源行家
源 行家(みなもとのゆきいえ)とは源義朝、源為朝らの弟で、源頼朝、源義経、源範頼、木曾義仲らの叔父。負け戦愛好家で歩く死亡フラグである。
生涯編集
生い立ち編集
源為義の十男として生まれる。初めの名乗りを義盛(よしもり)という。新宮十郎、新宮行家とも。以仁王の挙兵に伴い諸国の源氏に以仁王の令旨を伝え歩き平家打倒の決起を促した…といえば聞こえはいいが、実際のところは影が薄く負け戦続きでほかにいいところがないだけである。生年ははっきりしないが1140年代前半であり、甥の頼朝とはたった5歳ほどしか違わない。
平治の乱編集
初陣は1159年の平治の乱である。兄・義朝に従い源氏につくがお察しの通り負け戦である。しかし影の薄いことが幸いし、戦線離脱に成功して熊野に逃れ同地に雌伏する。それはそれは影が薄く、平氏の軍勢のまっただ中を堂々と歩いても全く気にされなかったほどだった。
熊野での潜伏編集
平治の乱後、熊野の山奥に約20年もの間潜伏することとなる。しかしこの20年の間に何をやったかといえば、義経のように武芸に励んだわけでもなく、頼朝や義仲のように仲間を増やそうとしたわけでもなく、ずっと双六などで遊んで過ごしていた。端的に言えばニートである。この間平氏の追っ手を恐れた義盛は行家と名を変えたが、京にいる平氏連中は彼が存在することも知らなかったので全くの杞憂だった。
以仁王の乱編集
だがそんなニート生活を送っていた行家にも1180年、転機が訪れる。後白河天皇皇子、以仁王と源頼政による挙兵である。彼らに声を掛けられて「やっと(負け)戦ができる」と意気揚々と出かけるも、自分のせいで情報が露見し、準備不足のまま挙兵に至る。しかもタチの悪いことに、以仁王や源頼政は戦死したが行家は生き残ってしまう。それほどの影の薄さだった。 なお、行家は頼政や以仁王に声をかけられたとされているが、都にいる彼らが熊野にかくれた影の薄い行家を知っていたはずがない。一説には行家はその影の薄さを利用して京都で諜報活動をしていたともいわれている。
ホームレス生活編集
戦後、彼は以仁王の平氏追討の令旨を、頼朝をはじめとした全国の源氏に渡すことになる。この功績は大きく、平氏滅亡につながることとなる。令旨を届けるうちに様々な武士団と顔見知りになるが、どこも彼を仲間にしてくれなかった。察するに、すでに仲間にすると負ける、という死亡フラグ扱いだったと考えられる。しかし、三河や尾張の武士団に仲間にしてもらい、甥の源義円を仲間にして、とうとう挙兵することができた。
そして1181年、墨俣川の戦いで負ける。しかも甥の義円まで戦死させてしまう。大敗北を喫し逃げる行家を平氏は追いかけたが、運のいいことに(?)上流から義仲が流れてきたために戦は中断。折角の負け戦が中途半端になり、激怒した行家であったが、この邪魔者が木曾冠者義仲であると知ると、恩着せがましくいろいろ言い含めて野に放った。負け足りない行家は、三河でもう一度負け戦に興じ、充分満足してから関東の頼朝の所へ退いた。退いたものの「歩く死亡フラグ」として疎まれたために戦争にも出られず、もちろん負け戦を楽しむことはできなかった。以降、慎重で負け戦をしようとしない頼朝の元を去り、墨俣にて恩を売っておいた義仲の下へ行くことになる。
義仲は行家を嫌っていたが墨俣で恩があったので仕方なく仲間にし、兵を預けてしまった。行家はこれ幸いと志保山の戦いで負けようとしたが、義仲による援軍が間に合ってしまい結局勝ってしまう。これが行家の初めての(同時に唯一の)勝利である。なお志保山の戦いで劣勢だったことは、ウィキペディアでも「行家軍は案の定、散々に蹴散らされており」と書かれてしまっている。その後、都入りしようとする義仲と別れ、伊賀方面を攻める。ここでは、兵力差のために負けこそしなかったものの、隙あらば負けようとしていた。結局、都の平氏に見捨てられた敵の大将が投降し、負け戦とはならなかった。
1183年、義仲とともに入京、大して役に立っていないのに義仲と序列を争った。野人・義仲が法皇や貴族らの不興を買う一方、近畿育ちで弁舌が立つ行家は朝廷にいりびたり、法皇の双六の相手などをして取り入った。しかしほどなく義仲と不和となり、身の危険を感じて、平家討伐に名を借りて京を脱出。兵庫で平知盛・平重衡軍との室山の戦いで敗北し、河内国の長野城へ立て籠もったが、そこでも義仲が派遣した樋口兼光に敗れて和歌山へ逃げた。当時の四大勢力のうち二つと敵対していたこのころが、彼の人生で最も充実した時期であろう。しかしその後、影の薄さが災いして負け戦に興ずることはできなかった。
義仲が頼朝の派遣した頼朝の弟の源範頼・義経に討たれた後、行家は1184年に許されて帰京している。頼朝一派からは「親戚だし殺したくないけど、仲間にして敗北フラグを立てたくない」と、平家追討には参加させてもらえていない。どうしても負け戦をしたい彼は平家軍に与しようと考えたが、「元々負けると分かっている戦で負けるより、有利で勝てそうな戦なのに負けるのが雅」とかいう謎の理論をもつようになり、そのまま都で法皇と双六をして過ごした。1185年、頼朝が、生きていると敗北するかもしれないとして行家討伐を計る。行家はやっと負け戦をできると狂喜乱舞し、壇ノ浦の戦い後に頼朝と不和となっていた義経と結ぶ。そして反頼朝勢力を結集して後白河院から頼朝追討の院宣を受けた。もちろん行家らに賛同する武士団の連中は少なく、頼朝が鎌倉から大軍を率いて上洛する構えを見せると、これでは負け戦にすらならないとして行家一行は都を落ちた。途中で義経とはぐれ逃亡の末に大阪のどこかに潜伏する。1186年、密告により捕らえられ斬首された。
その半端ない死亡フラグぶりに2022年に放映されたNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』における行家(演:杉本哲太)の最期のシーンにおいてナレーションの長澤まさみに「源行家。彼を味方をつけた者は、必ず負けるという死神のような男」と断言されてしまった。
異説編集
あれほど影の薄かった彼が捕まるはずがないとして生存説がささやかれている。実際、範頼の元に走ったとも梶原景時のもとに逃げ込んだともいわれている。
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