近衛文麿
近衛文麿(このえ ふみまろ、1891年10月12日 - 1945年12月16日)とは、ヒトラーと並ぶ、第二次世界大戦における二大ちょび髭の一人であり、悪魔である。またアンサイクロペディアよりも早く、日本で初めてオスカー・ワイルドを紹介した偉大な人物であり、さらに貴族院出身の総理大臣でもあるが、特筆すべきは血筋である。
概要編集
1891年、貴族の中の貴族の中の貴族と言える近衛家に生まれる。この近衛家は後陽成天皇という、一発変換が不可能だからあまり名前を載せたくない名前の天皇の子孫である。さらに父・篤麿は、第三代貴族院議長を務めている。親戚には井伊家、細川家、毛利家、徳川家とまさにオールスターな一族が揃っている。しかし血統は良くても頭があれだった為、後々新体制作りとやらに参加することになる。
またヒトラーにやたら憧れていたのか、ヒトラーのマネをして、ちょび髭を生やしたり、七三分けにしたり、脱毛剤を使いヒトラーの毛髪量を再現しようと試みたりした。しかしヒトラーをマネしすぎたせいで、最終的に自殺する所までマネしてしまった。[1]良い子はマネしないでね!
また身長は180cm以上との事だが、身長が同じくらいの米内よりもずいぶん背が高く見える写真がある。この事から、日本人男性で初めてハイヒールを履いた可能性がある。
生涯編集
悪魔文麿、生誕編集
1891年。この世に、史上最悪の悪魔となる子が生まれた。その子は公爵・近衛篤麿と旧加賀藩主の娘の間に生まれ、名は「文麿」と名付けられた。初期設定では、「あやまろ」となっていたが、何処か「謝ろ。」と謝ろうとしているように聞こえたため、悪魔としては相応しくないとして「ふみまろ」に替えられた。なお、同時期に例のヒトラーも生まれている。
しかし1904年。文麿13歳の時、父が多額の借金を残して死亡。この事は文麿を悪魔として覚醒させる原因となった。また、母はとっくの昔に死んでいる。この時、金目当ての西園寺公望(第7代内閣総理大臣)という人が助けに来た。しかし実際には西園寺は助ける気がなく、むしろ政敵の子である文麿を殺したかったはずである。この事から、実は陰で文麿が悪魔としての能力を使って、公望を操ったという説もある。[2]
大学では社会主義を崇拝し、かのオスカー・ワイルドの本を訳している(これは、我々お得意のジョークではなく本当の話。びっくりだろぅー?)。そう、彼が日本で初めてオスカー語録を作った人物である。この事から、もっとアンサイクロペディアで褒め称えられるべきであるが、やはりヒトラーの二番煎じであることから無視されている。
悪魔文麿、政界へ編集
25歳になったんで貴族院に入った。俗に言う世襲議員である。今だったら、間違いなく叩かれる。さらに「米英本位ノ平和主義ヲ排ス」と言う頭の固い文章を書き、ユーモアたっぷりの米英人に叩かれる。さらに、貴族院で所属している会が潰れかけと見るや否や親戚の徳川と一緒に、火曜会と言う、火曜日しか貴族院に出席しない会を作り西園寺から叩かれる。
しかし血筋だけが良く、さらに身長が180cm以上だった事で、国民からは叩かれずに済み「早く、総理になればいいのに」とまで言われた。[3]1933年に、貴族院議長という権力を与えられた。その3年後に陸軍が起こした方の事件が発生し、岡田啓介が「自分のせいだ」と決めつけ[4]辞めてしまった。仕方が無いので西園寺が近衛に「俺と一緒にや・ら・な・い・か?」と頼んだところ、「麿は、病気だから、やらない。」と断った。[5]
悪魔文麿、首相に編集
1937年、45歳の時。軍靴のコツコツとなる音をお構いなしに、首相に就任してしまう。周りの人間からはタイミングが悪すぎと言われたが、文麿は「陸軍・海軍と軍部を叩けば、天皇に認められ、摂政になれる」と悪魔らしいことを思っていたらしい。しかし、摂政になれるのは、天皇が元服(成人)するまでで、それ以後は関白にしかなられないのである。[6]中学生ですら知っている事を分かっていないだけに、後々大変な目にあうのである。
そうとも知れず就任した矢先に、突如「麿は、共産党員や、二・二六事件で捕まった連中を釈放したい。」と言い出したのである。これには恩師・西園寺も大反対し、結局撤回したが、彼の虚言癖は孫にも遺伝されてしまった。
同年の7月7日、七夕の日に願い事に「支那征服」と書いた矢先橋の上で大喧嘩が勃発し、日中戦争へと発展した。事件発生当初文麿は「麿は、支那を征服したいんで、兵を送らふ。」と発言。その後国会においては「麿は、事件をこれ以上、大きくしとうない。」と言い出すなど、なかなかの秀才ぶりを発揮。しかし今度は、中国の兵団に4億円近くの予算を献上するなど、一体中国と対立したいのかそうでないのか、まるで分からない様になってしまった。結局8月9日、蒋介石が挑発してきたのをいいことに、「麿はやはり、支那を征服したいのじゃ。」と言い出したのであった。
その後「臣民、みんなで、や・ら・な・い・か?」と言ってみたり、「臣民の電気は、麿の物。」と言って、国家が電気を自由気ままに操るようにした。しかし、彼のあやふやさは国民に不信感を与え、1939年の1月5日に正月中と言うのに、首相を辞任した。
悪魔文麿、班列に編集
そうして辞めていった近衛だったが、次のたちあがれ爺さんの内閣で、「班列」、今で言う無任所大臣、いわゆる閑古職の大臣として入閣した。国民から見れば、せっかく近衛が辞めて安心した矢先の出来事だった。しかし、組閣後の記念写真撮影の時から首相の平沼と対立する。
その原因として考えられるのが、近衛の背が高すぎた[7]ために、平沼が「自分より目立とは許せん!」とケチをつけ出したからである。これに近衛が「じゃぁ、俺の代わりに、hydeを班列にすりゃいいじゃないか」と反論。当時hydeの存在は微塵もなかった為、平沼は言い返せず、結局喧嘩はおさまった。
悪魔文麿、二度目の首相就任編集
1940年7月22日、6か月で辞めると言いだした、米内に代わって首相に就任する。実はその前にもチャンスはあったものの、例の如く西園寺さんが邪魔をしたので、就任できなかったのである。しかしその西園寺がようやく死に、葬式で「西園寺め、ざまぁみやがれ。麿が次の首相だ!」と言いながら香を遺影に投げつけ、棺桶にGKBRを仕掛けた。大衆から「遂に、近衛は発狂したか。」と言われたが、実はソレは演技であった。万が一西園寺の後継者が出てきたとしても、[8]「アホと化した近衛に総理を任せれば、自分の言う通りになるだろう」と思われ、首相に就任できると思ったからである。複雑怪奇ではあるが、そういう作戦を現実に実行したのだった。
二度目の首相就任で、「東アジアみんなで、や ら な い か」と言ってみたり、今度は、「ウホっ、いい独伊」と言った。また後になかったことにされる、日ソ中立条約なんかも結んだが誰も気にしない。しかしこの内閣では、東条モドキが、「近衛は天皇か!?」と突っ込んでみたり、「大東亜、マンセー」と閣議中に突如叫ぶなど、支持率低迷の大きな原因を作った。結局、1941年7月18日に内閣は総辞職した。が、まだ文麿は総理大臣であった・・・
悪魔文麿、三度目の首相就任編集
実は近衛は、キチガイの松岡洋右を辞めさせるために総辞職したのだった。しかし、何故一人を更迭するのに総辞職したのだろう。それは近衛が「麿は、総辞職したい気分なのだ」と言ったからである。[9]
この内閣では、近衛は珍しく「麿はアメリカと闘いとうない。」と言った為、日米首脳会談をやることとなった。が、我儘なアメリカが、「ミーは男漁りに忙しいから、会談出来ないネ。」と会談直前に言い出したため、実現はしなかった。それに怒った近衛は、腹いせに陸相(東条)、海相、外相らを呼び「麿は辞める。あとは、好きに計らえ。」と発言。あっという間に辞めてしまった。1941年の10月18日のことであった。
その後、後継首相を選ぶ会議では無断欠席し、代わりに91歳にもなる、ぬらりひょんを会議に繰り出した。しかしぬらりひょんもかなりの高齢[10]で「我は、ぬらりひょん。妖怪なり。次の首相は、鬼太郎なり。」と認知症を思わせる発言が飛び出し、会議は混乱した。結局ドサクサに紛れて、会議に出席していた誰かが「俺がやる」と言ったら、皆「俺がやる」となり、最後に手を挙げた東条が「じゃ、俺がやる」と言ったところ、皆「どうぞ、どうぞ」となり、結果、東条首相が誕生したという逸話がある。[11]
悪魔文麿、自殺編集
戦時中は必死に戦争を止めさせようしたが(本人談、客観的にはまーったく信用ならず)、他方では東条の首相続投を支持するなど、やはりアヤフヤぶりが目立った。コレを米軍に目を付けられ、終戦後に戦犯として逮捕される。が、逮捕の寸前に青酸カリを飲んでのうのうと死んでしまった。遺書には、
と書いてあった。最後の「孫」とは、熊本の殿様の事を指すものとみられる。正直な話、近衛が生きていたら広田は死刑にならずに済んだのではないだろうか。
総評編集
戦争を始めた原因とも言える人物だが、その責任を東条に押し付けた。その事から、近衛は何でもかんでも、責任転嫁する人物でああったと評価されている。だが、仮装パーティーでヒトラーのマネをしたり、オスカー・ワイルドの素晴らしさにいち早く気づいたりしたことから、日本人初のアンサイクロペディアンとも言えよう。
関連項目編集
注編集
- ^ 強いて言うなら、ヒトラーは拳銃自殺、近衛は服毒自殺だが。
- ^ 事実、彼はその後ただの老いぼれとなり、挙句老害とまで言われた。なお、公望は現在、戸籍上は死んでいる。
- ^ だが戦後はボロクソに言われている。
- ^ 当時の岡田は政権運営に困っていたので、事件を理由に辞めた。
- ^ 今やっても、自分が叩かれると分かっていたからである。また当時、趣味で盆踊りをしていたという説もある。
- ^ 昭和天皇は大正時代になぜか、関白ではなく摂政を務めた。
- ^ 少なくとも、180cmはあったらしい。
- ^ 実在はしていたものの、夭折した。
- ^ 実際は、首相に罷免権がなかったためである。
- ^ 現在でもかなりの高齢とされるが、当時では非実在老人ではないかと疑われた。
- ^ コレが、後のダチョウ倶楽部のネタになるのは言うまでもない。
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