ミナルディ

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ミナルディ(みなるでー)はかつて存在したイタリア発祥のパスタ食堂。本業でF1チームを経営していたとよく間違えられるが、F1については副業である。名前が少し似ているフィッティパルディ兄弟とは、一時期保護者と学校の関係だった。また、これとは別にアレックス・ザナルディと同時期に児童と学校の関係にあった。ちなみに学校がミナルディ。なつかしのイタリアンF1ドライバーであるマウロ・バルディ、レラ・ロンバルディ、またバカルディ、ワドルディとの関係は不詳。

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概要[編集]

F1史に残る弱小として20年にわたり低迷したチーム。F1チームとパスタ食堂の両方の成功を果たすべく努めたが、実際、一度の優勝やポールポジションどころか、表彰台すら経験がないまま、野球でいえば阪神タイガースが日本一になってから33-4になるまでの間、ずーっと執念で走り続けた前代未聞のチームである。

それでもF1を走り続ける根性と、パスタの美味しさでF1関係者からの評価は高かったとされる。若手の社員にパスタの味を伝授しており、それが結びついたのかは不明だが眉毛[1]残念な方などさまざまなドライバーを育成した功績を持つ。

歴史[編集]

初期[編集]

1980年、コテコテのイタリア人であるジャンカルロ・ミナルディがレーシングチーム、もといパスタ食堂の「ミナルディ」を開店した。本格的なイタリア料理の味わいを世界に広めるための宣伝手段として、(イタリア人らしく)世界一良い女と金の多そうなスポーツであるモータースポーツを選んだわけだが、そのモータースポーツの分野に手を広げすぎたらしく、1985年にはあれよあれよとついに世界最高峰のF1に出場してしまい、ミナルディの知名度は急上昇した。(それまでの知名度が無さすぎたため)。

そのときミナルディのパスタは美味かった。

失態[編集]

新たなチームを求め偶然ミナルディにやってきたドライバーのPL・マルティニと発進したチームだが、F1に来るには早かったか、当初はイタリア製のエンジンから湯気が沸き立つようなトラブルが多発していた。これについて関係者はパスタを食べながら「製造者がエンジンの構造を知らずに、エンジンのシリンダーをペンネみたいに少し茹でてしまった」可能性を指摘した。初年度の結果は、順にリタイア、リタイア、リタイア、予選落ち、リタイア、リタイア、リタイア、リタイア、11位完走扱い、リタイア、リタイア、リタイア、12位、リタイア、リタイア、8位であった。パスタとF1とを混同する程にレベルが低く、逆チャンピオンを手にした結果、エンジンはアメリカ製のものに変えられてしまった。エンジニアはみな、クビにされた。なお、以降イタリア製エンジンはフェラーリのものしか使われなかった。そしてデビュー4年目にしてようやくたなぼた初入賞してみせた。

それでもミナルディのパスタは美味かった。

一瞬の輝き[編集]

目を疑う光景

そんな弱小にも一度はチャンスが訪れる。

1989年に本物のパスタ屋であるバリラ社の御曹司であるパオロがよりよいパスタを作らせるためにとミナルディに迎え入れられるとパスタが急激に美味しくなり、気分が良くなったついでにF1部門も好調となりマクラーレンと互角の速さを手にする。当然のようにPPを連発したり[2]、当たり前のように上位を走り(画像参照)、ついに強豪パスタ屋への夢は叶い、残る目標はF1制覇のみとなった。この事に対しあのセナ様はパスタの味を認めるとともに近い将来のミナルディ入りを正式発表した。

(ちなみにセナは一番速いチームであればプロストがいない限りどのチームに入ってもよかったらしく、それが命取りになった。)

日本ではこの時イタ飯ブームがおこり、世界各地でもパスタの味が評判になった。日本国内では「みなる亭」を名乗るラーメン屋が多数みられた。[3]レーシングチームとパスタ屋を両立しながら、驚異的な戦いっぷりであった。結局何も悪いことをしていない、いつも通り強いチームですら「体たらく」と言われたりして散々な目に遭う。

そしてやはりミナルディのパスタは美味かった。

しかし…[編集]

バリラは求めるパスタ像の違いからチームとの軋轢を起こし離脱してしまったが、翌1991年にはあの駄馬フェラーリのエンジンを手に入れる。中堅としてまずまずの成績を収めたが、翌年フェラーリがダメになってしまい、一応その後も90年代前半のうちは底力を見せていたミナルディだったが、セナが逝き、パスタの流行も去った頃には底辺で目も向けられない完全なネタチームになっていた。逆PPを連発し続けながら、貧窮のため黒字ではなく暗黒の意味で真っ黒なマシンをボロボロになるまで使い回していたようだが、実は新品の状態からマシンはボロボロだった。結果としてよく分からないドライバーだとか、よく分からない技術者や、あるいは部品メーカーやスポンサーを起用し続ける自転車操業となっていった。この頃ミナルディは試しにツール・ド・フランスにフォーミュラカーを使用してスポット参戦し5位入賞を達成。チームとして久々の入賞だった。ただ、そこまでしてもパスタを作るためだけには努力していた。

しかし、バドエルが時折上位をたなぼたで走る姿はなんとなく人々の印象に残っているようで、どれだけ負け続けてもついていくファンが片手で数えきれないほどいた。それに応え、ミナルディは撤退したい気持ちを抑え続けた。

それでもミナルディのパスタは美味かった。

閉店[編集]

そんなこんなでF1進出20周年を迎えたチームだったが、経営は既に傾ききっており、ここにきてパスタに使う資金までもが底をつきかけどうしようもなくなり、あっけなくレッドブルにチームごと買収されてしまった。実はレッドブルも一度はパスタを試作していたものの、あまりにエナドリ臭くなり、ミナルディのものには及ばぬまま開発中止した。

当事件の重要参考人とされる人物

そんな最終年には、アメリカで10チーム中7チームが忽然と姿を消す事件(未解決)が起こりチャンスが転がり込み、クリスチャンじゃない方のクリスチャンとフリーザ様が5位と6位(最下位)に入ることになり、きれいに締めくくって閉店できた。なお、この「インディアナポリス事件」の調査は現在も捜査員(2名)によって続けられているが、ここ10年は進展はない。跡地は取り壊されのちアパレル店が出店した。

最後までミナルディのパスタは美味かった。

その後[編集]

ミナルディがその後どうなったかというと、「トロトロ遅く」走ることに由来する「トロ・ロッソ」というレッドブルの二軍チームに変えられてしまった。相変わらずの弱小魂を見せ、「パスタが無いだけのミナルディ」となったが、ベッテルが勝ったり、それからまた名前を変えたチームガスリーが勝つなどミナルディ程弱くはなかったので、結果としてパスタを作るF1チームは大成しないことが実証された。

パスタについて[編集]

創業以来、誰もが絶品と呼んだミナルディのパスタ。フェラーリも一時何をさまよったか試しに作ってみたがマネできなかった。ミナルディは、多くの新人ドライバーにタダで一皿食べさせて釣らせるシステムで大量に社員を雇わせることに成功した。社員になればパスタのおかわりが無料だった。特にパスタをおかわりしていたのはジャスティン・ウィルソン。おかげで身長は190cmを越えたのである。他にも麺類好きの中嶋パパなど他チームのドライバーも頻繁に訪れるほど病みつきになる味だったので、アルボレートや右京ヨスの番長はパスタを高評価しキャリア晩年にはミナルディに移籍した。勝ち星が無かろうと五つ星が貰えればいいスタンス。ただし、ミシュランはあまり好きではないらしい。

残念ながら、レシピについては企業秘密である。

脱ミナルディ現象[編集]

以下に、一部ドライバーのミナルディ在籍時と他チーム移籍初年の成績を比較する。これを見れば、ミナルディの能力がよく分かるだろう。ただし、ナニーニ以外の4名は全員デビューイヤーのみミナルディに所属し、すぐ他チームに横取りされた。弱小で実績を残していないはずのドライバーがすぐ強豪に奪われるという不可解な事例が多発していたことは、近代F1の一大ミステリーでもあった。

社員(ドライバー) 年度 チーム 予選最高位 決勝最高位

ポイント

A.ナニーニ 1987年 ミナルディ 13位 11位 0
1988年 ベネトン 4位 3位 12
G.フィジケラ 1996年 ミナルディ 16位 8位 0
1997年 ジョーダン 2位 2位 20
J.トゥルーリ 1997年 ミナルディ 17位 9位 0
1997年 プロスト 3位 4位 3
F.アロンソ 2001年 ミナルディ 17位 10位 0
2003年 ルノー 1位 1位 55
M.ウェバー 2002年 ミナルディ 18位 5位 2
2003年 ジャガー 3位 6位 17

マシン[編集]

前述の通り、低迷していた頃のマシンは新品でもボロボロであった。それは、パスタだけで食いつないでいけなかったため、食堂で使用してきた調理器具を再利用してマシンを料理していたためである。

末期には、マシン開発をほったらかしにしてタイヤ洗浄機を発明(使いものにならないと評判)、近所の人に売り込んだりと意味不明な行動もみられた。しかし実は食器を洗うことこそが一番の目的であり、パスタ屋兼F1チームならではの、最適な折衷案であったといえる。

戦歴[編集]

他チームとポイントで並ばれた場合はミナルディがよりワーストに近い順位となる(ミナルディ制)。年間で計10〜20チームが参戦している。

シーズン チームボス 社員(ドライバー) ランキング ポイント 1位のポイント
1985年 ミナルディ マルティニ ワースト1位 0 90(マクラーレン)
1986年 デ・チェザリス/ナンニーニ ワースト1位 0 141(ウィリアムズ)
1987年 ナンニーニ ワースト1位 0 137(ウィリアムズ)
1988年 マルティニ/カンポス ワースト9位 1 199(マクラーレン)
1989年 マルティニ/ルイス=ペレス ワースト10位 6 141(マクラーレン)
1990年 マルティニ/バリッラ ワースト1位 0 121(マクラーレン)
1991年 マルティニ/モルビデッリ ワースト13位 6 139(マクラーレン)
1992年 モルビデリ/フィッティパルディ ワースト4位 1 164(ウィリアムズ)
1993年 バルバッツァ/フィッティパルディ ワースト6位 7 168(ウィリアムズ)
1994年 マルティニ/アルボレート ワースト5位 5 118(ウィリアムズ)
1995年 マルティニ/ラミー ワースト4位 1 137(ベネトン)
1996年 ブリアトーレ ラミー/フィジケラ ワースト1位 0 175(ウィリアムズ)
1997年 ルミ 片山右京/トゥルーリ ワースト1位 0 123(ウィリアムズ)
1998年 中野信治/ラバッジ ワースト1位 0 156(マクラーレン)
1999年 バドエル/ジェネ ワースト2位 1 128(フェラーリ)
2000年 ジェネ/マッツァカーネ ワースト1位 0 170(フェラーリ)
2001年 ストッダート アロンソ/マルケス ワースト1位 0 179(フェラーリ)
2002年 ウェバー/ユーン ワースト1位 2 221(フェラーリ)
2003年 ヨス/ウィルソン ワースト1位 0 158(フェラーリ)
2004年 ゾルト/ブルーニ ワースト1位 1 262(フェラーリ)
2005年 アルバース/フリーザッハー ワースト1位 7 191(ルノー)

統計[編集]

優勝:0

表彰台:0

ポールポジション:0

ファステストラップ:0

参戦回数:340(21年間)

入賞回数:20(38ポイント)

逆チャンピオン:13(1985年〜1987年、1990年、1996年〜1998年、2000年〜2005年)

ミナルディの仲間たち[編集]

ミナルディと同様に破滅したチームである。この中ではミナルディはまだいい方で、ネタにすらされずに消えていったチームも多い。現在では、新チームに対しF1管理者のリバティメディア社が(名前に似合わず)不自由な制限をかけることでこういったチームは簡単には生まれなくなってしまった。その代償にきわめて保守的な体制が続くことにもつながり、反面教師という重要な役割を欠いた危険な状態が続いている。

以下に、ミナルディと似た境遇にあったチームを挙げている。全チーム、F1に現存しない。

生死を彷徨っていた元ドライバーのM.S氏の言うことには、これら弱小チームたちの魂は誰も見たことがないような不思議なサーキットに送られ、そこで既にこの世にいないドライバーたちと共にレースをし続けているという。

さらにM.S氏の目撃証言によれば、黄色と緑のヘルメットをつけたドライバーがミナルディのマシンを操っていたというのだが、彼の見たドライバーがいったい誰なのかは、その顔を見る前に現世に戻されてしまったため分からなかったという。

脚注[編集]

  1. ^ 最後のミナルディ戦士となってしまったが、2022年も普通に出走していた。
  2. ^ 欧米主義だったお偉いさんが最速のチームであるマクラーレン・ホンダの成績を抹消したため。現在では抹消の事実はなかったことにされている。
  3. ^ 「みなる亭」はブーム発生から数ヶ月後に一つ残らず姿を消している。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

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