熊本城
熊本城(くまもとじょう)は、熊本県熊本市にあった城である。いわゆる「肥後もっこす(肥後の頑固者)」のモデルの一つである。築城者は加藤清正、熊本市民は敬意を表して「聖しょこたん」と呼ぶ。
構造[編集]
熊本城は大きく6つに分けられる。
宇土櫓を中心とする平左衛門丸、数奇屋丸五階櫓を中心とする数奇屋丸、飯田丸五階櫓を中心とする西竹之丸、竹之丸五階櫓を中心とする竹之丸・東竹之丸、裏五階櫓とその仲間たち、そして天守を中心とする本丸である。これら6つの郭は、戦闘時に分離し敵陣を鶴翼型に囲み、巧妙なコンビネーションによって敵を撃破する仕組みである。実際に、本丸をいち早く機関室の火災で焼失したものの、天守の座を狙っていた熊本城№3の宇土櫓の代役によって西郷隆盛率いる連合軍を撃破した実績がある。ちなみに西郷隆盛はその際に官軍に負けたのではなくしょたこんに負けたんだと主張し、賠償金の支払いに応じなかった。また、この戦いは西郷南洲(西郷隆盛の雅号)の反乱ということで西南戦争と呼ばれるようになったのである。
現在は、当時の日本陸軍が外貨獲得のため、飯田丸五階櫓、数奇屋丸五階櫓、竹之丸五階櫓をイギリス艦隊に売却したため、動力と制御装置を失い、記念として動力を取り除いた宇土櫓のみが残された。その動力は熊本軽便鉄道で使われた蒸気機関車の動力の原型となったが、不評のあまりに廃線となり、かわりに熊本市電が敷設された。
現在の天守は、当時の外観モデルを再現した鉄筋コンクリート造(グレートモデル)である。ただし、鉄筋コンクリート製は重すぎたため、実戦には不向きということが1989年に判明したため、周囲の建物を木造(ノーマルモデル)で再現して、敵襲に備えようとした。天守の一階には張り出した部分が石落しとなっており、石を落とすことができる。ただし、忍者と化した観光客部隊除けにガラスと金網が張られているため肝心の石を落とすことは不可能である。隣に小天守があるが、小天守にはたくさんの雇われ城主が共同生活をしているため、足を踏み入れると白い目で見られ、侵攻する観光客部隊の士気を奪う工夫が施されている。
何かと地味であった裏五階櫓の跡には、公衆便所が忠実に再現され、誰もが必ず訪れる期待を裏切らない人気スポットとなっている。