そば

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
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そば(そば)とは、細い人生と福でもかまわないからとにかく長生きできればいいという、日本人ならではの大衆意識、中流階級意識から生まれた願望と怨念を切実に反映した食べ物である。

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概要[編集]

群がる貧乏人の前にあっという間になくなってしまったそば

そばの実をすって作った粉、通称「そば粉」をDHMOで捏ね、細く切り分けて茹でた、ただそれだけのものである。そばは比較的荒れた土地でも育つ事から、と並んで、の代用食として栽培されていることからも分かるように、本来は貧乏人の食物である。そのためウィキペディアンが編集したウィキペディアのそばの項目は尋常ではない長さとなっている。少々裕福な地域では、布海苔や自然薯などを混ぜることもあったようだが、そもそも材料にそば粉を使った時点で負け組なのはいうまでもない。

一般的に、鰹節などからとった出汁と醤油などを混ぜたそばつゆと呼ばれる褐色の液体で味付けして食べる事が多い。またこの際、刻んだ、あさづき、粉末状の唐辛子などを薬味として使用することが一種のステイタスとされている。

トッピングとして、「天かす」「生卵」「刻み海苔」などを載せることもあるが、通を気取る事を隠れ蓑にした貧乏人は、トッピングなど邪道、少量の薬味だけで、そばそのものの風味を楽しむなどとほざいて虚勢を張っている。通を名乗る者からそばを、ほとんど噛まずに飲み込むことを薦められても断るべきである。咀嚼して食べないことは健康的で無いし、そばは小麦粉を練った麺と比べて喉越しが悪くむせやすいからだ。

最後は、そばを茹でたDHMO溶液でそばつゆを割ったものをそば湯と称して飲み干すことが礼儀とされているが、所詮は残った茹で汁とつゆを惜しんでいるだけに過ぎず、この事からも所詮そばなど貧乏人の食べ物にすぎないことを分かってもらえるだろう。ただ胃への負担が少なく身体を温める程度の効能はあるため、民間療法の一種かもしれない。

誕生[編集]

他の穀物の例にもれず、そばの実も保存性や調理のしやすさを考え、一旦、乾燥させた上で粉にすることから始まった。その後、そば粉は必要な分だけをDHMOなどで溶いたり練った上で、茹でたり焼いたりして食すわけである。

しかし、世の中、いつでもどこにでも不幸なはいるもので、そばすらまともに育たない土地で生活するとなれば、そばの実1つ、そば粉1摘みでさえ貴重となる。このような地域では、食事の時間、調理済みそば粉の取り合いは凄まじいものがあり、結果、小さな子、力のない子は充分に食べる事ができず、料理を担当する母親達の苦悩は計り知れないものがあった。

そんな中、1人の母親が、ちょっとだけ閃いた。当時は、水で練ったそば粉をそのまま茹でるあるいは焼き、そのまま食卓に出していたわけだが、試しにこれを細く切り分けた上で茹でてみたのだ。母親の発想は功を奏した。細く切られた上に茹でられたそば粉は実に掴みにくく、従来の大きなままのそば粉のように無理矢理大きな塊をちぎり取ることができなくなっていた。このことにより、これまで力で劣っていた分、出遅れていた子達も、大きな子達がまず掴んだそば粉を食べている隙に、残ったそば粉にありつけることができるようになった。

またそば粉を細く切った事で、従来の大きな塊に比べ茹でる時間が短縮でき、その分薪などの燃料も節約できることになったことから、以降、そば粉の調理に関しては、細くあるいは細かく切ったりちぎってから茹でるということが一般化していくことになる。

発展[編集]

そばが大きく発展したのは江戸時代の宝永年間に蕎麦切り売りが始まったこと。当時世界でも有数の大都市江戸にて、その人口の多さも手伝って大衆の間に広まっていく事になる。細く切ってあることからすぐ茹で上がり、噛み切りやすく数回咬むだけで飲み込む事ができるそばは短気な江戸っ子にはぴったりの食べ物であり、現在のファーストフードの先駆的存在といえるだろう。

その上、そば独特の香りは、少々濃い目のそばつゆにも力負けしないため、それほど気を配ったつゆ作りをしなくても済むということから、修行も積まなくてもそば屋なら手っ取り早く開業できるしお客も多いから儲かるだろうという誤った認識が生まれてしまい、その結果、夜の江戸には無数のそばの屋台が右往左往する姿を見られるようになった。
この中には、当然、デタラメ同然の調理の結果として、まずいという表現が褒め言葉に聞こえるほど凄まじい味のそばを出す屋台も少なくない。故に何も知らずに屋台でそばを食べ酷い目にあうお客や、そのお客から反撃を喰らうそば屋が絶えた試しはなく、これらの光景や逸話が、「時そば」を初めとする古典落語の題材ともなったのである。

また屋台のそばは、そのあまりのまずさにお客が涙ぐんだり泣き出してしまうことも少なくないことから「夜泣きそば」と呼ばれることも多かった。

こうして江戸において1つの完成をみたそばは、菱垣船や樽廻船といった海上輸送に乗っかるようして全国に広がっていく。先に述べたように、稲が実らないような土地でも育つそばの実から作れることも手伝って、どんな場所でも自給自足で生産が可能なそば作りは、そば粉のつなぎや薬味などにその地方の特色を取り込みつつも日本全土に定着することになる。

衰退[編集]

このように一時は、代表的な日本の大衆食となったそばだが、明治維新と文明開化によって、その地位を脅かされることになる。開国により諸外国の文化がどっと国内に伝わり、その中には無数の料理も含まれていたからだ。そんな中、スパゲッティーなどの西洋麺料理を差し置いて、人気を集めたのが、支那そば、つまりお隣中国から伝わってきたラーメンである。

ラーメンは、水戸黄門の時代、既に伝わっており、水戸光圀本人が食べていたわけであるが、当時は料理人の数や原材料の問題から一般化することはありえなかった。だが、開国により、それらの垣根が取り払われたことから、ラーメンは国内に広まっていくことになる。

それまで食べる事が禁忌に近く、滋養強壮薬などとして仕方なく口にしていた程度だった肉の類が、いきなり牛鍋というハイカラ料理として受け入れられた時代である。そばやうどんとは違った食感や味付けとはいえ、同じ麺類だけにラーメンの砲が遙かに受け入れやすいことは想像するに容易く、これが広まらない方がむしろおかしな話である。

また新政府の元、治安や衛生面での取り締まりが強化されたことで、これまでのように自由に屋台が営業できなくなった上に、海外からの技術が導入された事で、農作物、特に米の生産高が上昇し、そばを作る必要性が薄れたことによる原料不足も加わって、一部の老舗以外では、そばの営業がなりたたなくなってしまい、そばという食文化は次第に衰退していくことになる。

そばが再び日本の代表的な大衆食の地位を取り戻すには、戦後の食糧難の時代、日本人が再び貧乏人になるまで待たなければならなかった。

関連項目[編集]

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このそばは、まだ火が通っておらず、生焼け状態です。このまま食べるとお腹を壊します。あなたがしっかりと火を通して下さい。でも、どこかのどじっ子のように、塩と砂糖を間違えてはいけませんよ。 (Portal:スタブ)