阿部信行
阿部信行(あべ のぶゆき)とは、影が薄いという前代未聞の理由で第36代総理大臣に選出された加賀のガリ勉である。政治色のあまりの無さから皇紀2600年の総理となれたが、昭和天皇の威光の前に存在を透明なものにされた。
生い立ち[編集]
阿部信行は1875年、100万石の町金沢に生まれた。そして両親からあらゆる命令に従順であるよう徹底的にしこまれたので、どんな時でも親に指示をあおぐことを忘れない孝行な子供に育った。これは故郷を同じくする越境総理大臣林銑十郎の受けたものとはまったく別の方向を向いた教育方針だった。
両親は服従の才能を徹底的に延ばし、その才能を輝かすべく、上官への服従をもって最大の徳目とする大日本帝国の陸軍士官学校へ進学させた。阿部は親の期待に応えて先輩や教官にどこまでも徹底的に服従し、毎年「最も教官の命令を聞く優秀な生徒ナンバー1」の称号を獲得した。
卒業後は日露戦争、シベリア出兵に従軍し、上官の命令にどこまでも服属して戦ったが、銃弾の飛び交うリアルな戦場にその影を見せることはなかった。しかし、その従順振りが宇垣一成らの歓心を買って、軍功を積んだわけでもないのに出世を重ね、関東大震災の時は戒厳参謀長になった。そして後藤新平東京市長にすべての功を捧げた。
軍大将として[編集]
命令に従順に従っている内に、ボスの宇垣一成が清浦奎吾首相らの陸軍大臣となり、ついに元祖ライオンヘアー内閣において陸軍大臣代理の地位を手に入れた。しかし、故郷では、同じ金沢生まれの林銑十郎が朝鮮半島から勇躍満州へ足を進めて越境将軍の名声を欲しいままにし、辻政信軍師が的確な計略を次々と立案して作戦の神様と呼ばれていたので、親族以外に阿部の名を覚えている者はいなかった。その落差を知った阿部は珍しく憤慨して毎晩料亭で泥酔して深夜3時に帰宅し、ようやっと「御三時様」というあだ名を頂戴したとされるが、これは林や辻らが憐れんで創作した物語である。
とかく、陸軍の志士たちは「阿部先生なら自分たちが好き放題できる」と判断したので、1933年阿部を陸軍大将に推戴した。そして志士たちは冷静になれと諭す永田鉄山を刺し殺し、3年後には第二衝撃派を起こした。阿部は何とか助命しようとしたが、昭和天皇が「奴らのせいでチャップリンが帰ってしまったではないか!」と激怒したため勅命に粛々と従った。
第二衝撃派を乗り切った総理官邸では昭和天皇の威光を高めるべく様々な政策が打ち出されたが、内閣総理大臣にひろった君、越境食い逃げ将軍、謎の公卿X、複雑怪奇刑事と次から次に強烈なカリスマを放つ者が就いたため、なかなか天皇の威光を高めることができなかった。折しも皇紀2600年祭が翌年に迫っていた。そこで総理経験者が集まって誰が一番陛下の威光を高められるかを密談し合った結果、変な「色の無く」、透明な存在だった阿部信行がふさわしいということで話がまとまり、1939年8月30日内閣総理大臣に就任させた。
内閣140日[編集]
総理就任間もなく、ドイツのヒトラーがポーランドを征服し、第二次世界大戦の幕を開けた。外務大臣でもあった阿部はこの大戦に参加すれば自分が世界中の歴史教科書に掲載される偉人になれると思って乗り気だったが、前任者に「欧州の複雑怪奇に巻き込まれるな!」と厳命され、参戦を見送った。前任者は「サボり外交官」野村吉三郎を外相につけて阿部を監視した。
なので阿部はアジア情勢の解決に専念しようとした。しかしここで、東亜局長だった栗原正元トルコ大使が汪兆銘に対して「本当の総理大臣はモンゴル征服を計画した現代のチンギス・ハーンこと荒木貞夫中佐」と内幕をバラしてしまったため、誰もいうことを聞かなくなり失敗した。何としても歴史に名を残したくなった阿部は貿易省という新しい省をつくろうとしたが、今度は「それよりも物価を何とかしろ!」と役人のデモ隊が押し掛けてきたので見送った。それを見越して陸軍の寺内寿一は勝手にドイツを訪問して、ヒトラーに将来の日本参戦を申し入れた。
そして何もできない内に年が明け、1940年1月1日、皇紀2600年祭が橿原神宮で執り行われた。阿部は昭和天皇の面前で慶祝文を読み上げ、万歳三唱した。すると、昭和天皇の体内から絶大なオーラが出て、目の前に阿部が立っていたにも関わらず、国民は天皇の全身を拝むことができた。これは存在感なき阿部の体が透明になり、威光をまったく妨げなかったからである。正に影薄き阿部だからこそできた一世一代のパフォーマンスだった。
最大の機能を果たした阿部はその2週間後、前任者の越境将軍にこのように言われて総理の座を退いた。
「今年は欧州の大戦が激化するだろう。君はもう陛下の威光を高めるという職責を十分に果たした。今年は皇軍がインドシナを越境することだろう。さあ、総理の座を越境し、ここにいる盛岡米に明け渡したまえ」
阿部はおとなしく言うことを聞いた。
総理退任後[編集]
内閣総理大臣とは人に目立ちたがりの才能を開花させようとするものらしく、阿部は退任後も何とか歴史に名を残そうと一転して努力した。そして1944~45年には第10代朝鮮総督府の総督に就任し、ごく少数の反日団体に対して間もなく成就するだろう同化政策に協力するよう要請した。しかし、そのまま敗戦を迎えると、朝鮮人は突如として独立へと牙を向けてきた。その迫力に負けた阿部は本土へ帰還し、内閣書記官だった遠藤柳作に国家継承の手続きを任せた。そのため、最後の朝鮮総督にもかかわらず、阿部は朝鮮人にさえ影の薄い存在となった。
帰還後阿部は戦犯となったが、GHQの裁判官は阿部のあまりの影の薄さの前に目立った罪業を見つけることができず、証拠不十分で釈放した。阿部は操り人形役でもなんでもするから証言の機会を与えてくれと嘆願したが、キーナン主席検事は「いや、その役なら溥儀がいますから」と言って追い返した。その後、名を挙げるチャンスが訪れぬまま阿部は1953年息を引き取った。
関連項目[編集]
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