源義経
源 義経(みなもとのよしつね)とは、平安時代末期に活躍した天才の一人で、日本屈指の萌えキャラ、幼少の頃は絶世のショタ、サムライ、アイドル、歌手など、様々な職業を兼ねていたが、本当は出っ歯の醜い人だったらしい。
概要編集
幼名の牛若丸(うしわかまる)のほうが知名度が高いことからショタキャラとしての人気は確固たるものがある。現代の人物に例えるなら、イアン・ソープと滝沢秀明と京本政樹と松坂大輔を足して4で割ったような人物だと言われている。つまり存在そのものがありえない人物だった。日本史上でも5本の指に入るほどの美形だったと言われるが、当時の資料の中には「出っ歯の小男だった」と記されているものもある。しかしこれは恐らく義経を妬んだものによる悪意のある歪曲であり、例え小男でも156cmのhydeのようなビジュアル系はいるので、恐らくは義経もそうだったと思われる。あるいはhydeは義経の生まれ変わりなのかもしれない。
常人を卓越した身体能力と軍略を持っていたが、アイドルの性なのか我侭で甘えん坊かつブラコン。ある意味究極のヤンデレで、お兄ちゃん(源頼朝)にちょっとでも相手にされなかったりしかられたりすると悲しさのあまり大泣きしてその勢いで梶原景時とかに八つ当たりするとってもピュアな子。その他の症状に女と遊ぶ行為があったらしい。だが内心ではその頼朝をも小馬鹿にしていたかもしれない。
政治的センスが欠乏していてちょっとおつむが足りなかったんじゃないのなどと陰口を叩かれる事もあったが、実際は頭脳も明晰な完璧超人であった。藤原秀衡や後白河法皇などに上手く取り入ったのがその証拠である。しかし天才の性であるのか、空気を読む事が出来なかったため、周囲の御家人から嫌われた。しかし義経は御家人達から嫌疑をかけられていること対して「能無しどもの僻みだもん、僕悪くないもん」と発言しており、全く気付いていなかったか、或いは気付いていながらもあえてそういう態度を取っていた愉快犯であった事が伺える。「~でつね」「殺して進ぜよう」「ひょっひょっひょ!」が口癖。
空気を読めなかったことから判官びいきブームが去った後は歴史家より酷評されるも、全国のKYと言われる人々からは英雄視されてる。
生涯編集
出生編集
生まれてすぐに、平治の乱が起こって父源義朝は敗れ、源氏一党は散り散りに逃亡した。義朝は逃亡中に温泉でババンババンバンバンとか言いながら裸踊りしている所を裏切り者に殺されると言う情けない醜態を晒し、平家が「お前らの親玉はこんなみっともなく犬死にしたんだぞ」と全国に言いふらした為源氏一党の士気は一気に下がった。ヤリマンであった義経の母常盤御前は源氏の時代が終わったことを確信し、平清盛に自分の淫らな身体を売り渡す事によって生きながらえるばかりか結構裕福な生活をした。現代だったら母親にあるまじき行為とこき下ろされ、校長先生のスピーチなどで「嘆かわしい事だ」と、最近の馬鹿親を非難するための槍玉に挙げられそうだが、この常盤の身売りによってついでに義経達も助命されたばかりかわりと優遇されたのだから結果良ければ全て良しである。
もともと「私文系だから」と体育会系の天下を嫌い、折を見て官僚支配を狙っていたとも言われ「この女が平家呼んだんじゃねえの?」との説もある。 部屋には用明天皇のポスターが張ってあったとも、義経に「アンタは聖徳太子の生まれ変わりなの」と吹き込んだともされる。さらには「この手の女はカルト坊主にだまされるタイプだ。創価じゃねえの?」ともされる。
その後、常盤は公家の一条長成に嫁ぎ、またもその淫らな身を売り渡した。同じ頃義経も平家の皆さんからその美貌を気に入られ、女と間違えられて肉便器にされようとした。狼狽した義経は「僕は男です!」と言って貞操の危機を逃れようとしたが、義経が男がだと発覚すると平家の面々はますます性欲を掻き立てられ、結果、義経は掘られまくった挙句、ケツの中でションベンされたりもした。ちなみに義経の処女膜を始めて破ったのは平宗盛であった。義経は心に深い傷を負うと同時に至上の快感を覚えてしまった為自己嫌悪に陥った。上記のことに加え母親が見知らぬ男共と何度もズッコンバッコン淫らな行為に及ぶ様を見てきた幼い義経は人間不信になってしまい、不良じみた素行が顕著になってきたため、更生の為鞍馬寺に入れられた。
不良少年時代編集
鞍馬寺でも義経は、稚児として僧侶の性欲の刷け口にされた。 鞍馬寺のある鞍馬山は天狗の住む山として有名であり、義経は鴉天狗に捕まった。鴉天狗は美童好みで有名であり、アナルから義経に喰らいつこうとしたが、義経はこれを容易く返り討ちにして鴉の肉焼にして食べた。山に天狗がいることを知った義経はたびたび鴉の肉焼を食べる為夜な夜な天狗狩りに行った。そんな中、たまたま立ち寄った五条大橋で、寺から追い出されてやさぐれている破戒僧の武蔵坊弁慶に出会う。義経は弁慶をクマと勘違いし、クマが山から出てきたら怖いお侍さんに斬り殺されちゃうよと警告するつもりで完膚なきまでにボコボコにした。ボコボコにされている最中弁慶はマゾヒズムに目覚めもっとボコボコにしてと言ってきたが、流石に義経も疲れてしまったので、とりあえず肩もんでと言った。義経に心酔した弁慶は喜んで肩をもんだ。こうして弁慶は義経の忠実なワンコ(ペット)となった。
ただでさえ暴れん坊なのに弁慶まで加わってしまって常盤の手に負えなくなってしまった義経は、東北地方を支配する大豪族の藤原秀衡の元へと引き取られた。秀衡の本拠地・奥州平泉で、義経は秀衡から洗脳教育を施されると共に、悪源太義平とか言うどうでも良い長兄が平家の追手に殺られたこと、他の兄貴達も僧籍に入ったり平家に怯えながら隠れている阿呆ばかりであること、木曾義仲とか言う筋肉馬鹿が長野の山中にいるがとても平家と渡り合える頭脳を持っていないこと、頼朝に至っては関東で北条家の女に骨抜きにされている事などを告げられ、「源氏を継いで平家を滅ぼせるのはお前しかいない、お前はヒーローだ!」と、救国の英雄になることを強要された。
兄との出会い編集
やがて頼朝が挙兵すると、義経は加勢するために平泉を離れた。別れの際、秀衡は「お前は頼朝なんかよりも凄いんだから、逆に頼朝をアゴでこき使ってやれ」と言ったが、極度のブラコンであった義経は頼朝に会うや否や抱きついた。頼朝は困惑し、周囲の御家人は仰天し、梶原景時は卒倒して、頼朝の妻北条政子は発狂した。この一連の行為は、富士川の戦いに勝利して意気揚々としていた源氏の士気を萎えさせまくった。その後、義経は平家打倒の一行に参加したが、義経は源氏の一党を「軍隊」とは思っておらず「鬼退治に行く桃太郎と愉快な仲間達」だと思っていた。しかも自分こそがその桃太郎で、頼朝はいつも自分を誉めて御褒美を与えてくれる優しいお兄ちゃんだと信じて疑わなかった為、周囲の人々との間にあらゆる齟齬が生じたが、義経は全く気にしなかった。恐らく平泉でアイドル扱いされていた上に、幼い頃鴉天狗の丸焼きばかり食べていた為、本当に天狗になってしまったと思われる。美形の外国人が、鼻も自尊心も高いのと同じ事である。
活躍編集
1183年には筋肉馬鹿の木曾義仲を宇治川の戦いで破った。この時義経は「あんな原始人以下の脳味噌しか持ってない阿呆を何でみんな怖がってたの?買いかぶりすぎだよね」と放言する。このことからも、剛の者として知られた義仲さえも義経には取るに足らない相手であった、それほど義経が天才だったことが分かる。翌年の一ノ谷の戦いでは、絶叫マシーンぽくて楽しそうだからという理由で急な崖を馬で下って敵本陣を奇襲。結果大勝利し、戦後敵の生首を酒の肴に返り血で祝杯をかわしたため周囲を怖れさせた。最早一般人どころか、頼朝と共に幾多の戦場を潜り抜けてきた歴戦の猛者たちさえも、常識という箍故に義経についていけなくなっていた。
しかしこの頃から勝手な行動や身の程知らずの言動が頼朝を苛立たせ(お兄ちゃんと一緒に、あんな事やこんな事をしようと頼朝の寝床に侵入を繰り返したりもしていたらしい)、またその恐るべき才能を危険視された為、義経は御褒美をもらえなくなってしまった。その為起こった義経はじゃあ狸のおじちゃんに御褒美貰ってやるもんと後白河法皇におねだりした。結果義経は法皇から御褒美を貰う事に成功したが、これにより漸次頼朝と不仲になってゆく。
平家滅亡編集
ヤシマ作戦で義経は単独小型艇に乗ったまま敵の大型船めがけて特攻するなどボートレースの腕を存分に見せつけた。この時梶原景時からその暴走振りを窘められたが、景時は泳げないから僻んで自分を中傷していると察した義経は景時を海に突っつき落として笑い者にした。この他にも那須与一が見事矢の的を射た際、平家の平氏が敵であれ見事な弓の腕を見せた与一を称えるべく踊っているところを、義経は踊りが下手で見苦しい、あいつも殺せと与一に命令し射殺させるなど、腹黒である意味酷薄な一面も垣間見せている。
続く壇ノ浦の戦いでは、義経は一時調子に乗りすぎて追い詰められたが、船の中の人に矢を撃ちかけて皆殺しにする反則プレイを犯して見事逆転し平家滅亡の功労者となった。義経の反則プレイを責めるものもいたが、義経が僕が反則犯さなかったら君らも全滅してたんだよと言ったため、誰も言い返せなかった。後半、負けを悟った平家の面々が次々と入水自殺して行くのに対して「バンジージャンプみたいで面白そう」と感想を述べたり、合戦後血に染まった壇ノ浦で弁慶ら一党と共に勝利の立ちションをしたりと常識外れの行動を行い顰蹙を買ったが、義経は全く気にしなかったし、この程度誰も気にしないだろうと思っていた。 さらにこの戦いで取り戻すべき三種の神器の一つの草薙剣が失われたが、どうせコピー出来るからいいやと落ち込まなかった。 その上、勝者の権利だとばかりに生け捕りにした平宗盛の目の前で平徳子を犯したり(これは昔に掘られたことに対しての仕返しとも言える)、平時忠の娘を「俺の嫁」にしたりした。
お兄ちゃんとの命がけのかくれんぼ編集
戦後、当然義経はたっぷりお兄ちゃんから御褒美を貰えると確信しており、鼻高々で関東へ戻り、頼朝に謁見を求めた。ところが頼朝から反則行為や独断専行などを咎められ、厳しく叱り付けられた。義経は鎌倉の手前の腰越に留められ、鎌倉立ち入り禁止を命じられた。誉められるどころかこっ酷く怒られたせいで義経は心に深い傷を負ったが、とりあえず頼朝に対しエクストリーム・謝罪のお手紙を書いた。いわゆる腰越状である。しかしその内容がちょっとあれだったので、3行目ぐらい頼朝は読む気を削がれてしまい、その場で嘔吐した。そして腰越状を破り捨て、トイレットペーパーとして使い捨てたという。以下がその内容である。
「私は断じてお兄ちゃんに翻意など抱いてはおりませぬ。 私が謀反を起こそうとしているなど、兄弟仲を裂こうとする梶原景時辺りの讒言に違いありません。 私はいつもお兄ちゃんと同じ布団であんなことやこんなことをしながら一緒にいいことしてる夢を見ます。 それぐらいお兄ちゃんのことを思っているのです。それでもお兄ちゃんが許してくれないなら… 私はお兄ちゃんのワラ人形に釘500本打ちつけて燃やしてやる!」
この文章では頼朝が嘔吐するのも無理はないと言える(ちなみに現在、腰越に現存している腰越状は内容改竄された写しである)。義経は今で言う不思議ちゃんの一面があったと思われるが、合理主義者過ぎた頼朝にはそんな義経が全く理解できなかった。結局許されなかった義経は鎌倉へ入れず、京都へ戻るしかなかった。「お兄ちゃんの馬鹿!ボケ!オタンコナス!梶原のキツネと北条の年増女の言いなりの癖に!」と兄を激しく非難。頼朝も「おまえなんか帰ってこなくていいもんね!!!!」と発言して兄弟は絶縁。義経は家出する形となった。しかし、坂東の土臭い田舎武士共と肩を並べてこれからの政をやってゆくのが嫌で嫌で溜まらず、自ら家出したとも、天才の自分が思ったより評価されないばかりか疎まれている事に憤慨し、もっと僕を評価してくれる人を見る目のある人のところへ行きますと言って家出したとも言われている。もしくは家出することで頼朝の気を引こうとする作戦だったのかもしれない。
鎌倉へ入れずに京都へ戻った義経に対し、タヌキ親父のハゲ後白河法皇が壇ノ浦の戦いにおける優秀な成績をたたえてMVP賞を義経に与えて手駒にしようとし、義経もすっかり懐いて法皇の言いなりになってしまった。(一説では法皇は男色家で、その為に美男子の義経を寵愛したとも。)しかし実際は、義経が自らの名を上げるために逆に法皇を利用したと言われる。この後義経が「僕は法皇に騙されていただけなんです」と語っており、法皇に責任を擦り付ける意図もあった可能性も十分ある。
さて頼朝は叔父の源行家が謀反を企てているので斬るようにと義経に命じるが、義経は拒否。京都で義経と行家が接近していることを知った頼朝の観測気球だったが、これで頼朝は義経を討伐することを決意し、土佐坊昌俊という坊主に義経の屋敷を襲撃させる。しかし義経の奮戦で土佐坊を逆に返り討ちにした。すると義経は土佐坊は兄頼朝の刺客であるとして、後白河法皇に強要して(義経は後白河法皇に「もし頼朝を討てという院宣をもらえないから、ここで切腹するからね!!弁慶とか逆上して、御所がどうなるかわかんないよ知らないよ!!」と強弁したという)、頼朝討伐の院宣をもらった。すると頼朝も怒って義経討伐の兵を挙げた。しかし義経のもとにはさっぱり兵が集まらない。その理由は、兄頼朝の「武士の武士による武士のための鎌倉幕府を作る」という公約に、武士たちが惹かれていたことと、義経が平家の捕虜たちを相次いで処刑したこと(本当は兄頼朝の指示なのだが)で、平家と縁が深かった武士たちが義経に味方する心情にならなかったことが挙げられる。義経は、兄頼朝の大軍が鎌倉から京都へ向かっているという知らせを聞くや、慌てて京都から逃亡。九州へ逃げようとしたが、船が難破して300騎いた義経一行は離散してバラバラになり、義経自身も姿をくらました。一方で頼朝の軍勢が京都に入り、今度は後白河法皇から義経討伐の院宣を得る。さらに義経捜索の為という理由で頼朝の家来たちが全国に守護・地頭として派遣され、地元の武士たちを指揮することが承認された。こうして義経は平家を滅ぼした日本一の大ヒーローから、わずか8か月で全国指名手配犯になってしまったのである。ここに兄弟の公私混ざった壮絶なエクストリーム・かくれんぼが幕を上げた。
しかしかくれんぼを続ける途中に、旅費を稼ぐ為に路上ライブや大道芸をしながら逃避行を続けた為、簡単に身元が割れた。しかし義経一行はその度に追っ手をぶっ殺してなんとかやり過ごした。さらに密かに京都に戻って、個人的に親しくしていた公家や僧侶にかくまってもらったこともあったが、近所のおばちゃん達があのお寺に義経が泊まってるんだってと騒ぎたてたため、義経は京都にやっぱりいられなくなって、逃亡。これに関して義経はかくれんぼのルールを理解していなかったんじゃないかと言う指摘があるが、義経がプレイしていたのはエクストリーム・かくれんぼなので反則ではない(ちなみに母親の常盤御前が保身のために鎌倉に通報すたとの記述がウィキに「要出典」つきで書かれた事もあった。さすがに我が子といえども義経の性癖には常盤御前も辟易したと推測される)。また安宅の関を女装して関所を通った時冨樫泰家と言う関守に変装がバレてしまったが、泰家は義経のコンサートには毎回欠かさず来るほどの義経ファンであった為見逃してもらえた。
北海道への撤退編集
義経が最後に頼ったのが父親代わりの藤原秀衡だった。秀衡がいる東北地方に、京都を脱出した義経がどのルートからたどり着いたのかは今以て不明であるが、京都と東北の間には関東があり、頼朝からすれば自分の眼前を義経が無傷で通過してしまうという失態を犯してしまった。 さて無事に東北に着いた義経は、秀衡に対し何も悪い事してないのに自分の才能に嫉妬した兄や能無しに御家人共に命を狙われてるんですと涙ながらに訴えた。秀衡は秀衡で齢60を越して自分が義経を担いで悪の親玉頼朝相手に戦う救国のヒーローになれると言う妄想を抱いて悦に浸り、さっそく戦争だと今まで溜め込んだ黄金で兵器を購入したり軍備増強を図った上、頼朝を怒らせるような挑発的な文面の書状を何枚も何枚も送りつけた為、頼朝は当然キレた。
しかし秀衡はまもなく亡くなり、死の直前に藤原泰衡ら息子たちに義経に協力して頼朝をぶっ殺せと遺言したものの、ほぼ全日本の武士を敵に回して戦うという重圧に凡人の泰衡は耐え切れず、発狂して義経を襲撃してきた。しかし別の説もあり、泰衡は義経と共に駆け落ちしようとしていたとも言われる。
源義経はエクストリーム・かくれんぼの強豪選手としての誇りを持っており、このまま永久にかくれんぼしてやるとして自害したふりをして逃亡した。身代わりの遺体は用意していたのだが、それがあまりにも嘘くさかったため、ちゃんと生存している事はバレバレになってしまった。
なおその際に従者である弁慶の立ち往生が伝説となったが、これは義経との駅弁ファック最中に死んだことによるものである。
最期編集
義経は蝦夷地(北海道)に逃亡するが、そこで原住民に捕縛されてしまう。当時の北海道の原住民は現在アイヌ民族として知られるような自然を愛する人たちではなく、人食いの野蛮人であり、そこで義経は原住民に食われて最期を迎えた。ちなみに原住民による人肉料理の事をジンギスカンと言い、「源義経はジンギスカンになった」というのは、日本人では知らぬ者はおらぬくらい有名な話である。
なお、御存じの通り現在のジンギスカンは羊肉料理であるが、山形県米沢市の「羊肉のなみかた」ではオリジナルの味噌ダレを使った「義経焼き」という料理がある。
生存伝説編集
義経には様々な生存伝説があり、かくれんぼしたまま北海道で生き残って、そこでナコルルとリムルルの姉妹を生んで現代のアイヌ民族の先祖になったとか、ゲッター線を浴びて蒼き狼になってモンゴルで暴れまくった(言うまでもないがチンギス・ハーンとジンギスカン鍋を取り違えているのである)説や、徒手空拳の達人の妹と結婚して陸奥と名乗った、宇宙人に拉致されてその宇宙人と一晩の検閲により削除をした説や、その後SOS団に入団した説もある。また後世にオーブと呼ばれる島国に渡ったという異説も存在する(彼以前にも彼以降にもオーブに渡ったといわれる日本人は数知れない。これがオーブが日本に酷似した文化をもつようになった遠因であるらしい。)。
転生輪廻編集
『人類の黙示録』なる予言書によれば義経は将来、M2という米軍の司令官となって中東、アフリカで活躍するといわれている。このとき、またしても兄のM1に追われるものの、今度は世界の支配者に生まれ変わるらしい。