国やみちのくまでつながる街道があった。みちのくへ向かう旅行者は、北陸の沿岸へ出て船で目的地に向かい、武蔵の民は、いちど太平洋に出てから東海道を辿った。
流罪人として成長した木曽義仲は、木曽の宮ノ越宿で挙兵した。そして、信濃へ向かい、北陸経由で京都へ登っていき、木曽で培った田舎根性の暴れん坊振りをみせつけた。
徳川秀忠は中山道を経由して関ヶ原に駆けつける使命を与えられるも、街道から外れた上田で真田家に大苦戦し、タヌキ親父から遅参と説教された。家臣団から、「やっぱり徳川家の主役は東海道を経由した徳川家康公。息子は中山道の脇役で十分」と散々侮られた経験が、後の大名改易処分乱発の遠因となった。
東海道五十三次の浮世絵集は教科書に掲載される物件だが、中山道の69宿を描いた絵集は、脇役として稀に掲載されている程度である。
幕末になってやっと、和宮皇女が生涯最初にして最後の大旅行として中山道を通ったことが伝わっている。どの宿場町も他に語るべきどころがないかのように、カノジョの事跡をありえないほど大きく特筆している。駕籠に乗って降嫁していた彼女の物語は、中山道を彩る貴重な花だ。
その数年後、新政府軍の相良総三が赤報隊を率いて年貢免除の官軍状を乱発した。しかし、宿場町の住人は「真の官軍は東海道を通るものであり、中山道を通っている時点で偽官軍と認定して間違いない」と断定し、誰一人として年貢免除を信じなかった。