木下秀吉

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

木下秀吉(きのしたひでよし)とは、織田信長の元に仕えた武人である。

Bouncywikilogo.gif

概要[編集]

木下秀吉とは、1565年~1573年の史料にて活躍が確認される英傑である。織田信長の元に仕えた忠臣であったとされる。

彼の活躍は信長のもとへ奉公に来たとされる29歳から37歳の頃までたどることができるが、幼少の記録は存在せず、また37歳を過ぎるとぱったり木下に関する記述が途絶え歴史上の謎とされている。

逸話[編集]

木下秀吉は織田信長の下、美濃墨俣築城・稲葉山攻略・南近江箕作城落城・姉川の合戦・比叡山焼き討ちなどに関わり戦果を挙げたとされる。特に墨俣一夜城は彼にしか出来ない伝説とされ、彼の功績によって信長は大いに助けられた。

変装[編集]

合戦が起きた際、状況によっては武将ながら農民に扮して戦うことも辞さず、実際扮装中の木下を見た敵方は武人の秀吉を見てもそこんじょの農民にしか見えなかったという。さらには美しい女中に扮してスパイ活動まで行うという万能ぶりを見せた。演技によって性別すらもコントロールして見せる木下は、その特技からどんな格好をしていても秀吉は美しいとして性別:秀吉とまで呼ばれるようになった。男性としても女性としても人気の木下は、まさに中世の名優といって差し支えないだろう。

そんな彼が扮装していないときは、信長からも森蘭丸に比類する美少年と褒められ呼ばれる風貌である。木下は演技の一つである声帯模写によって女性の声で源氏物語などの古典を読み上げるという芸で信長を沸かせた。そんな木下は信長を好いていた節があり、信長に出会った文月(7月)を愛していたという書状も見つかっている。信長もそんな木下を悪くは思っておらず、男色を好むなんてごく少数から言われているルーツはおそらく木下秀吉にある。ただ、語尾にじゃをつけるのはいただけないというのが信長の木下評である。

晩年[編集]

概要で述べたとおり木下に関する晩年の記録は存在しない。考えられる理由としては、木下の活躍を妬んだのかどうかはともかく、同じく信長に仕えていた丹羽長秀柴田勝家が木下を陥れ歴史の闇に葬り去ったのではないかというのが八年で記述が途絶えたことに対する当時の見解である。しかし、史料を漁っても二人ともそこまで陰湿な性格とは思えずこの説には疑問符がつけられていた。

近年、資料を漁った結果、同じ名を持つと見間違うような公家武将の豊臣秀吉が、名前が同じなのをいいことに彼の地位を乗っ取り天下統一を図ったのではないかと考えられている。今まで豊臣秀吉の美談として語られていた逸話であるわらじの話などは、全て木下が記述上生きていた時代のものであり豊臣が木下を陥れた疑いが高い。おそらくは信長亡き後豊臣は木下を殺し木下の地位を乗っ取ったのだ。歴史から抹殺された木下の晩年を知るものは誰もいないが、木下の能力を考えれば歴史上に残っていないだけで皆から慕われ幸せに過ごしたと祈りたい。

関連項目[編集]

Nicovideo logo.gif