平重衡
平 重衡(たいら の しげひら、保元2年(1157年) - 文治元年6月23日(1185年7月21日))は、平安時代末期の武士。平清盛の五男。母は平時子で、宗盛、知盛らとは同腹。武勇の誉高く、平家の一員として各地を転戦して武功を挙げる。少々ドジっ子な一面があり、南都攻略の折、火の不始末による過失から東大寺や興福寺を焼失させてしまい、衆徒の憎悪を買う。重衡は容姿も秀麗であり、牡丹の花に喩えられた。しかしこの喩えは猪の鍋(牡丹鍋)にひっかけた、重衡を猪突猛進一辺倒の猪武者と評する揶揄とも言われる。
人物・生涯[編集]
一門として父清盛を支え、以仁王の挙兵においては兄知盛と共に出陣、宇治平等院の戦で以仁王、源頼政らを討ち取る。しかし以仁王の蜂起を促す令旨が契機となり各地の反平氏勢力が次々と蜂起、重衡はこれらの反乱勢力の鎮圧に当たる。
阿呆の烙印より悪の華[編集]
南都北嶺の衆徒を鎮圧の為に東大寺、興福寺などを焼き払った事で、重衡は激しい憎悪を向けられる事となる。実はこれらの焼き討ちは重衡の過失であり、焼き討ちを命令したわけではなかった。真冬の最中、重衡の軍勢はは暖を取るため彼方此方で盛んに焚き木を焚いており、寒さが苦手な重衡は焚き木をつけっ放しにしていたが、そのことが凶と出る。その晩、強風が吹き、焚き火が追い風に煽られ付近の寺院に引火。さらに火災旋風まで吹き荒れる。危険を察知した重衡は消火活動もせずに避難。炎は瞬く間に延焼し、聖武天皇建立以来の南都の堂塔伽藍は悉く灰燼に帰した。マッチ一本火事の素とは言うが、まさかここまで大惨事になるとは重衡自身思いもしなかったであろう。だが後日重衡は自分の命令で火を放たせたと偽りを言った。南都を焼き払った大悪人の烙印を押されるよりも、不注意から失火させ何ら手立ても打たずに逃げ出した臆病者の謗りを受けることを重衡は恐れたのである。自ら焼き討ちを命じたと公言した事で悪党の汚名を着ることとなったが、同時にもののふとしての面目は保たれた、と重衡は満足げであった。
やがて父清盛が逝去し、源頼朝を大将とする源氏勢力が西進してくる。既に斜陽の兆しを見せていた平家だが倶利伽羅峠の戦いで源義仲に大敗を喫した事で都落ちを余儀なくされ、重衡も宗盛らと共に都落ちする。
無念の辱め[編集]
重衡は一門と共に勢力の回復を図り奮戦するが、一ノ谷の戦いで馬を射られて落馬したところを生け捕りにされてしまう。この一ノ谷の戦いでは他にもキセル乗車の創始者である平忠度や知盛の嫡男平知章、琵琶の名手平経正など多くの一門が討ち取られているが、彼だけは運よく(?)生け捕りにされている。そもそも清盛の息子の一人であり平家の中核を担う重衡をわざわざ生け捕りにするであろうか。平家の中核だからこそ、頼朝の手で処断させるために生け捕りにした、最早これまでと自害しようとしたところを、早まったらあかんであんさんと源義経に取り押さえられたなど言われているが、実は自ら投降した、或いは命乞いをしたのではないかとの疑惑の声も浮上している。勇将である重衡を生け捕るには困難を要する為、重衡が自ら投降したという考えに至るのもやむ終えないかもしれない。だがちょっと待って欲しい。この説を採用したら宗盛とキャラがかぶってしまうではないか。平家のヘタレは宗盛一人で十分なのである。重衡は後述の千手や妻輔子とのエピソードが表すように、カッコ良い色男であらねばならないのだ。ゆえに命乞い説を支持する史家は少ない。また重衡の容姿があまりに美しいため源氏方の兵が殺すのを躊躇った言う説も有るが、平家随一の美貌を持つ平敦盛はこの戦で熊谷直実に討ち取られているため信憑性は低い。
後白河法皇は三種の神器と引き換えに重衡の身柄の引渡しを総大将平宗盛に要求したが、実は宗盛は都落ちのドサクサで三種の神器を紛失してしまい、慌ててレプリカを作って誤魔化そうとしていた狼狽の最中だったためとても要求に応じる事は出来なかった。重衡の将才を妬んでいた宗盛が弟を容易く見捨てたとも言う。
死を前にして二又ラブロマンスを満喫[編集]
重衡はやがて鎌倉に護送され頼朝と引見する。頼朝は重衡の男らしい容姿に心奪われ、すぐさま「やらないか」と行為を要求し、妻北条政子の怒りの琴線に触れてしまい、その場で半殺しにされる。しかしそんな夫婦漫才を尻目に、ウホッの気などないヘテロの重衡は敵である源氏に尻を捧げるつもりなど毛頭ないと臆面も無く言い放つ。その堂々たる気質に惚れ込んだ頼朝は幽閉の身ながらも重衡を厚遇した。この時、重衡には世話役として千手と言う侍女がつけられたが、千手は重衡に惚れ込み、必要以上に重衡に尽くすようになる。やがて重衡も千手の一途さに心奪われ、二人は傍目から見るとはいはいご馳走様とでも言いたくなるような良い関係になる。ちなみに重衡の妻藤原輔子はその時潮の荒れ狂う船上に他の平家の女性達と共におり、健気にも滅び行く平家と運命を共にしようとしていた。時を同じくして夫が見知らぬ女とイチャイチャしている事と比較すると、憐れでならない。
平家滅亡後、焼討を憎悪する南都衆徒からの強い要求により、重衡の身柄は南都衆徒に引き渡される事になる。しかしこの引渡しは頼朝の想定の範囲内であった。重衡の威厳には感服した頼朝ではあったが、やはり平家の一門である手前助命するつもりは無く、南都衆徒に引き渡されれば想像を絶する刑死が待ち受けていることを見越した上で引渡しが要求されるまで重衡の身柄を厚遇していたのである。ついでに言えば、重衡が自分の「やらないか」との誘いを断固拒否した事に対する仕返しの意図も込められていた。
重衡の妻輔子は壇ノ浦で入水するも救出されており、その後は山城の日野に隠遁していた。引き渡される途中、日野の近くに差し掛かった重衡は今生の別れに妻と合わせて欲しいと懇願し、輔子と対面し、別れの言葉を交わす。無論、輔子は重衡が鎌倉で千手なる侍女とチョメチョメしていた事など知る由も無い。当の重衡も千手の事など無かった事のように妻に対して聞けば誰もが赤面するほど恥ずかしい必殺の口説き文句をしつこいまでに述べ、己の髪を切って形見として渡した。輔子は悲しみのあまり大声を上げて泣き伏してしまい、重衡もかように妻を悲しませるならなまじ逢うべきではなかった、妻を泣かせ千手を泣かせ、俺は何と不幸な男なのかと感傷に浸っていた。要するに自分に酔っていたのである。
東大寺衆徒に引き渡された重衡は木津川畔にて斬首され、その首は奈良坂の般若寺門前で梟首された。梟首の日、奈良坂は晒された重衡の首級をオカズに自慰する下人で溢れ返っていたという。重衡の世話を勤め、思いを寄せるようになった千手は、重衡処刑の三年後に24歳の若さで死去する。重衡を思慕し続けるあまり後を追ったとも、重衡に妻が存在する事を知って、自分は弄ばれただけだったのかと悲観しての自殺とも言われる。
尚、重衡は今で言うイケメンの範疇には充分入るであろうが、さすがに平維盛や平敦盛には容姿は劣ると評価されている。筋肉質の三十路前後のちょっとおっさん臭さを漂わせたカッコいいお兄さんだったのだろう。現代に生まれていたらストレッチマンか体操のお兄さんになっていたかも知れない。
得意技[編集]
「音撃棒」を用いて戦う。腰部に着装されている「音撃鼓」を敵に付着させこれを太鼓に見立て「音撃棒」で叩き、清めの音を体表から叩き込み撃退する。これにより重衡は「音撃戦士」と呼ばれている。一説によると音撃戦士は仮面ライダーの一種であるとの事だが、バイクに乗っていない事から否定的な見解のほうが優勢である。本物の仮面ライダーは同じ一族の平維盛であるとされるが、当時彼は鬱病を患っており、源平合戦においてライダーとしての能力を果たせずに終わっている。