中二病
正式名称は、発症しやすいと言われている中学二年生からとった、中学二年生精神異常型非日常的思考可能化自然発症性症候群(ちゅうがくにねんせいせいしんいじょうがたひにちじょうてきしこうかのうかしぜんはっしょうせいしょうこうぐん、英:EGTIPNRTS, Eighth-Grader's type of insanity possibility of non-routine thinking syndrome)とされており、現代の医療技術では治療不可能な病気だ。厨二病と表記されることもある。
- 中二病/資料。資料はネットから集積しました。[要出典]え? アンサイクロペディアはデータベースじゃない? 知るか、資料がなくてどうやって解説するのさ。
近代病と現代病[編集]
産業革命以降、19世紀と20世紀を経て、人類は近代の力により多くの恩恵を受けた。しかし同時に、都市に住む人々の間で忘れ去られてしまった物もある。
病状とお薬[編集]
近代病になると全てが同じものに見えてしまい、解釈に固執してしまう。そして〈解釈のループ〉から出られなくなるのである。抜け出すためには、特効薬である〈構造主義〉を服用すべき。〈脱構築〉は服用が難しいので注意しなさい。
また、症状が自然に完治するまで、2〜600年ほどかかる可能性がある。また、治った後でも、症状がひどかった場合は残り末代までの恥となってしまう。
ただ,年が明けていくに連れその症状は薄くなっていくことがある。症状のピークは名前通り中学2年生あたりである。だが場合によっては小学生や40歳以上から症状が出ている人もいる。だが40歳以上から中二病になってしまうと周りからへんな目で見られることが多数ある。
近代の恩恵と病理[編集]
区分と分類に基づく合理主義が、近代の生んだ価値である。しかし、近代は数々の失敗も繰り返して来た、その失敗に陥った者が近代病である。近代病を克服するために現代思想がある。近代病の治療は越境性である。分類を乗り越え、最果ての塔へ次元の狭間へと、=辿り着こうとする思考法だ。また20世紀を経て科学は、近代科学から現代科学になった。量子力学はその象徴ともいえ、近代から現代への科学にステップアップしたのだ。中二病を紐解くカギは現代にあるのだ。
現代病[編集]
しかし、現代病もあるので気をつけなければならない。現代病になると、どこにも境界線がない事に気付き、どの境界線も昔の人が勝手に決めただけで、自分がそれに従う理由がないのだとわかる。すると自分の内面に逃げ込んでしまうのだが、それさえも規定されており予見されている。どこにも自分の居場所がない状態が寂しくなり、どうしようもなくなる。自分が日本に留まる理由がない事に気付き、世界は身勝手の固まりだと気付いた時。それが現代病である。現代病はアノミーを引き起こす危険があり、孤独に苛まれ自殺する危険と、孤独を利用したファシズムの危険があるのだ。都市社会では中二病を引き起こしやすい。伊集院光も都市出身だ。
現代病が重症になると『現実と虚構の区別が付かなくなる』という思考に駆られてしまう。そもそも現実と虚構の境界線など曖昧なのだ。ゲームや漫画やアニメに時間を費やし、お金も消費して、ニュースなどの情報を元に投票や購買の日常を送る日々。どこが現実と虚構の境目なのかは分かったもんじゃない。
例えば、『世界の中心で愛を叫ぶ』の影響で(ちなみにこの書名はエヴァンゲリオンTV放映最終話『世界の中心でアイを叫んだケモノ』のパクりであり、さらにこれが『世界の中心で愛を叫んだだけのモノ』というSFのパクりであるため、いわゆる孫引きになっている)、その年は骨髄バンクのドナー登録者が一挙に増えた。『世界の中心で愛を叫ぶ』はフィクションだぞ。なのに現実に影響を与えている。そして頭の中で「おれは現実と虚構の区別が付いている」「あいつらが現実と虚構の区別がついてない」という認識にハマり、抜け出せなくなると、いよいよ、現実と虚構の区別がつかなくなり、オウム真理教みたいに地下鉄でサリンをまき散らしたり、ワールドトレードセンターに飛行機を突っ込ませたり境目がなくなる。当然だがタワーは飛行機が突っ込むためにあるのではない。現代病はテロの危険すらもあるのだ。
部族社会[編集]
中二病のような症状は、部族社会では当たり前の様に見られる現象であり、心臓を食べたり動物の目玉をお供えする。それは儀式の形で行われる。
宗教性[編集]
中二病は宗教の一種ともされ、西洋では神の前で懺悔して罪を告白するが、東洋では自らの恥を告白する手法として中二病を使う、みんなに気軽に伝える様にする。これにより精神の一体化を図り共同体の力を強固とする、準不文律による共通認識である。
古典[編集]
古典的には「つまらない物ですが」という言葉に代表される、《へりくだり》《貶し》の作法の一種である。他にも〈貶し名言〉や〈オタクはきもちわるい〉など、日本には独特の貶し文化がある。なので、本当に蔑視していると勘違いしてはならない。本当に勘違いする人々は、まだ日本独特の風土を理解してはいない。一般的に「空気を読む」と言われる。ジョークや笑いは文化水準を表すバロメーターだ。
なお、「つまらない物ですが」という発言の[意味]が理解されにくいので、平成期において作法教室やテレビ番組では、使用を控えるように教えているが、教えている奴らは伝統の何たるかを分かってない。長い時間をかけて育まれた伝統文化は、そんな簡単に変わる物ではない。地域の文化風土を全然分かってない奴らであり、一体作法の何を教わってきたのだと言いたい。「つまらない物ですが」という短い言葉の中に、日本人の精神構造が表れている。構造は貶し文化となり、さらには「中二病」からもその姿を垣間みる事ができる。異文化に日本の文化を説明する上では大変重要な言葉であり、「中二病」は系譜を受け継いでいるのだ。それすなわち、形式に現れる美なのである。形式美が日本の伝統だ。意味を要求するな。
言語学[編集]
「つまらない物ですが」は空間を支配する言葉である。20世紀の言語学でも、パフォーマティブとメタの違いを説いている。発言を額面どおり捉えるのではなくパフォーマティブの真意を捉える。すると空間に《侘び》《寂び》が発生するのだ。真意を失った言葉は、名実共に《つまらない物》になってしまう。
ここに一つの循環がある。「つまらない物」から始まり、伝わらないので否定する、uncyclopediaで伝統を訴える。『反』に始まり『否定』を通じて『伝統』へと回帰する。ここから中二病と同じ構図が垣間みれましたか?
生きる《意味》[編集]
文化の違いの中では〈意味〉の優先順位(プライオリティー)は下がる。『意味』は形式的な役割しかなくなる。つまり、1万円札を北極に持って行っても紙切れにしかならんのである。差異が少なければ、それだけ文化の親和性が高い。
寓話[編集]
アリさんの世界でも、働き蟻の中で一定数は遊んでいた方が全体の効率は良くなる。つまり全員同じ方を向いて走るより、一定数の蟻は別の事をしていた方がよい。コミュニティーの多くは構成員を変えない方がよいが、一定数は変化があった方が良い。来客歓迎にしよう。共同体は、一様よりも多様の方が強いんだぞ。
歴史を問う事の意味[編集]
歴史を検証する作業は、過去の「真実」を知ろうとする試みである以上、多少なりとも客観的な成果が挙げられる事を期待して行われる。しかし、我々が「過去の真実」を見ようとする場合、その視点の始まりは常に「現在」にある。しかもその視点は現在のあらゆる所に存在している。歴史の検証とは、その無数の視点から過去を照射しその反射光を確認する作業である。ゆえに、歴史とは歴史を知ろうとした者の数だけ存在している。無数の歴史があるにもかかわらず、我々は歴史についてある一定の共通了解が成立したかのように誤解している。その誤解はただちに解消されるべきである。我々は未来永劫、客観的で普遍的な歴史的真理にたどり着く事など出来ないのである。
他のサイトでの現象[編集]
ウィキペディア[編集]
ウィキペディア(殊に日本語版)では、折角、集めた叙述的な資料を捨ててしまうという、本当に全く以ってどうしようもない連中である。落書きだからこそ研究対象として重要なのだ。落書きを研究して何処がおかしい? 劣化したウィキペディアンには文献の価値が分からない様である。(2006年以降は、特に劣化が激しい。)非常に勿体ないので、履歴を継承しつつも引用する。
そもそも、落書きを基にして心理学、社会学、文学、民俗学、サブカルチャー、などの分析をするのである。それなのに、資料がない状態で説明しようとしてるのだから、削除してるウィキペディアンの頭は、ぶっ壊れてるとしか言いようがない。過剰な意味要求が『落書きに意味はないので無用である』と認識させており、そこで思考に終止符を打ってしまう。ウィキペディアに発生した近代病の傾向である。中二病の歴史が浅いので、百科事典にも関わらず論考してしまうのは仕方がない。また、どんな分析をするのも構わない。が、しかし、最低でも資料だけは掲示しとけっつーの。
古い話ではあるが、浮世絵をポンポンと海外に捨ててしまい、気付いたら日本に残ってないという散々な有り様と酷似している。失敗を繰り返さぬよう気をつけねばなるまい。反面教師にせよ!
なお、この様に閉塞感の漂う社会はコミュニティーとは言えない。共同体主義ではなく全体主義なのである。小さなムラ社会でも、外からの客は丁重に持て成すものだ。しかしウィキペディアは全然歓迎しないし、執筆者は使い捨てであり、誘致もいい加減である。『ウィキペディアはコミュニティーサイト』だと場当たり的に言っているが、「コミュニティーらしさ」は皆無である。
ウィキペディアは、流動性が高く、一定期間留まる人がおらず、専門性を持たない人が、外の世界を知らない状態で執筆するので、内部処理することしか出来なくなり自家中毒を起こす。一見するとウィキペディアに対するバッシングであるが、批評とはたいていの場合口悪くなりがちである。アンサイクロペディアとて、ウィキペディアという外界の力が無ければ、何時まで経っても中二病の主客を転倒させることはままならない。ただし、ウィキペディアもアンサイクロペディア同様に、《意味と形式を切り替える》能力を本来は備えている。理念が〈脱構築〉だからである。にも関わらず、意味に固執してしまうのは特殊である。何らかの作用が働いている結果、《意味を形式に切り替えられなくなっている》のだろう。
意味と形式の切り替りにくさを《意味強度》と呼ぶ。意味の強度が高いと主客転倒が起こしにくい。意味が維持されてる状態が《同一性》である。同一性は《変化》を起こす。内部処理することが中二病患者である。そして内部処理したのでウィキペディアは中二病を発症した。『なぜ、内部処理するしか無かったのか?』『なぜ、ウィキペディアは全体主義になったのか?』それはおそらく管理が原因だろう。異質な物を排除し続けた結果、どのウィキペディアンも同じ様な人になってしまったのだ。
《主体を客体に、客体を主体に》《意味を形式に、形式を意味》どちらの状態であっても変わらない箇所。それが構造である。中二病は構造体だ。上から見ても横から見ても中二病は現象として現れる。
神話学に話を移そう。すなわちウィキペディアは、世界三大タブーの二つ、インセストタブーでありカニバリズムだ。自己が自己を分析できると言うのは発狂を引き起こす。ウィキペディアも(10割ではないにしろ)発狂している。であるからして、中二病を分析に使ってはならないのである。主客が転倒しないまま自分の中で処理するので毒化する。あくまで他者に、あるいは自己表現、として使わねばならない。
邪気眼[編集]
邪気眼はどうしたんだ? アンサイクロペディアの方が確り保存してるってのは、シャレになってない。むしろ〈邪気眼〉こそが重要なんだ。「中二病」はラジオが発祥なのは分かっている。その『中二病』がネット上で広まった際にどのように変化して進化するのか、その一つの形態が〈邪気眼〉なのである。これらのネタは、ネット叙述や大衆文化の参考資料としては、大変貴重であるので見逃さない様に心掛けねばならない。
なお、jaウィキペディアでは「邪気眼系」を「妄想系」に切り替えてしまった。叙述の改竄が起きたのである。これが改竄の行われた決定的瞬間である。我々は歴史の目撃者となった。共産党の書記長もメガネが、ずり落ちた。これに関しては様々な憶測が飛び交っているものの、恐らくカノッサ機関の仕業であろう。
この文字の置き換えは近代的な作法に似ている。町など公共空間では性的なものは禁じられるが、個室など閉鎖空間では性的なものは許される。犯罪を起こした者は刑務所に投獄され、社会の中で生活を営めない者は病院に隔離される。しかし、今日では全ての人々は個室化しており、中二病は個室状態を解除するツールにもなる。ウィキペディアでの「邪気眼系」を「妄想系」に置き換えたのは、一種の隔離現象である。「邪気眼」という異質な言葉を排除して、一般的な「妄想」に置き換える。しかし、これでは中二病の本質は完全に消される。本質はその異質さを、異質さごと許容する所にある。邪気眼を残しておけば、中二病の安定化をもたらし近代病の克服になり、宗教や神話と同じ機能を果たせるのだ。そして、孤立を望む学生は屋上に行くことを強く望む。
執筆に置いての注意点[編集]
〈中二病〉という落書きを本気になって執筆している人々もいるが、無意味だといって削除する輩よりはマシだと言える。なお、彼等は《執筆》していると思ってるようだが、本質的には《資料収集》なのである。賢明なアンサイクロペディアンは、同じ構造に取り込まれないように注意しよう。観察や解釈に没頭してしまうと、解釈者自身も構造に取り込まれてしまい、一つの認識から抜け出せなくなる。客体化するはずの自らが主体化してしまうのである。この傾向は日本人に極めて多く、素人心理分析が蔓延してしまった事態を精神科医も憂慮している。社会学者、文化人類学者、神話学者、サブカルチャー研究者も『中二病』は自分達の研究分野であると主張しています。なお、心理学と社会学は、蛇と鳥の関係!!宿命のライヴァルなのだ。どうだ、まいったか。
参考になるのが自然神話説である。
- 「神話が、月に見えたら全て月と解釈せよ!」
- 「神話が、太陽に見えたら全て太陽だと解釈せよ!」
- 「神話の名称は、全て自然現象を示している」
- 「知ってたか? 孔雀は堕天使の象徴なんだぜ」
- 「ガイアが俺に、もっと輝けと囁いている」
と神話を手当り次第同じ解釈で理解しようとする試みである。2007年から見れば、かなり乱暴であるが、初期の神話学ではこのアプローチで頑張った。初期の神話学を『第一の神話学』と呼ぶ。『第二の神話学』は、かの有名な構造主義を生み出した。中二病の分析にも構造主義を使ってみるのが良いだろう。
中二病とは(社会分析)[編集]
民族的に[編集]
中二病は、分類・分析神話の一種であり、日本人の精神構造を極めてよく捉えている。日本人は大系的、論理的、物語的な神話構造よりも、アンソロジーに代表される、様式型、集約型、の神話を好むことが分かる。形式、儀式、生贄を好む傾向にもある。血液型性格診断、干支診断、占い、と似ている。一部では干支診断は今でも使われており、ある干支を特徴にして性格や振る舞いに設定を与えている。これらは共に楽しむ文化、ラベリングの文化である。当然、まったく科学的根拠はないので、分類・分析を本気にしてはならない。科学的根拠が無いからこそ、神話としては強固なものとなる。
社会心理学的には、〈差別〉の発生要因とも言える。健全な形では、お互いに分類を呼び合う〈戯れ〉とも言える。これらは未開の文化からも確認されており、[神話][伝説][昔話]の3つの内、[昔話・神話]に該当する。神話と昔話は、入れ替わる性質がある。昔話である最中は戯れとなるのだが、神話になると本気で差別しはじめる。昔話は娯楽なのだが、神話は本当に信じられているのだ。
修辞学(レトリック)と占い(フォーチュン)[編集]
何かを説明してる訳ではないのだから、当然、比喩ではない。修辞技法は本来、明確な説明がなされる事物に対して、言語を入れ替えつつ話者の意思を観客に伝え、認識を共有させる技法である。中二病には本来の元が無いのだからそれ以上に修辞しようがない。どちらかと言えば文学の一種であり、性質的には[占い]に近い。根拠ない類型を作り、分類して行く手法は占いと似ている。
中二病患者としての生き方とは[編集]
中二病患者の生きる目的とは、これまでの世界を理解し、新しい世界を創造しようとする意志に集約される。この意志を見ても分かるように、中二病患者を含む我々は、世界というものに関して大きな誤解をしている。我々は、我々自身(つまり「個」)が「世界」を創造するのだと考えている。しかし、それは大きな間違いである。「個」は、どんなに抵抗しても、宗教・国家・民族など―つまり「世界」から完全に独立する事など出来ない。これはすなわち、「世界」が「個」を創造するということである。では、「世界」は何によって創造されるのか。これはやはり「個」と言うしかない。「個」の集合体がそのまま「世界」であるのだから。結局のところ、「世界」が「個」を造り、「個」が「世界」を造るのである。中二病患者は、「個」が一方的に「世界」を造るわけではない、ということを再確認しなければならない。つまり集団には勝てないということ。しかしこれは一般的な場合で、中二病患者は【自らがゆういつ抵抗できる手段】だと思ってる。自分自身もよくわかってない。
伊集院光の功罪[編集]
ラジオパーソナリティは重大な過ちを犯した。自己言及的な作法に名称をつける事で、リスナーを混乱に陥れた。 中二病というカテゴリを浸透させることになり、低俗な物として排斥する流れを生み出したことにより、高二病・裏中二病の増加を招くことになる。 それは結果的に人や物・作品を表現するに当たってその幅を自ら狭めてしまうことに繋がり、出る杭を打つ日本人的な保守性をさらに強めることになってしまったのである。
ただ、日本人が自己言及に弱いことを指摘し、実験的・実践的に、明らかにしたのはある意味功績とも言える。ネットでの反響からもうかがい知る事ができる。
実際の対処[編集]
現実的には、構造主義的な解説をしても回りくどくなり、クドクドなので
- 「気にしすぎ。まるで神経症だぞ、考えるのも程々にしておけ」
- 「あるあるネタの一種だよね」
と、ツッコンでおけば良いだろう。
真の用法(取り扱い注意)[編集]
ここでは、裏中二病の真の用法を、それとなく説明する。まず何でも中二病に見えたら、それは一種のトランス状態(ここで言う「トランス状態」とは、すなわち「柱上変圧器のように高みに登りつめてしまった状態」であることに注意されたい)であり、ヒステリーだ。解除しようとしても解除できない。裏中二病になったら、精神と感情が異常な状態であり、薬や酒を飲んでるのと、類似と言える。陶酔である。異様なほどに感受性が強すぎる〈あなた〉だからこそ、起きてしまうのである。無理せず、泣いたり、笑ったり、走ったりして、体を動かしてみよう。そもそも、伊集院光もラジオパーソナリティという、ある種の表現を職業としている人なのだから、裏中二病になる人は似てると言えば似てるのである。裏中二病は威力が強すぎ、過剰な薬であるため毒性に近い性質を持っているのです。
まだ、納得できない人は、先人達の残した哲学や思想や文学を、旅してみよう。もしかしたら自分にマッチした記録が見つかるかもしれないよ。くれぐれも、規則と陶酔の挟間には気をつけよう。
どうしても分からない人へ[編集]
どうやら、ここまで来てしまったようですね。ここは不毛の世界であり、ポスト構造主義もなく、ニヒリズムでもなく、自己言及でもなく、脱構築でもなく、なんでもない 。Yes。どん底まで堕ちた君だからこそ、生涯苦悩し続ける。選民だと勘違いしてないかね?君は普通の人間だよ。でも、どうしてこんなにも苦しいのですか? You are an idiot!あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!! 死ね死ね死ね、死んでしまえ!!! Uncyclopediaは紛い也にも百科事典です、そんな事書いてはいけない。何いい子ぶっているの? その通り。分かっている。だけど、なぜ百科事典という規定があるのか? 過去の偉人達の蓄積を甘く見てもらっては困る、そんな物は出尽くしてるのだよ。自己言及など芸術ではとっくに使われておるわ!!愚か者め! でも、ボクには未知の力が……。いつも旅立つのは少年だけだ。。。いつも、恋をするのは少女だ。。。死んだ方がマシだ、こんな苦しいなら。待ってよ。みんなこの苦しさに耐えてきたはずだ。やだやだやだ、やだやだやだだ。ヒステリックな女だ。魔女なんだよ。中世にもあった? どんな時代もあったはずだ→それは歴史を使って、自我を支えているのかい? これでは終わりがない。それが宗教だ。仏教の世界では六道を巡る。それでは答えを、しかし、声が止まないんだ。ボクは統合に失敗してるんだよ。近代の力で→学問ならきっと答えがある。文学なんて胡散臭いだけだろ、なんだよ心理学って? 園芸とか猫と遊べば、体を使ったコミュニケーションもあるはず。ボクが好きなのはなんだろう? 音楽や芸術も理由がないのに酔える。私は女の子なのに『ボク』を使ってる。それはアニムスですね。一方を答えれば、対も同時に答えた事になる。高い→低い、熱い→冷たい。だけど、平等さが欲しい。文字に書かないと嫌ですか? 既に心には伝わったはず。神秘は言葉では表せない。もう駄目だ。でも、安心した。ありがとう。だけど、寂しいな。痛いからそばに居たい。また、どこかで。人生は長い。気が合う人と会えるさ。残酷な神は今日も見つめている。安心して眠りなさい、ばか。ガニメデの兄妹は、四番目の向こう。子供だった男は大人の少年になった。こんなの可笑しいね。。。ははは痛いいい痛い痛いいいいい熱いあいい。そうだとしてもクヌギは二度と、病人を振り返らないだろう。だって、過ぎ去った物に、栄冠はないんだからね。
それでもやっぱりわからないどうしようもない君へ[編集]
―君は中ニ病の淵を覗き込みすぎたのだ。もう既に手遅れであったということだ。深遠なる淵を覗き込んだ時深遠なる淵もまた君を覗き込んでいたのだ。
―君は既に深遠なる淵の中を彷徨い始めていたのだ。君が選ぶことのできる運命は3つある。このまま冥府魔道に入って邪気眼使いとして生きる道、もしくは黒歴史を紡ぐ者として呪われたまま生きる道、そして最後に過去の一切合財を封印し今すぐこの項目を閉じてただの人間のフリをして生きる道。どれを選ぶのも君の勝手だしここで朽ち果てるのも君の勝手だ。しかしどの道を選んでも相応の試練はいつか訪れるだろう。これだけは変えられぬ宿命なのだ。さらば、若者。君の歩む道は君が決めるのだ。その道が例え修羅の道であろうとも、どんなに長い長い道であろうとも途中で決して振り返ったり座り込んではならない。その時君は完全に飲み込まれるだろう。決して振り返らず、決して歩みを止めずに選んだ道を歩め。その先にはどのようなものかはわからないがエンディングが待っているだろう。そのエンディングはきっと君の長い長い物語の終焉を告げる。そのエンディングはきっと君が引きずっている鎖も断ち切ってくれる。しかし、エンディングが終わった後、君がどうなるかは誰にもわからないのだ。そこで物語は終端かもしれないし、続編があるかもしれない。続編があったならば更なる運命の分岐点が存在するかもしれないし、もっと混沌とした世界へぶち当たるかもしれない。それだけは誰にもわからない。わからないからこそ、人は歩み、歩んだあとは道になるのだ。君がどの道を選ぶかは自由だが、これだけは覚えていてほしい事がある。「土に根を下ろし、風と共に生きよう。種と共に冬を越え、鳥と共に春を歌おう。」人はどんなに恐ろしい武器を持っても、たくさんの可哀想なロボットを操っても、土から離れては生きられない。さもなくば、玉座はたちまち墓へと成り変わるだろう。
共通性から見いだす構造[編集]
- 主体 ⇔ 客体
- 発言者 ⇔ 観察者
- 告白 ⇔ 指摘
- 無関心 ⇔ 自意識
- 日常 ⇔ 非日常
- 情報 ⇔ 現実
- 記号 ⇔ 実体
- 自然体 ⇔ 演技
- 太陽 ⇔ 太陰
- 日 ⇔ 月
- ルール ⇔ トランス
- 規則 ⇔ 陶酔
- 右翼 ⇔ 左翼
- 男 ⇔ 女
- 大人 ⇔ 子供
- 若者 ⇔ 老人
裏中二病[編集]
中二病には、普遍化を引き起こし、観察者を取り込んでしまう性質がある。つまり「何でも中二病に見えちまう」訳だな。見方によっては神経症と同じである。この事から、精神病も、神経症も、一般人も程度の差があるだけで本質は同じだ、と考え、重要なのは文化や神話に置ける《差異》である! としたのが『第二の神話学』の成果である。
で、あるからして、裏中二病の人は真面目すぎるのである。『中二病』には普遍化して取り込む性質があるのだから、何でも中二病に見えてしまうのは当然と言えば当然だ。デカルトでも読んでおけ。「我思う、ゆえに我あり」だ。
ちなみに中二病関係の項目はほぼ例外なく裏中二病・または中二病を指摘して満足感に浸る所謂高二病の患者によって編集されているのが定説である。そしてこのページを始めとする中二病関係の項目の文章量の多さから分かる通り、インターネット上ではかなり大きい勢力になっているのだ。
なお、一部で下記の高二病と同一視される向きもある。
高二病[編集]
中二病回復期の者に発症する。主な症状として急に中二病が痛々しい、恥ずかしいものと感じ取り急に作品を意味もなく痛々しく叩いたり(無理な蔑称を多々利用したりする等)、現実で普通になろうという傾向等傍目から見たら中二病患者に対するアンチ野郎と思われたが、研究を進めると共に中二病と相反するも特徴が酷似してる事が解明され、中二病の発展系と結論された。
この状態が長々と続くと知らず知らずに中二病に感染・再感染したり、中二病に負けず劣らずなレベルにまで痛々しくなったりする。詳細は高二病を参照のこと。