運動会
白い方が勝つわ
〜 運動会 について、ニュータイプ少女
運動会(うんどうかい)とは、複数人が集まり、計画的に進行する時間帯の中で、スポーツなどの特定の競技を行う行事である。
概要[編集]
運動会には体育大会、スポーツ大会、体育祭など、様々な呼称がある。現代では、日本のような全体主義の国で行われることが多く、その姿勢や背景を問題視する声も多い。運動会の規模は、町内会や学校規模のものから国家規模のものまで、大小様々である。目的は、体を鍛えることにより、戦時に兵として使えそうな人材を確保する、という目的が主であるが、通常は、プロパガンダのための活動という側面も併せ持つ。また、インドア派にとっての地獄でもある。
日本においては学校や会社で行われるものが一般的だが、朝鮮民主主義人民共和国で行われるマスゲームのように、非常に大規模なものも存在する。
紀元前の運動会[編集]
有史以前[編集]
クロマニョン人の集落遺跡からは、何らかの競技会に使ったと考えられる、加工された頭蓋骨が見つかっている。それがどのような競技に使われたのかは解明されていないが、有力な仮説として、「サッカー」のような競技が行われていた、という説がある。
この説に対する反論として、野球ファンであった古生物学者スティーブン・ジェイ・グールドから「サッカーではなく野球の起源である」という説が提唱されたが。あまりに主観的で根拠がない説として、多くの研究者には支持されていない。彼の論敵として有名なリチャード・ドーキンスは「野球狂アメリカ人の戯言。イングランドのサッカーの素晴らしさを理解できていない。ミームとしてシンプルで残りやすいのはサッカーだ。」と批判している。
また、「そもそも、なぜ、人間の頭蓋骨を競技に使用したのか?」という根本的な問いに関しては、文化人類学の見地から、「死者を弔うため」「戦時から平時へのクールダウン」などの説が提唱されている。世界最古の壁画である「ラスコーの壁画」には、チームに分かれてマンモス狩りをしている光景がある。これは世界最古の集団競技を表す記録として世界遺産に登録されている。
伝説[編集]
ギリシャ神話に登場する巨人「アトラス」が、天球を持ち上げる光景は、「重量上げ」が行われたことを示唆する。そして、「ヘラクレスの12の功業」は「障害物競走」が行われたことを示唆する。
これらの仮説が、宗教象徴学者であるラングドン教授(ハーバード大学)から提唱されたが、現在の所、根拠は見つかっていない。日本神話においても、「天岩戸」の話は、運動会の応援ダンスの起源であるという仮説が提唱されているが、こちらも前述の説同様に、根拠は見つかっていない。
古代ギリシャ[編集]
古代ギリシャでは「古代オリンピック」が行われていた。哲学者であるプラトンも、パンクラチオン(総合格闘技)に参加して、日頃の鬱憤を晴らしていた。
また、アルキメデスは、競技者向けの靴を製造していた。それらの靴には、「NIKE(ニケ:ギリシャ神話の勝利の女神)」という名の刻印と女神の翼をモチーフにした図形のレリーフが取り付けられた。ちなみに、現代の靴メーカーナイキのロゴと社名は、このアルキメデスの靴から取って付けられたものである。
近代運動会の起源[編集]
近代の運動会の起源に関する説はいくつかあるが。確実な証拠があるものは、今の所、存在しない。以下では、代表的な説を紹介する。
クーベルタンと近代オリンピック起源説[編集]
フランスのクーベルタン男爵という貴族(暇人)が「古代オリンピック」に感銘を受けて、「近代オリンピック」を創設したことが、近代的な運動会の幕開けだとする説。資本主義・自由主義の国では、広く支持されている。
マルクス・レーニン主義起源説[編集]
カール・マルクスが資本論の中で「万国のプロレタリアートよ、スポーツにより団結せよ!」と述べたことや、レーニンが「走って、走って、走れ」と述べたことが影響し、共産圏の国が、集団的な催し物として運動会をはじめたことが、近代運動会の始まりだ、という説。
- マックス・ヴェーバーによる批判
マルクス主義的スポーツ観は、19世紀にマックス・ヴェーバーから激しく批判された。
「法治国家における勝者は、肉体的勝者ではなく、法律を支配するものだ」
「君がどんなにボールを巧く扱えても、一警察官の武装にすら勝てないだろう」
「学生はザッヘ(日常の仕事、つまりは勉学)に帰れ!」
「教師に対して、フットボールのコーチに求めるような、人生の指導者としての面を求めてはいけない」
ヴェーバーによるこれらの言葉はあまりに有名である。一部は江川達也の東京大学物語にも引用されている。以下に、共産圏の国々で広く歌われている応援歌を紹介する。これは、戦後に日本の運動会で使われるようになった応援歌の原型である。
♪同志、赤星の下で!
作詞・中国共産党人民音楽局 作曲・汗 玖犀(カン・クサイ)
我らの輝く 赤星の下で
燃え盛る希望 力いっぱい頑張ろう!
赤!赤!赤! 応!応!応!
赤!赤!赤! 応!応!応!
燃えろよ燃えろ 赤組!
近代運動会の競技[編集]
当初は、純粋にスポーツを楽しむために行われていたであろう運動会が、全体主義国家にて「政治的な意図を含んだ催し物」として利用されるようになったということは、あまりに有名な歴史的事実である。
特に、二度の世界大戦の最中には、戦意高揚のための特別な競技が行われた。それらは学校で行われる遊戯的なものから、戦場で行われる人命を掛けた憂さ晴らしまで、多岐にわたる。
以下では、その名残を現代に伝える競技を紹介する。
サーフィン[編集]
ベトナム戦争時、米軍のキルゴア中佐が集団でサーフィンを行ったことが、運動会におけるサーフィンの起源とされている。彼はあまりのサーフィン狂であったため、サーフィン会場を作るために、ナパーム弾を使用し村一つ消し飛ばしたこともある。海辺の町を除き、現代の運動会でサーフィンが行われることは稀であるが。巨大な板を使用するため、運動会用の競技としては普及しにくかったことも影響している。
玉入れ[編集]
旧日本軍で行われた、手榴弾の投擲訓練が基になっているといわれている。フェミニストからは「弾入れは一方的な性行為を連想する」「戦時における集団レイプを示唆している」といった批判もある。
「弾」は「精子」を意味するもので、それを「集団が」「一方的に」「一つの器に」「投げ込む」ことは、自由を奪われた女性を集団でレイプするという行為に似るということを論拠にしている。軍事訓練として弾入れを採用したことは、第二次大戦中のレイプ多発と因果関係があるという説もある。
また、ベトナム戦争時には、レイプをした兵士が、レイプ事件の直前に弾入れの訓練を行っていたという話も出ているが。弾入れとレイプの因果関係には統計的な裏付けなどがない。しかし、それにも関わらず、田嶋陽子らフェミニスト的教育者たちからは「学校教育の場に相応しくない」という、極めて慎重論的な意見が出ている。
パン食い競争[編集]
競争中の緊張状態の中、いかに欲求を満たし、ストレスと疲労を回避するか、という課題から生まれた競技である。平時のパン食い競争は、競争の対象となる「欲求」がパンである、戦時の競争では、現地調達した「食料」「女」へと競争対象が変化する。この競技は、ベトナムや中国でも、よく行われた。
障害物競走[編集]
軍事訓練が基になった競技としては、もっとも強くその色を残す競技である。現在、カンボジアやフォークランドのような国では、日常的に行われている。
借り物競争[編集]
戦中に物資や人員を現地調達することの訓練として開始された。保護者参加の場合が多いことは、戦後に「戦場の刺激が忘れられない」「俺の戦争はまだ終わってません」という人たちが、戦後の子供たちの保護者となったときに、刺激を求めて参加したことの名残である。
資本主義の発達しているニューヨーク市立ウォールストリート第三小学校では「現金で1億ドル」「デュポン社の株式」などが「借り物」として指示される。生徒らは金融機関に駆け込んで交渉して、校庭のゴールへ戻るタイムを競う。このように地域の特色もあるのだ。
棒倒し[編集]
旧大日本帝国海軍で行われたことが起源である、という誤解をする人は多いが。実際には19世紀のフランスが起源であるとされる。
ドラクロワの「民衆を導く自由の女神」という絵は、当時の棒倒しの様子を克明に描写している。しかし、この絵については異説もある。一説によれば「ビーチ・フラッグ」という競技の起源だともいわれている。
ただし、防衛大学校にて行われる運動会の棒倒しでは、目標及び敵撃破の様子を対抗演習をかねて実地にて行うという目的の元に、戦車・大砲を除いてはいるものの、完全に実戦に則して実弾と使用可能な武器を用いておこなっている。
騎馬戦[編集]
騎馬戦の起源について、以下の二つの説が有力な説とされている。
- 武田騎馬隊起源説:仲間同士で騎馬戦の訓練をする際に、首を取り合うわけにはいかない。そこで、兜を取り合う訓練法が、武田の騎馬隊に採用された。これを騎馬戦の起源とする説が有る。
- 秋山好古考案説:近代騎兵の父・秋山好古が訓練のための競技として考案した、という説も有る。
- 「だ、ダメです先生!」「ふふっ、大丈夫、みんな運動会に、ッぁ、必死、な、ぁン、だからぁ」「う、上に、乗らな、くぁッ!!」
といったように、みんなが運動会で頑張ってるときに保健室では男と女の騎乗位、ゲフンゲフン、騎馬戦が行われている。 この競技の特徴は、シーツにシミとベットリした白いノリが付くことである。
リレー[編集]
足の速い者がスターになれる競技である。また、こけたりしたり、足が遅いものの場合周囲から冷やかな目や、生暖かすぎる目で声援を送られ、終了後にはのけ者にされたりと三重苦を食らうことがある。 また、数少ない学校公認の羞恥プレイである。
運動会の進行の流れ[編集]
入場行進[編集]
参加者たちによる入場行進が始まる。
全体主義的なイベントの中で、最も全体主義的なプログラム内容である。日本において、行進曲は、「雷神」や「アメリカン・パトロール」など米国の行進曲がよく使われる。これは、日本が事実上の米国領であることを顕著に表す現象である。
一部の「熱い人たち」「元気のいい人たち」からは「扶桑歌や軍艦行進曲など日本の行進曲を使うべきだ」という意見も出ているが。多くの日本人がアメリカ贔屓か旧軍アレルギーなため、実現の目処は立たない。
開会式[編集]
無理矢理並ばされて、校長先生のスピーチや教育委員会、学校関係者などのくだらない話を聞かされる。これから体力を使うというのに、このイベントで多くの体力を使ってしまう。ここでいかに体力を温存できるかが後の競技の勝敗を決めるといっても過言ではない。
競技会[編集]
上の項目に記した競技などを行い、点数を取り合う。総合得点が多い組が勝者となる。
閉会式[編集]
退屈な話を聞かされながら終わる場合が多い。また、ただでさえ疲れているのに、大声で歌うことを強要されることも多い。運動会のプログラムというのものは、独りよがりで、独善的で、自己中心的で、空気が読めない人たちの手により作られることが多いためである。
ファイアーストーム[編集]
もっとも、閉会式後の夕方から夜にかけて、生徒が自主的に集まってファイアーストームを行う学校もある。ファイアーストームではいらないものを火にくべて大きな炎を燃やし、その周りで腕を上げ下げするダンスを行い一体感を高める。
誤解が多くあると思われるが、これは学校から押し付けられたプログラムではなく、生徒たちが運動会を盛り上げようと思って自発的に行っているものである。こうした真心を曲解すべきではない。
現在の運動会の実情[編集]
なぜ、赤組と白組に分かれるのか?[編集]
一般的には「紅白は縁起がいいから」という、実しやかなウソが支持されているが、事実に反することだ。実際は共産党の「赤」と学生運動の「白ヘルメット」が起源であるが、そのことは左翼的教師陣の圧力により、学校教育の現場で語られることがない。
武闘派の台頭[編集]
学校内における運動会では、武闘派(体育会系)の台頭という現象がよく起きる。普段の学業では活躍の機会がない人たちも、運動会では活躍できる。それゆえ、彼らは活き活きとなるのだが。乱世に活き活きとする武士たちと同じような、野蛮で前時代的な心理状態の持ち主ゆえの心理状態であろう。
教室における運動会将校[編集]
上記のような「武闘派」は、前時代的でマッチョイズムに満ちているミリタリストだが、良くも悪くも単純なので、まだ可愛いものだ。本当に性質が悪いのは、ここで記す人であろう。
学校には運動会実行委員、運営委員などと呼ばれる者どもがいる。彼らの中には「他にやる人がいないから」という消極的かつ悲惨な理由で選ばれる社会の被害者もいるのだが。ここで問題視する輩はそのような社会的弱者ではない。
運動会に限らず、学芸会、学園祭などの行事に関する実行委員、生徒会などの中心的活動組織、これらの一員に自ら志願してなる者がいる。そういう者の多くは、登用されると「仕切り屋」「独裁者」として振舞い、反対派を激しく弾圧する。
そのような者どもは、ネット用語でいうところの「自治厨」とほぼ同じ姿勢であり、
指導者(教師)に選ばれる、指導者に取り入るのが巧いから選ばれる、という点では政治将校やゲシュタポと同質のものである。
彼らは「クラスの団結」「みんな仲良く」という外面で、偽善者として振舞うが、その実は悪意に満ちている。
彼らの内心はこうだ
シュプランガー的解釈では、人間の根源的な欲求であり、可愛い気のある動機としては、「目立ちたいという自己顕示欲」「指導的立場に立ち、皆を動かしたい!」といったものがある。極めて偽善的かつ利己的な動機としては、「推薦入試などの際に有利であるから、委員経験のキャリアが欲しい」「クラスの中心的人物として、学校内で優位に立ちたい」などがある。
教室における反抗的分子の弾圧[編集]
運動会将校は逆らうものには容赦しない。近年では直接的な目に見える暴力は減ったものの、激しい虐めや村八分が行われるという点は昔から変わりがない。
「仕方なく参加する」という生徒も少なくないし、「参加したくない」という生徒もいるのだが、運動会将校はそのような国賊どもを容赦しない。クラスメイトに参加を決める権利など与えられていないので、選択の余地がない。出たくなくても、強制的に参加させられてしまうのだ。
もし、参加をボイコットしたら、大会終了後に激しい口撃に晒され、仲間はずれにされるだろう。実行委員はジョージのような人たちが多いため、サボったものは地の果てまで追い詰められる。それゆえ、サダム・フセインやオサマ・ビンラーディンごっこをしたい人は、あえてボイコットをするのも一つの手だ。
多くの学校では、授業をサボることより運動会をサボることの方が重罪であるとされる。授業をサボっても文句を言う生徒はいないが、運動会をサボれば生徒からも教師からも弾圧される。ある学校にイベントの練習をサボって、隠れて本を読んでた生徒がいた。彼は見つかった後、実行委員を中心とした「クラスの中心的人物」たちに取り囲まれた末、激しい責任追及を受けた。
運動会とは、自由意志で参加するものではなく、強制参加する必要がある「義務」なのだ、ということを顕著に表す事例である。運動が嫌いでも、他の事のほうが好きでも、受験勉強が忙しくても、運動会には参加すべきであるというのが、全体主義国家では当たり前の発想といえるだろう。