商人
商の国の滅亡編集
今から3000年以上昔、中国に商という国があった。商は政祭一致の神権国家であり、甲骨文字を発明するなど高度な文明を持った国であった。しかし最後の王であった紂王が暴政を行ったため、家臣の姫発(周の武王)によって滅ぼされた。だが、本当は紂王が周辺との戦争に追われている隙を狙って、国を乗っ取ったのだとも言われている。
こうして商の国は滅亡し、そこに住んでいた人たちは土地を追われて中国の各地に離散した。これ以降、彼らやその子孫たちをもとの商の国の人、つまり商人と呼ぶようになった。このことはウィキペディアにも書かれている有名な話である。
彼ら商人は土地がないので自分で作物を育てることができず、人から物を仕入れて高く売ること(転売)によって生計を立てていた。そのため現代の転売厨と同じように忌み嫌われており、中国数千年の歴史の中で常に差別され続けた存在であった。
差別の歴史編集
歴史上、中国では様々な形で商人に対する差別が行われてきた。伝統的に、政府は商人に対して厳しい態度で臨むことが多かった。周辺民族は征服されても反乱を起こさない限りは存在が認められたのに対し、商人はおとなしく政府に従っていたとしても、その存在自体がしばしば問題視され、商人の人口が増えると国が傾くと言われるなど、根拠のない誹謗中傷に晒された。特に儒教の教義では商人は、何も生み出していないのに金を巻き上げる詐欺的な人種であるとされ、儒教が広まるとますます商人の肩身は狭くなっていった。隋の時代には科挙制度ができて民間からも官僚になる道が開かれたが、そこでも商人には受験資格はないものとされ、李白が科挙を受験できなかったのは商人だったからという説がある。また中国で民の総称として用いられる「士農工商」という言葉においても、商人は末尾に位置づけられている。中国には昔から数多くの異民族が存在しているにも関わらず、「商」のみがことさらに取り上げられて末尾に置かれているあたりに、中国人の商人に対する深い差別感情が見て取れる。長い時代が過ぎ、中国共産党の天下になって、ようやく儒教から解放されたかと思ったが、やっぱり商人は差別されたままだった。しかしその後改革開放の時代になると、民族識別工作により少数民族の権利保護が始まり、一転して商人の権利回復運動が進められるようになった。これが行き過ぎて今度は商人が我が物顔で振る舞うようになったと、不満を漏らす国民も多い。また長年にわたり本国で差別されていたため国外に移住するものも多く、中国の国外で活躍する華僑と呼ばれる人たちの中にも、多くの商人がいると言われる。
一方、春秋戦国時代にあった宋という国は商の王族の末裔が住む国と言われ、商人にとってのオアシスのような場所であったが、宋の国の人々は様々な書物で中国人にその一挙手一投足を貶されており、やはり商人に対する根強い差別意識があったことが伺われる。その後、宋の国は斉によって滅ぼされ、商人の唯一のオアシスも失われてしまった。
日本に来た商人編集
日本にも商人は来訪したが、やはり儒学が盛んになった江戸時代には「士農工商」の語によって差別を受けていた。しかし江戸時代中期には大名を凌ぐほどの経済力を蓄えるものも現れ、しだいにその存在は無視できないものとなっていった。現代に至り、日本国憲法は人種や門地による差別を禁止しており、商人に対する差別も表向きは存在しないことになっている。しかし今でもときおり、「商」という言葉は賤しいものとして語られることがあり、そこに日本人の商人に対する潜在的な差別意識が垣間見れるのである。
商人に関する言葉編集
関連項目編集