鹿苑天皇
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鹿苑天皇(ろくおんてんのう)は、南北朝時代末期、大覚寺統(南朝)から持明院統(北朝)へと禅譲が行われる間に即位していた第三勢力の天皇。諱は義満。
即位以前に鹿苑天皇が京都の室町に住んでいたことから時代を室町時代と呼ばせるに至るほどの影響力を持っていたが、南北朝両統のイザコザに巻き込まれて歴史から抹消されてしまった。
略歴[編集]
鹿苑天皇の即位[編集]
賜姓皇族・足利宮家の義詮親王の子として生まれる。皇族の中でも末席として扱われていた足利宮家は南朝にも北朝にもいい顔をしなければならないほど待遇が悪く、義満親王は幼い頃からいつか立場を逆転するべく北朝の犬に甘んじ臥薪嘗胆を決め込んでいた。11歳にして父親を失うが、そのことによって義満親王は犬としては最高クラスの権限を持つ征夷大将軍の経験を持つことになり、けがの巧妙となった。その後、義満親王は不穏分子の討伐を繰り返し逆転の機会をうかがう。皇紀2051年、義満親王はついに北朝に反旗を翻し、南北朝両統をこの手に納めんと戦を起こす(明徳の乱)。翌2052年、義満親王は南朝を降伏に追い込み、三種の神器を譲り渡されて禅譲の儀式を行った(明徳の和約)。こうして義満親王は先祖では清和天皇以来、実に500年ぶりになる[1]、鹿苑天皇となった。義嗣親王(天皇号は不明)に譲位した後も治天の君として影響力を行使し続け、室町時代の最盛期をリードした。
北朝の反乱と義持親王の離反[編集]
しかし鹿苑法皇に疎んじられ臣籍降下を命じられた義持親王(足利義持)は北朝の残党と結びつき、せめて武士としての名声を求めた。その後、旧北朝は鹿苑法皇を暗殺し、義嗣親王に譲位を強要して皇統簒奪したあげくに鹿苑天皇を歴史から抹消してしまう。今となっては天皇の存在は相国寺の過去帳に名を残すのみである。
関連項目[編集]
- 鹿苑寺 - 旧鹿苑御所。
注釈[編集]
先代 後亀山天皇 |
天皇 鹿苑天皇 |
次代 義嗣親王(天皇号は不明) |