裕仁

昭和から転送)
半保護
この裕仁のぺーじは、いっぱい いたずらされちゃったので、
すうじのなまえのこいちねんせいのこは へんこうできないことに なってます。
ちゃんとなまえがついて おおきくなったら へんこうできるようになるよ。
どうして こうなっちゃったかは、のーとここをみれば わかるかもしれないよ。
この記事は左に寄り過ぎています。

ここが真ん中です。

国が亡んだのに、王だけ生きてるなんて滑稽だわ。
天皇裕仁 について、リュシータ・トエル・ウル・ラピュタ
裕仁は永遠の友達さ!
裕仁 について、ヒトラー
裕仁は、他人を殺し・全人類を殺す者であるから、彼らの責任は当然、死に値する。
従って、裕仁は腹を切って死ぬべきである。
また、裕仁はただ死んで終わるものではない。
彼は無責任な悪人であり、唯一神又吉イヱスが裕仁を地獄の火の中に投げ込むものである。

裕仁 について、又吉イヱス

裕仁(ひろひと。西暦1901年4月29日~1989年1月7日)は、大日本帝国の第3代独裁者で、ラストエンペラー。自称第124代天皇でもあり神聖にして不可侵の現人神らしいが、その実態は正統な南朝天皇から不法に帝位を奪い臣民を欺いている僭主、の子孫である。戦後は日本の飾り物として陳列され諸国民から嘲られた。愛称は盟友に因んでヒロヒトラー

「迪宮裕仁」(みちのみやひろひと)が幼名であり、「昭和天皇」(しょうわてんのう)は死後に命名された追号である。

第4回 (1945年
エクストリーム・謝罪優勝プレイヤー
第5回 (1946年
エクストリーム・謝罪優勝プレイヤー
よくあるヒロヒトの姿
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生涯

少年期

統仁(孝明天皇)は曽祖父。睦仁は祖父。嘉仁は父。秩父宮は最初の弟、高松宮は二番目の弟、三笠宮は三番目の弟。明仁は息子、美智子は嫁。徳仁は孫息子。

裕仁の歪んだ性格は、父・嘉仁からの愛情に餓えた幼少期に形成された。現人神である嘉仁はよくチクワで野鳥観察を行っていた。そしてチクワの穴から裕仁のことを見れども肉眼で裕仁の顔を直視した事は一度もなかった。

独裁者

25歳の時に父の天皇嘉仁(追号:大正天皇)が何処かへ行くと、天皇に即位して世界に名を馳せる独裁者となった。天皇裕仁は即位すると、「“大正16年”を“昭和2年”に変更する。俺の治世を“昭和N年”と呼べ!文書も全部“昭和”に書き換えろ!」と全帝国臣民に命令した。これにより、“明治60年”“大正16年”“西暦1927年”“皇紀2587年”に相当する年の日付は、全て“昭和2年”に変更された。盟友のアドルフ・ヒトラーですら、「俺が総統に就いた西暦1933年を“ハイル元年”に変更する。俺の治世を“ハイルN年”と呼べ!そして、次の総統が就任したら、“ハイル”とは別の時代名に変更しろ!」とはしなかったのである。

独裁者になった裕仁は、第二次世界大戦までの軍国化と強圧政治を推進した。戊辰戦争から60年後(西暦1928年、当時27歳)には、長州人田中義一首相と一緒に民主化運動家を大量投獄し、「天皇様に逆らう者は殺す!」と宣言した。しかし、田中義一が張作霖爆殺事件で不始末を起こすと、これに業を煮やした裕仁は田中首相を更迭した。この時の裕仁の激怒に田中は心臓を痛めた。その後も、浜口雄幸首相がロンドン海軍軍縮条約を結ぶと、陸軍が「天皇様の統帥権を侵害するのか!」と激怒。これは、嘉仁が第一次世界大戦で統帥権を行使できなかった事への報復である。当然、統治権を一握りする「ネ申」である裕仁は、軍首脳に与して、軍首脳のやりたい放題を放置した。こうして、子分の関東軍特高警察を使い、アドルフ・ヒトラーヨシフ・スターリン毛沢東も顔負けの白色テロと大量殺戮を国内外で展開した。

バリバリの鷹派政治家としても有名であり、西暦1932年(当時31歳)の満州国樹立では「勇猛果敢な追撃に満足する。」と言い放ち、西暦1937年(当時36歳)に日中戦争で南京を攻め落とした時には「深く満足に思う。」と言い放った。裕仁の圧制を見聞した蒋介石ホー・チ・ミンは、「日本は警察国家、特高の国だからね。」と嘲り倒した程である。

西暦1940年(当時39歳)夏には、「インドシナをフランスの圧制から解放せよ!」という美名で、大日本帝国軍をインドシナに送り始めた。フランスがナチスドイツに侵略されて動揺しているのを後目にした行動である。そして、その年の秋には日独伊三国同盟(いわゆる桃園の誓)によってナチスドイツアドルフ・ヒトラーイタリア王国ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世と義兄弟の契りを結んだ。特にヒトラーとは「おまえ」「あなた」と呼び合う仲であり、そのいちゃつきぶりに、ヒトラーの敵将であるスターリンやドゴールや蒋介石はいつもやきもきしていた。但し、日中戦争が始まった当初、ヒトラーは蒋介石を援助していたが、天皇教を猿真似したいヒトラーは、蒋介石を切り捨てて、天皇裕仁に寝返った。この時、蒋介石は「ヒトラーの野郎、今に見ておれ!」と報復を誓った。この時、蒋介石と手を結んだ者が、美しい国フランクリン・ルーズベルトである。又、ヒトラーが特注ポルシェを裕仁に贈った事は、裕仁とヒトラーの睦まじさを物語る有名な話である。

西暦1941年(当時40歳)には、植民地を手放したくないABCD4ヶ国が、大日本帝国に経済封鎖を行った。これにブチキレた裕仁は、12月開始で真珠湾攻撃マレー沖海戦を命令し、本格的に第二次世界大戦に参加した。こうしてアジア太平洋侵略戦争(25mバタフライ競争;裕仁は第三コース)を仕掛け、天皇教に逆らう数百京(当時の人類の約99.99%)のアジアやオセアニアの人民の生を奪った為、国内外から畏敬の念を込めて大怪獣ヒロヒトラー(Hirohitler)と呼ばれるようになった。

戦争末期の西暦1945年(当時44歳)2月になると、子分の近衛文麿が、「いい加減に戦争を止めたらどうだ。そのうち蘇連邦軍も戦争を仕掛けるだろうから危いぞ。同盟国ドイツの状況を見ろ。」と裕仁に諌言した。しかし、裕仁はこの諌言を無視し、裕仁と彼の側近(特に岸信介や松岡洋右など長州人)は「国体護持」と妄言を吐いた。この結果、首都・東京を筆頭に、日本中が空襲で焼け野原になったのである。そして、西暦1945年4月28日には、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の子分であるベニート・ムッソリーニ将軍が、パルチザンに射殺され広場で多くの侮辱を受けた。その2日後の4月30日には、盟友のヒトラーは、「裕仁、後は頼む…。」と言い遺して薄暗く黴臭い地下壕で自殺した。その8日後の5月8日に、ナチスドイツは敗北を宣言して亡国となった。

ナチスドイツが潰れても、裕仁は終戦を躊躇し続けた。その最中の7月26日、蒋介石やトルーマンなど敵将たちは、「天皇教を放棄しないと、貴様の先祖の土地を焼き拂うぞ!」と警告した。しかし、裕仁はこれを無視。スイスで行なわれていた藤村義朗とアレン・ダレスの懸命の終戦工作さえも踏み潰した。その結果、8月上旬には、軍が広島長崎に秘密兵器「原子爆弾」を投下した。この時、植民地朝鮮、植民地台湾、中華民国、東南アジア、オセアニアの民衆は、「ざまあみろ!」「天皇国家もお終いだ!」と歓喜の声を上げた。秘密兵器「原子爆弾」でやっと目を覚ました裕仁は、西暦1945年8月14日に、蒋介石やトルーマンといった敵将たちにギヴアップを宣言。そして、8月30日にはダグラス・マッカーサー率いる占領軍が大日本帝国に上陸し、9月2日に裕仁は外交文書でギヴアップを正式宣言。こうして、明治維新で生まれた「万世一系の現人神である天皇が治める神の国大日本帝国は美軍に占領され、主権を失い77年にわたる歴史に幕を閉じた。

亡国の王

 
マッカーサーの右に立つ裕仁。孫文の右に溥儀が立ってるのと同じだな!
 
裕仁:「悪ヒガ君(東條)ハ死ンデモラフシカナヰ。」
東條:「陛下(裕仁)、ソレハ幾ラ何デモアンマリデス。」

狡猾で卑劣な裕仁は、白色テロと大量殺戮の責任を、子分である近衛文麿東条英機小磯国昭などになすり付け、A級戦犯になることを回避した。第二次世界大戦で敗れた西暦1945年の12月16日に、近衛文麿は、「天皇が罪に問われませんように」と言い遺して自殺した。そして、東条英機は、西暦1948年12月23日に、「天皇陛下万歳」と言い遺して墓場に突き落とされた。要するに、近衛や東条は、裕仁の「身代わり」で死んだのである。例え裕仁の身代わりでなかったとしても開戦時首相の東条英機は許されなかっただろうが、近衛文麿まではわからない。 圧倒的多数の勝戦国の権力者と民衆は、「最高権力者である天皇裕仁を始末しろ!」と主張した。そりゃあ、大日本帝国憲法に「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬ス」「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と書かれてるし、この憲法に則って開戦を命じた者も天皇裕仁なんだから。ところが、「日本版辛亥革命」こと乙酉革命を起こしたダグラス・マッカーサーは、勝戦国・敗戦国ともども民衆と政治家が主張した裕仁の殺害を拒否し、「溥儀みたいな再利用廃帝にすれば好い」と主張した。

なおこの頃本来の皇位継承者である熊沢天皇に対して、御用学者とマスコミを使い、いけしゃあしゃあと「彼こそ自称天皇であるという」プロパガンダを行い、更にGHQの力も利用して弾圧を行っている。

その後マッカーサーが率いる革命軍は、江戸城乗っ取りから丁度79年後の日である1947年5月3日に、「国民が主人公」を明記した日本国憲法を成立させて日本国を法的に樹立し、皇位僭称者による独裁国家・大日本帝国に引導を渡した。???『国が滅んだのに王が生き残ってるなんて滑稽よ。』 ところが、裕仁は、日本国憲法によって権力を剥奪されたが、マッカーサーの温情(と、言うのは名目で実際は絶大な力を持つ熊沢天皇が即位する位ならヒロヒトを再利用したほうがマシ、というGHQの方針による)で、国民の意思でいつでも廃止できる「新国家・日本国の象徴君主」として日本の頂点に居座った。裕仁を溥儀に置き換えると、大日本帝国では清朝の最高権力者で、日本国では満州国の傀儡君主ってことになる。

同盟国であったイタリア王国では、裕仁の盟友であったエマヌエーレ3世は、西暦1946年5月9日に廃位され、国外に追放された。息子のウンベルト2世が即位したものの、彼も僅1ヶ月後の6月12日に廃位され、国外に追放された(サボイア一家の帰国は孫のヴィットーリオ・エマヌエーレの代まで許されなかった)。こうして、イタリア王国は倒され、イタリア共和国が立てられた。

ところが、乙酉革命で裕仁に与する旧国家軍(吉田茂文部省など)は、「大日本帝国は亡びぬ。何度でも甦るさ!」って負け惜しみを吐き、日本国憲法によって失効した「昭和」の元号を使い続けた。吉田茂は、革命軍に媚を売っただけではなく、権力を剥奪されたはずの裕仁に対して「臣 茂」と自称した。ところが、中華ソビエト共和国が誕生すると、革命軍内の美国は旧国家軍に寝返り、革命軍は分裂して敗北した。

裕仁も裕仁で、子分たちを美軍に売り渡して死刑を免れた後も、マッカーサーに対して何度も諂い、「我が天皇を美しい国に護ってもらいたい。その為ならも基地も厭いません。」「琉球なんて、条約作ってずっと美しい国の軍事占領下に入れて結構です。最低でも50年」と言い放った(沖縄メッセージ)。このように、日本国での裕仁は、統治権を持たない「象徴君主」などではなく、統治権を行使して美国の傀儡国家を作った「統治者」だったのである。そして、マッカーサーが撤退した後、西暦1968年(当時67歳)に明治維新100周年のイベントが開かれると、このイベントにヌケヌケと参加し、明治維新によって生まれた大日本帝国の復活を妄想した。

西暦1975年(当時74歳)には、「原爆を受けたのは止むを得なかった。」「責任?そういう言葉のアヤについては、自分は文学者じゃないから答えようがない。」と、裕仁は皆も知っての通りあの能面の様な顔で平然と言い放った。正に、卑劣漢・真の売国奴と言うべきである。真の愛国者は、政府が誤った方向に行かないように諌言できる者を指すのであって、これは産経新聞などの右翼が「売国奴」「反日分子」と罵倒する人たちである。裕仁をヨイショする右翼こそ、「売国奴」「反日分子」なのである。裕仁と同じく、死刑を免れた子分には岸信介がいた。勿論、広島市民と長崎市民は大噴火し、「天皇(裕仁)を引摺り下ろして、広島と長崎で市中引き回しにしろ!」と日本国政府に苦情を出した。これ以後も死ぬまで、天皇裕仁は広島と長崎の爆心地を一切見なかった。

晩年

1988年9月19日に血を吐いてからは、日本の全テレビが体温やら血圧やら脈拍やら今日の運勢やら細かい病状を一々(空いた時でも24時間おき、ひどい時は数時間おきに)報道し、献血は湯水のように裕仁に注入された。この時、日本国民は忌まわしい自粛ムードを強いられた。そして、西暦1989年1月7日ベニート・ムッソリーニみたいに国民に吊るされる事もなく、自宅でのうのうと死んだ。享年88歳。裕仁が死んだ時(Xデー)には、あのテレビ東京を含めて全テレビ局が平常番組を中止して、裕仁追悼番組(いわゆるLive 8)を一日中も延々と垂れ流した。このため、後半になると「裕仁って誰だっけ?」という記憶障碍が惹き起こされた。しかし、裕仁はこれを命じた時に半笑いであったというのは有名な話である。いい加減に飽きた国民はレンタルビデオ店に駆け込み、貸し出し中だらけになった。そして、新聞は、天皇裕仁の積悪を断罪した赤旗だけが、飛ぶように売れた。

 
このときはnnnnnnnnnNHKではなく、このテロップが流れた。

テレビだけならまだしも、日本歌謡大賞と高校ラクビーは中止になるわ(ラグビーは決勝戦進出の両校が同等優勝になった)、大相撲や高校サッカーが順延されるわで、当時の高校生などの夢と青春を奪った。が、本当に忘れてはならないのは、沢村栄治など多くのアスリートは、天皇裕仁が惹き起こした戦争によって殺されたということである。天皇賛美報道が怒涛のように流れた時、沢村栄治の弟の孫たちは「祖父ちゃんの兄の敵、絶対に許さん!」「“昭和N年”なんて使いたくない!」と喚き散らした。又、これらのスポーツイベントの中止や順延は、病床の天皇裕仁が命令したのではなく、天皇ベッタリの御用マスコミが命令した。この時、後に総理になる小渕恵三はラグビーが中止になったことを知らず、一人で花園に行きあたかも自分の功績かのように「平和に成ったなぁ~」といって年号が「平成」になったとか。

広島長崎の爆心地に近い小学校では、三学期の始業式(1月9日 月曜日)の時、児童一同・教師一同は、天皇裕仁のせいで爆殺された児童たち・教師たちに黙祷した。この時、「ヒロヒトが国体護持に拘らなければ、ヒロシマとナガサキの惨劇は起こりませんでした。」と、校長は児童に語りかけた。天皇裕仁の葬儀に対しては、世界各国の民衆が、「戦犯ヒロヒトの葬儀に行くな!」「ヒトラーの葬儀に行くのと同じだろ!」と抗議した。しかし、蓋を開けて見れば、父ブッシュフランソワ・ミッテランを筆頭に世界の主要国の大統領・首相から国際連合事務総長、果ては中華ソビエト共和国外務大臣までが参列し、世界の独裁者たちには意外と人気者だったことを見せ付けた。世界の指導者たちも心の底では、「俺もヒロヒトラーのような独裁者になりたい!」と思ったのであろう。

天皇裕仁を最後に、第二次世界大戦の独裁者は全て死んだ。しかしながら最高権力者は全て死んだ訳ではない。本当はまだルーマニア元国王のミハイ1世がしぶとく生きてるし、ブルガリア元国王のかつての幼君シメオン2世も実権はなかったにしろ今なお存命なのだ。それはさておき、皮肉にもこの裕仁が死んだ西暦1989年は、戦勝国が敗戦国に建設したベルリンの壁が破壊されるなど、ヨーロッパで第二次世界大戦の残滓が消え去った年でもあった。又、天皇裕仁の死で荒れ狂った天皇賛美ムードが、東欧民主化革命の要因になったことは言うまでもない。

死後

裕仁の死後、森喜朗など大日本帝国の復活を狙う奴らは、裕仁の誕生日を「みどりの日」として祝日として残したが、西暦2007年には「みどりの日」を「昭和の日」に正式に改名した。

なお、この件に関して、翠星石は、「みどりの日は翠星石の日ですぅ! 勝手に変えんなですぅ!」と非常に怒っている。又、4月29日生まれの日本国民は、「『みどりの日』から『昭和の日』に変更って、一体何なんだ?俺たちを愚弄してんのか!」と怒っている。

裕仁と特高と右翼と楽しい仲間たち

 
日本放送協会から出征する凶悪なヒロヒトの軍隊、どーもくん

主な残虐行為として「ピンポン奪取」が行われたのもこのころであり、今も少年少女の心をつかんで離さない憧れの挫残虐っぷりを見せていた。(巷でよく見かけるピンポンダッシュは奪取できないチキンどもが少しでもヒロヒトになりたいが為に行う模倣行為である。)

このような天皇裕仁に共感した特高警察が最初に行ったことは、じゃんけんで負けたものがロッテリアに行き「マックシェイクください」という残虐行為であった。この残虐行為は、ヒロヒトが痛く気に入っていたモスバーガーでは行われることは無く、この残虐行為で捕まった特高警察官の藤田田が後にマクドナルドで洗脳され、会長にまでなったのは言うまでも無い。

性格

 
ヒロヒトとヒトラー、あとなんか丸いイタリア人さん
  • 口癖は「あ、そう?」熊本県に旅行したとき「あちらに見えるのが阿蘇でございます」と説明されて「あ、そう?」と答えた。誰も笑わなかったが、一人だけ笑い転げた男がおり、彼は阿蘇の火口に投げ込まれてしまった。
  • 臣民の血税を使って放蕩する一方、臣民の生活には全くの無関心だった。臣民が餓えに苦しんで困窮していることを知らされても、「あ、そう?」と他人事のように言い放った。
  • いったいどんな罪人でも、死に際には涙するものだ。盟友のアドルフ・ヒトラー然り、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世然り、子分の近衛文麿また然りである。しかし、天皇裕仁は違った。死ぬまで涙せず、謝りもせず、悔やみもしなかった。日本国憲法施行後も“君主無答責”にしがみ着いたのである。
  • 子分の軍人たちや政治家たちが死刑になるであろう東京裁判の最中に、裕仁は訴追を免れ、全国各地をのうのうと行脚し、愚民たちを土下座させて舞い上がっていた。国内外民衆の大量死に無頓着であるどころか、「身内」の大日本帝国軍人や政治家すらも平気で軍に売り渡した。
  • 「昭和維新」「尊王討奸」と称して2・26クーデターを起こした若き軍人たちを「愚野郎!」と散々に罵倒したが、後にはクーデターを起こした軍人たちも顔負けのファシズムを布いて大日本帝国を支配した。
  • 裕仁の死んだ子分たちが靖国神社に祭られた時には、「勝手に俺の秘密基地に入ってくるんじゃねえ。バーカ!バーカ!」と叫んで不快感を示した。
  • 「大日本帝国のラストエンペラー」天皇裕仁は、往生際が悪く、終戦をずるずる引き延ばして原爆投下を惹き起こし、敗北後も新国家の天皇として居座った。その一方で「徳川王朝のラストエンペラー」徳川慶喜は、往生際が良く、江戸城をあっさり明け渡して、平民となって静岡に転居し、平民として死んだ。この対照から、「徳川慶喜を見習え!」という台詞が、天皇裕仁を打っ叩く決め台詞になっている。しかし昭和天皇への愛を忘れられない薩長土肥の民、ネトウヨ、アンチ会津などが結託して悪評を流布したせいで、徳川慶喜は今でも逃げ出した軟弱将軍としての評価が根強く、逆に裕仁は潔いという、トンチンカンな評価がまかり通っている。

呼称問題

以上のように、天皇裕仁は恐るべき独裁者であり、そのダイナミックな蛮行と無責任な態度は、マゾ気質を持つ日本人から賞賛された。天皇裕仁が乙酉革命によって権力を剥奪された後も、乙酉革命で失効した「昭和」の元号を用い続け、「昭和ノスタルジー」「昭和元禄」っていう語まで生み出し、日本国時代の復興まで「昭和天皇の御心」「激動の昭和」とまで呼んだ。全く、どんな神経の持ち主なんだ?時代まで天皇に支配されるのがそんなに嬉しいか?

一方で、乙酉革命以後の日本では、民主化勢力は、終わりのない西暦と戦後紀元を公用紀年法として用い、大日本帝国の残党が用いた「昭和」の年号を拒否している。そりゃあ、大量殺戮を惹き起こしても居直り続ける独裁者の治世で年月日を表記したくないし、天皇が死ぬ度に変わる元号なんて使用価値も無いもんな。徳仁天皇も、あと50年もしたらいなくなってるのは確実なんだが、その時はどうするんだろう。

核爆弾2発を落として大日本帝国を葬った「美国」ことアメリカ合衆国では、「ノーモア・ヒロシマ」を唱える反核運動へのカウンターアクションを起こす際、「ノーモア・ヒロヒト」を唱えている。

神風邪

 
バナナコスプレをするヒロヒト。

おフランス帰りのイヤミ27世伯爵によると、ヒロヒト呼称問題に関連して、某百科事典のおフランス語バージョンでは、記事のタイトルを「ボンソワーン(ヒロヒトのおフランス語形)」か「ラム~ル(裕仁のおフランス語形)」にするかという真摯な議論を続けたそうな。結果、1024名の体調不良者(うち32%がパルプンテ症状を訴えた)を出して、おフランスは鬼ヶ島に征服された。おフランス大統領猿コジ氏は犬と雉の助けを求めて、武者修行中だが、雉よりもひよこ陛下に助けを求めたほうがいいのでは無いかというフォークロアあり。

なお、これに関わった人物が多数亡命し、英語版某百科事典でも同様の議論を煽った。議論の末に192派にわかれた執筆者は全滅。冥界で多数がおフランス人と同じ症状を訴えたが、ローマ教皇トイレ掃除をすると会社が良くなるといわれ、現在掃除に必死に励んでみたいお年頃。

彼らが何故このような症状に見舞われたのか不明だが、最終的にDr.マシリトの命名によって、これらの症状を総じて神風邪と呼ぶことになった。[要出典]

子分

関連項目

裕仁関連
ラストエンペラー
先代
天皇嘉仁
1912年-1926年
大日本帝国天皇
天皇裕仁
1927年-1945年
次代
-
先代
-
美国領日本天皇
天皇裕仁
1945年-1989年
次代
天皇明仁
1989年-2019年

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