ヘルマン・ゲーリング

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。でないといつまで経っても女性が寄り付きませんよ?

ヘルマン・ゲーリング(Hermann Wilhelm Göring、1893年1月12日 - 1946年10月15日)はナチス・ドイツのNo.2。アドルフ・ヒトラー総統に次ぐ国家元帥である。

太った鋼鉄。

経歴編集

  • 1893年、ドイツ帝国バイエルン州ローゼンハイムで南西アフリカ総督・ハイチ総領事の息子として生まれる。子供時代は伯爵家のお城に住んでいたらしい。後に実父は職を退官させられたショックでアル中になってしまった。一方、実母は主治医と夫黙認の浮気をしていた。
  • 1901年、ベルリンのリヒターフェルデ陸軍士官学校へ入学。
  • 1911年、卒業。ベルリン社交界デビュー。
  • 1914年、第一次世界大戦勃発。歩兵科から航空隊へ志願。
  • 1915年、航空カメラマンとして活躍して皇太子から勲章を授与。
  • 1918年、18機撃墜の功により皇帝から勲章を授与。
  • 1919年、ドイツ降伏。敗戦後、デンマークスウェーデンで民間機パイロットや曲芸飛行をして食いつなぐ。この頃、貴族の妻カリン・フォン・カンツォフと恋愛関係に。
  • 1922年、ドイツに帰国して結婚。この年、初めてヒトラーと出会い、ナチスへ入党。
  • 1923年、カリン・フォン・カンツォフと結婚(ようは略奪婚である。ちなみにカリンの元夫はそのショックで鬱病を発症し、同僚を殺害しかけたり、走行中の列車から飛び降りたりと破天荒な行動の果てに狂い死にした)。11月、ミュンヘン一揆失敗。亡命先のオーストリアで治療を受けた際に使われたモルヒネが止められずヤク中になる。また、薬の副作用で肥満体となり、精神に障害を患ったり、自殺未遂したりと、散々である。
  • 1927年、奥さんの故郷(スウェーデン)で養生していたが、恩赦が出たためドイツへ帰国。大多数が庶民出身者であるナチスと上流階級・財界人とのコネを構築。メッサーシュミットなどの大企業がナチスに献金するようになり、ヒンデンブルク大統領とヒトラーの会談も実現した。
  • 1928年、国会議員に初当選。
  • 1931年、奥さん亡くなる。
  • 1933年、ヒトラー内閣成立。国務大臣を拝命。左翼勢力を弾圧。
  • 1935年、ドイツ空軍総司令官を拝命。女優エミー・ゾンネマンと再婚。
  • 1938年、権力への欲望を強め、国防大臣と陸軍総司令官の席を狙って、ハインリヒ・ヒムラーラインハルト・ハイドリヒらと協力して、ヴェルナー・フォン・ブロンベルクヴェルナー・フォン・フリッチュの二人を失脚させるが、その席をヒトラーに横取りされる。
  • 1939年、ヒトラーもさすがにマズイと思ったのか、ゲーリングを第一後継者に指名。同年、第二次世界大戦勃発。ワルシャワ爆撃や占領したポーランドへの経済政策などで功績を上げた。
  • 1940年、国家元帥に就任。しかし、その後のバトル・オブ・ブリテンスターリングラードの戦いでボロ負けし、権威は失墜。引きこもりがちになり、美術品コレクションと鉄道模型にはまり出す。あまりの引きこもりっぷりのせいで死亡説まで流される始末であった。
  • 1945年、ドイツ降伏。ラートシュタット郊外にて投降しようとしてアメリカ軍に捕まる。アメリカ側の記録によると、この時のゲーリングは「ただのヤク中のデブ中年」に過ぎなかったという。捕まった後、ドワイト・D・アイゼンハワーとの「元帥VS元帥」対談を夢見ていたが、空気が読めなかったためアイゼンハワーを激怒させるだけに留まった。ニュルンベルク裁判では無罪を主張したが判決は死刑。それよりも本人は処刑方法が銃殺刑ではなく絞首刑だった事の方がショックだったらしい。
  • 1946年、処刑当日に獄中で青酸カリにより服毒自殺。享年53歳。ソ連の連合国委員は彼が死体ごっこでもしてるのではないかと思い、死体の頬を思いっきり引っ叩いたらしい。なお、収容所内にいた彼がどうやって青酸カリを入手したのかは永遠の謎…になるところだったが、それから59年後の2005年になって、当時看守を務めていたアメリカ人の元兵士が、町で会ったドイツ人の男女から病気の薬の差し入れをしてくれと頼まれてカプセルの入った万年筆を託され、ゲーリングに渡したことを証言した。

人物編集

  • 子供時代お城で暮らしていただけあって、かなりの貴族趣味。服装に関してもこだわりがあったのか、一人だけオリジナルデザインの白い軍服を着ていた。
  • 家はサウナ、映画館、トレーニングジム(無意味)などのある、健康ランドのような豪邸だった。なお、その豪邸は降伏直前に自分で爆破した。
  • ペットはライオンの「ツェーザー」。
  • 愛車はオープンカーのメルセデス・ベンツ、ホルヒ(いずれも特注)。
  • でかい鉄道模型を持っていた。ちなみに車掌の服を着てコスプレもしていた。
  • 先妻が忘れられず「カリン・ハル」(カリンの館)を建設、中には先妻の御殿の様な墓を建設した。
  • 狩猟愛好家であり、狩猟許可、銃の取り扱い、狩猟犬の規定、獲物の数の制限、残虐な狩猟・夜間照明を用いた狩猟の禁止、などを定めた「ドイツ国狩猟法」という狩猟に関する厳しい法律も制定した(制定から70年以上経った現在も継続している法律である)。ただし過激な動物愛護者のハインリヒ・ヒムラーからは「あんな可愛い目をした鹿を撃ち殺すなんて彼は異常だ」と陰口されていたとか。ただし、ゲーリングも大規模な植林をするなど自然保護政策も行なっている。
  • 権力の中枢から外されると、戦争中にも関わらずパリへ行ってはユダヤ人からパクった美術品をネコババし、オタク仲間のベニート・ムッソリーニと交換したりしていた。
  • 女性関係に関しては奥さん一筋で、浮いた噂は無かった。この辺で問題の多かったヨーゼフ・ゲッベルスとは好対照である。また、女性に対しても優しく接しており、ゲッベルスが泣かせたレニ・リーフェンシュタールを慰めたこともある。
  • 超肥満体(体重280ポンド≒127kg)のモルヒネ中毒でいつも挙動不審、しかも傲慢な性格だった。しかし、ニュルンベルグ裁判時には、まぁ色々あってモルヒネ中毒と肥満は解消され(80ポンド痩せたそうな。すなわち200ポンド≒90.7kg…ってまだ巨漢の範囲ですよ)、戦争中の無気力ニート状態から一転して、今までの彼とは別人であるかのように堂々と振舞い、自信満々で勝利者のように堂々としており、死刑宣告を受けても微動だにしないほど落ち着き払っていた。そんな事もあって支持者からは「太った鋼鉄」という、誉めてるんだか馬鹿にしてるんだか分からんアダ名で呼ばれた。
  • ヒムラーが親衛隊を持っていることに嫉妬して、自分も親衛隊をつくった。その名も「ヘルマンゲーリング師団」
  • 空飛ぶものに異常な執着を持った。故に降下部隊は空軍所属・運用。更には海軍の飛行機を全部取り上げ、艦載の航空機まで空軍所属にさせた。これをめぐり海軍と大ゲンカした。その恨みのせいか大戦中、海軍と空軍の協力は最悪であった。
  • とある将軍が列車で同席したが、延々と美術品の話をしていた。


 

ハイル・ヒットラー!
このヘルマン・ゲーリングは、偉大なる我らがアーリア民族の築き上げた最高の文化的作品である!
この記事を書き上げてこそ、ユダヤ人を殲滅できるのだ!
この記事をつまらなくする者に宣戦布告を!!ジーク・ハイル!!!! (Portal:スタブ)

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