学校
学校(がっこう、school)とは毎年不祥事を起こしマスメディアやインターネット上でその姿勢がバッシングされるにも関わらず、何故かエクストリーム・謝罪には毎回登場しない、国家との金融面での癒着が疑われる東証株式上場企業である。「学校基本法」の言い訳で存在する法人である。
学校の歴史編集
昔、アマテラスはアマデウス、もといマリア・カラスと語感が似ていたため、100年に一人の天才かと周囲の期待を受けていたが、単なるストリップ大好き人間だったので、羨望の眼差しは、すぐさま失望のそれへと変化した。一説によると、テラワロスにも語感が似ていたから凡人になってしまったのではないかと言われている。
これに激怒したアマテラスは日本人を個人よりも共同体を好み、一部特化型人間や、個性的な人間、才気ある人間、キチガイを排除し、南野陽子、松田聖子を妬み、バッシングするような、集団農耕民族へと造り替えた。そのクセして、文学(古文・現代文)では源氏物語の腐女子物語や夏目漱石の恋愛小説で世間が認めたものは教えると言うご都合主義である。
この結果に満足したアマテラスは調子付いて「お前たちはこれから社会の歯車とならなければならぬ!!!そのためには無知蒙昧な貴様らに徹底した社会常識及び企業即戦力を叩きこみ脳のシナプスにねじ込む!!歯車とならぬものは欠陥品だ!!徹底して排除し、これを集団の快楽とすべきだ!!」と宣言。社畜製造工場である。
これが教育の基本方針となり、学校が生まれ、人々は集団として生きるために蹂躙され他人に気を使わなくてはならぬようになり、岩戸景気に喜んだとさ。おしまい。
学校教育の概要編集
いじめより社会のシステムを殺し、体罰と言うより集団リンチにより力関係を学ぶ。試験によって盗撮術など、人生に必要な技術を身につける。
教育には教科書を使う。教科書には太宰治や芥川龍之介、アインシュタインのあの法則等、学校に馴染めなかったであろう、人間失格を書いた小説家や、偶然思いついた公式等が掲載されている。
「彼らの人間性を知ってしまって、子どもに悪影響が及んだらどうするのか!」とPTA(Personal Terminal Automanualの略)は喚いてるか喚いてないか知らないが、彼らの人間性については「まんが世界・日本の偉人」でアンサイクロペディアばりの嘘八百を教えているので無問題である。そんなのは学術研究で立証されているだけの諸説に過ぎない美化されたものである訳だし。
この教科書を読経のように、流暢かつ分かりにくく、時々つっかえながら、朗読することが先生の務めである。そして眠らないようにひたすらノートを取り理解することが生徒の務めである。時々、生徒を当ててプレッシャーをかけるのも非常に良い。
生徒が萎縮してしまうではないか、こんなので頭の中に内容が入るわけが無い、一人でオナニーしながらやった方が効率がいい、と累々たる非難もあるが、教育の真の目的は人間の集団適応化なので、問題ではない。権力のないボッチは死ねと言うものである。
生徒が人間関係や先生の授業が分かりにくいせいで、成績が急落しても問題ではない。成績評価は社会という荒波に備えるため、相対的で絶対的でないので問題ではない。絶対的に問題ではない。いくら知識面で成績が良くても働けないなら、ポスドクと同じなのだから。集団行動重視ばかりなので、下手をすればカルト宗教の発生源でもある。
なおゆとり教育もあるが、単に教科書の問題数が減っただけで、教育方針は「“ゆとりをもって”集団に染めあい馴れ合い見つめ合おう」といった今までの基本を染め直しただけのものである。
問題数が減ろうが先生や生徒の問題が多ければ、最早“ゆとり”とは呼べ無さそうだし、そもそも集団自体がストレスの塊なので、どこの何がゆとりなのか未だに解明されていない。
しかも、教師はクズである。勉強できない子はダメ、偏差値の低い子は人間としても不合格であることを教え、自分達大人を敬えと教える。しかし実際教師は偉くない。なぜなら、人格が悪かろうと教育実習・公務員試験・辞令を通れば済む話だからである。ただ年齢を多く重ねているってだけで自分の見えている小さな世界の支配者を気取っているだけ。こいつらのせいでNEETやDQN、FREETER、ヒキコモリなどができてしまった。果てには教師に留まらず、今生きている大人たちのせいで地球温暖化が進行していると言っても過言ではない。
もう学校なんて辞めちまえ!!
俺は責任取らないけど。
学校教育の目的編集
多くの国では青少年に教育を受けさせる義務を保護者に課しているが、その目的が国家政策の推進をスムーズにするためであることは間違いない。
そもそも、教育とは一部のエリートと、大多数の理解ある従順な民衆を作成するために行われており、学校はそのエリートと一般の愚検閲により削除を選別するために存在する。
学校では効率の良い身分の選別を行うためにテストを主要な業務として認識している。
しかし、一部の教師は偏差値偏重と言われる身分選別制度に意を唱えており、教育現場は混乱している。
そのような偏屈集団から未来を守るべく、バブル経済から2000年代初頭にかけ、学校教育は偏差値偏重身分社会からゆとりある虚無(さとり)教育へとシフトチェンジしたのであった。
しかし、時すでに遅く、1980年代から行ってきた三無運動や人口増加政策などの教育方針により、一部のDQNを駆逐するため原付・二輪車の免許取得の規制強化したことによる通学手段の確保の困難、さらに人口増加のために恋愛を強制した挙げ句、進学率や就職率が落ち込み地方では経済が成り立たず国外から留学生や労働者を受け入れざるを得なくなるなど、地方ではさらなる過疎化・納税額の減少が加速した。
そのため、やむなく義務教育学校の統合や高等学校、大学との一貫化が行われ、教育機関からは就職先の斡旋がなされるようになり、現在では学校という特殊社会が現代社会そのものになってきている。
所持物編集
子どもはカッターナイフ(彫刻刀やバタフライナイフ、バターナイフ、サバイバルナイフなど、挙句の果てにはオスカー・ワイルドの右手に持っているものも含む)や爆発物(主にダイナマイト、テポドン、核爆弾、水爆、最近はプラスチック爆弾が流行り)を持ち込む事が義務とされている。
これはコロンバイン高校人間ピンボーリング射的大会に倣ったものである。
昨今は日本も殺伐としてきたので、貴重な税金納め蜂が失われることが無いように、自衛、集団的自衛権、潜在的暴力癖、アンチニヒリズムを子どもに武器を持たせて教えるのである。
また最近では激しい戦闘が起きることも多く、モルヒネ、ヘロインなどの薬物をキメて戦闘に臨むというスタンスが主流である。
校歌編集
校歌は学校によって異なり、電波ゆんゆんやくちびる西高校日曜日~ひとりぼっちの祈り等、バリエーションに富んでいる。
ジャズアレンジやボサノバアレンジ、ヘビメタバージョン、シングルバージョンをついに網羅、20周年記念リマスタリングアルバム、処女作がついに発見 といった物も腔潮の気分次第によってはある。
施設編集
学校にはさまざまな教室や特別教室がある。哀れな子羊はここで悪魔に洗脳されるのだ。
例
学校卒業、中退、除籍後進路編集
ここで才能を見出された者に、ニートやフリーターという未来が待っているのはジャパン独自の特典である。
ニート、フリーターの特典は生活保護の期限切れとの争い、親との罵り合い、国民保険の未払いといった冒険とスリルに満ちた、時の流れに身を任せ一度の人生それさえ捨てることも考えざるを得ないような毎日を過ごせる点である。それに対して、「卒業式練習の経済損失、年間6兆円 シンクタンク試算」の記事が『虚構新聞』より掲載されており、債務をもたらす仕分け対象排除機関だと指摘されている。駅弁大学の民営化により、文部科学省も予算削減の仕分け対象になる可能性が高くなった。
才能の無い者は、平凡だけど誰かを愛しあなたの色に染められ、家族に囲まれて健やかに育つ子どもを眺めながら夫婦で寄り添う普通の暮らしをする位しか道が無い、というつまらない結果となる。つまり、生殺しの犯罪の温床となっている。
種類編集
初等教育編集
中等教育編集
高等教育編集
専門教育編集
外国人向け学校編集
人間以外の学校編集
関連項目編集
「でも」や「しかし」、こういった接続詞があなたの「学校」への加筆を邪魔している。…じゃあ、いつ加筆するか?今でしょ! (Portal:スタブ)