関羽
関羽(かんう)は、中国の道教における神の一柱。「関帝聖君」「長生」「雲長」「髯殿」など複数の異称がある。おもに商売の神として商人の信仰を集めており、また歴代の中華王朝からは軍神・忠義の神として崇拝されていた。日本では何かの間違いで戦国武将扱いにされている。
概要[編集]
赤ら顔で長い顎髭を備えた、長身の偉丈夫の姿で描かれる。軍神として崇められたことから、書画や彫像には武具を身に付けた姿で描かれることが多く、特に青龍偃月刀と呼ばれる巨大な薙刀がその象徴になっている。赤兎馬と呼ばれる軍馬とともに描かれることもあり、その馬は一日千里を駆けるとされた。左右に2人の従者を控えさせていることが多く、それぞれ関平と周倉という名がある。
伝説では算盤を作り出したのが関羽とされており、そこから商売の神として商売人に信仰されていたという。このため、商売に携わる中国人は「関帝廟」と呼ばれる関羽を祀る霊廟をあちこちに建てることを好み、中国(中華人民共和国・中華民国)国外の中華街・チャイナタウンにも必ず建てられている。阪神淡路大震災で兵庫県神戸市の中華街・南京町が被災した際には、関帝廟が真っ先に建て直されたという逸話もあるなど、その信仰は現代においても篤い。
中国の歴史上、主流となる宗教も変遷を続けていたが、関羽信仰は民間信仰として脈々と続いていった。他の宗教においても神として位置付けられることもあり、たとえば仏教において「伽藍神(菩薩)」と呼ばれる神は、関羽を仏教の世界観の中に取り入れたものである。中華人民共和国が成立すると、文化大革命に際して中華全土で宗教施設や彫像などが相次いで破壊されたが、その最中においても関羽に関する施設は難を逃れたものが多く、すでに宗教という枠を超えた存在として認識されていることが窺える。
歴史[編集]
関羽信仰は後漢末期、いわゆる三国時代の初期には存在していたとされる。三国時代の中心的人物であった曹操、また曹操の最大の敵対者であった劉備が篤く信仰していたことで知られており、これらの人物が中華全土に広めたと考えられている。劉備に至っては、関羽の義兄弟を名乗っていたことでも知られる。道教の源流である五斗米道が創始されたのもこの時代で、2代目の指導者である張魯は曹操に臣従しているが、その曹操の信仰が源流に取り入れられた可能性が高い。
このほか、当時の伝説的人物の逸話にも関羽が登場することがある。たとえば、この時代の名医華陀の逸話には関羽を治療した話があり、関羽が左手で囲碁を打つ傍らで、右腕に刺さった鏃とその毒を抜いていたと伝えられている。また、悪い意味で伝説の猛将呂布にも関羽と刃を交えたという伝説、呂布が弓の腕前を披露したことにより関羽を助けたという伝説もある。後世の創作においても、三国時代に関羽が降臨して奇跡を起こす描写がよく登場し、たとえば『三国志演義』においては赤壁の戦いで敗れて逃げる曹操が、関羽の助けにより逃げ延びるという描写が見られる。
ただ、当時においても万人より信仰を集めていたわけではなく、庶民の神であることから士大夫層、いわば上流階級や知識階級には疎まれていたという。孫権が劉備の領有する荊州を奪取すべく攻め込んだ際、その総司令官を務めた都督呂蒙は、荊州に存在した関羽を祀る施設を破却、関羽の信者を処断しているが、これは劉備が荊州に広めた関羽信仰を払拭するための動きと考えられている。この侵攻から間もなく呂蒙は病死しており、関羽の祟りであると噂されたことで、民衆の関羽信仰をかえって強めたとも言われている。また、関羽の祟りを鎮めるために紙幣の肖像画として採用する動きもあったが、あまり効果はなかったとされる。
歴代の中華王朝にとっても、関羽は武運を高める軍神として見られていた。しかし明の時代になると、太祖の猜疑心の反動からか忠義を尊ぶ風潮が強まり、そこから忠義の神として関羽を崇める傾向が強くなっている。明朝は関羽を讃えるために「協天護国忠義関聖大帝」「三界伏魔大帝神威遠震天尊関聖帝君」といった尊称を与えており、明を倒した清においても「忠義神武関聖大帝」「忠義神武霊佑仁勇威顕開聖大帝」「忠義神武霊祐仁勇威顕護国保民精誠綏靖翊賛宣徳関聖大帝」の尊称が贈られている。これだけ長い称号を贈ったところで結局それらの王朝は滅亡しており、たいして縁起もよくないことから、これらの称号が後世に使われることはほとんどない。
日本における扱い[編集]
日本に関羽信仰が伝わったのはおそらく奈良時代、仏教とともに伝来したものと考えられている。軍神として伝わったことから、三度の飯より首級が好きな武士たちに敬愛され、なかには自分が関羽だと言い張る者すら存在した。「忠義の神」として伝わっていたら、とてもじゃないが津軽為信が名乗っていい称号ではなかっただろう。戦国時代が過ぎて武運を祈る機会が減ると、武士からの信仰は失われ、一方で歌舞伎などの大衆芸能の中の存在と化していった。
現代日本においては、関羽は神というより、なぜか「三国志に出てくる劉備の義兄弟の武将」として認識されている。このイメージの原典は吉川英治が著した『三国志』にあり、吉川は劉備が関羽の義兄弟を名乗ったことから、関羽を劉備に付き従う武将にしてしまったのだ。架空のキャラクターである関羽は作中で史実に縛られない活躍を見せ、主人公の劉備が逃亡している時期を補う副主人公としての立ち位置に据えられていた。ただ、当時は日中国交正常化より前の時代であり、この配役は意図したものではなく、情報が少ないために史実人物と混同された可能性もある。
このイメージは、のちに日本放送協会で放送された『人形劇三国志』や、横山光輝の漫画『三国志』でも採用されたことから定着し、場合によっては史実であるとすら思われている。また、光栄(現コーエーテクモゲームス)が発売した戦略シミュレーションゲーム『三國志』においても登場し、初期シナリオから劉備陣営に所属しているが、これは初期劉備陣営があまりにも弱小すぎてすぐに滅ぼされてしまうため、ゲームバランスのために採用したものと考えられる。こうして定着してしまった戦国武将としてのイメージが強すぎるゆえか、三国時代を題材としない作品ですら神ではなく武将として表現されることが多い。
このような認識の違いから、日本人と中国人が関羽について語り合っても話が通じないことが多い。「かんう」とひらがなで伝えても理解されないくらいにその溝は深い。困ったことに、この日本人が作り上げてしまった関羽のイメージは、漫画やゲームといったサブカルチャーを通じて世界中に伝播しており、事実英語版のウィキペディアにおいても関羽が当時の武将であったかのように記述されてしまっている。ウィキペディアが日々荒らされているのも、もしかすると関羽の祟りであるのかもしれない。