山県昌景
山県 昌景(やまがた まさかげ、享禄2年(1529年) - 天正3年5月21日(1575年6月29日))は戦国時代期に活躍した戦国武将。武田二十四将で構成される「TKD24」のメンバーで愛称は「かげっぺ」。「赤備え」で有名な飯富虎昌の弟…という事にされているが、年齢差が離れすぎている事や、あまりにも風貌が似通っていない事から血縁のない義理の兄弟ではないかと言われている。武勇に長け、馬場信春と共に後期武田家の双肩を担う人物であった。とりわけ脚力にかけては比類するもの無く、超高層の摩天楼さえも軽々と飛び越える。その名は海を隔てて欧米にまで広く知られている。身長はかのhydeよりも低く鼠小僧と侮りを受けるほどであったが、ある特定のキノコを食すると巨大化し、身長も3倍、体力腕力も3倍、ついでにイチモツの長さも3倍になる。[1]
生涯[編集]
飯富虎昌の弟として甲斐に生まれるが、赤ん坊として彼を甲斐に届けるはずのコウノトリがヘマをやらかしてしまい、何とバルト海に浮かぶ恐竜の島に赤ん坊の昌景は届けられてしまう。その島に住む恐竜達は知能が高いが反面獰猛な性格で知られており、赤ん坊の昌景を発見して恐竜達はこぞって舌なめずりをする。絶体絶命の危機…かと思われたが、なんと恐竜達の気まぐれか、昌景は島の恐竜達に育てられる事となった。
しかし昌景を待ち受けていたのは想像を絶する生き地獄であった。島の恐竜達は昌景を粗略に扱い、ボール代わりに投擲したり、餌取りの為の猟犬代わりにと昌景を酷使したが、このおかげで卓抜した身体能力を獲得することが出来た。やがて昌景は成人し、成人の儀式を迎え、恐竜達の饗応を受ける。その席で酔っぱらった一匹の恐竜が「実はコウノトリがヘマをやらかしたのではなく、俺達がお前等を誘拐したのだ」という衝撃の事実を暴露してしまい、これが昌景の逆鱗に触れる。憤激した昌景は恐竜達をフルボッコにし、そのまま島を出る。昌景は仔細あって自分が日本の甲斐出身であると知ったがいかにして日本へゆくか模索する。日本へゆくにしてもまずは旅費が必要なので、しばしの間配管工のバイトをして旅費を稼いでいた。
昌景が武田家に帰参したのは武田信玄が村上義清に手痛い敗北を喫した「砥石崩れ」の直後である。年の離れた兄飯富虎昌と感動の対面を果たした昌景だが、兄虎昌は昌景の髭を蓄えたイタリア紳士風の風貌が自分とは、いや日本人からもあまりにかけ離れているのを垣間見て、まこと自分の弟かと訝ったという。しかし昌景はそんな兄の憂慮も知らず数々の武勲を重ね武田軍の中核をなす武将となってゆく。最初の活躍は村上義清との合戦の折であった。この時難攻不落の砥石城を落とすのに攻めあぐねていた武田軍だが、ここで恐竜の島で鍛え上げられた昌景の野生の力が炸裂する。昌景は砥石城の厠に通じる土管から砥石城に侵入し、厠から突如姿を現して村上勢を驚かせたばかりか、たった一人で村上勢を殲滅させたという。この時昌景は全身が金色に輝いており(ついでに厠の中を通って来たため全身糞まみれでもあり)、神が憑依していたのではないかと言われた。驚く事に、昌景に雑兵が近づくだけで吹き飛ばされて即死したという。俗に砥石の昌景無双と呼ばれる華々しい活躍であった。以降もは村上方の城を落とすために遺憾なくその武力を発揮し、真田幸隆と共に武田家の信州攻略に多大な功績をもたらした。特に昌景は火攻めを得意とし、彼が攻めた城は塵一つ残さず灰となり、信濃の無数の山城が灼熱の中灰燼に帰した。このため昌景は煉獄魔神の異名で味方からも畏怖されたが、一方で信玄が村上義清の葛尾城を落とした後に居城として利用しようとしていたにもかかわらず昌景が連続ファイアーボールによる火攻めで焼き討ちしてしまい、信玄の叱責を受けるという失態も犯している。
名高い川中島の合戦においても昌景は獅子奮迅の活躍を見せる。この日昌景は亀の甲羅を模した黒金の鎧兜で身を固め、敵に目掛けて無数の金槌を投擲して奮戦したと伝わっている。だが一方で、昌景は地蔵に変装して敵をやり過ごし本戦に参戦しなかったと言う疑惑もある。また昌景は川中島に先んじて生まれ育った恐竜の島から大量のメロンを餌に恐竜達を招致し、軍馬として使役するようになった。昌景の部隊は猛将揃いの武田家の中においても五指に入る屈強さで知られていたが、この軍馬、いや軍竜と言うべきか、とにかくこれらの恐竜たちを軍馬として使役していた事が昌景の部隊の精強さの一員をなしていたことは間違いないだろう。
それから数年の後、信玄の嫡男武田義信が謀反を起こそうとする事件があり、昌景の兄飯富虎昌は義信に迎合した罪で自害させられる。この時昌景が信玄に事前に謀反の仔細を密告したため謀反の計画が白日の下晒されることとなった。結果として兄を窮地に追いやってしまった罪悪感と兄を救いたいという願いから、昌景は亀を無数に踏み潰して健気にも兄虎昌の残り人数を増やそうとしたが、自分の残り人数が増えただけで兄の命を救うことはかなわなかった。この事件の直後、信玄から昌景は断絶していた武田家臣山県家の名跡を継ぐよう命ぜられ、山県昌景となる。
だが勇名を轟かせた昌景にも最期の時が訪れる。1575年の長篠の合戦において、無数の鉄砲で武装した織田信長、徳川家康の連合軍相手に奮戦するも、長年の戦友馬場信春、内藤昌豊らと共に無念の戦死を遂げる。この時昌景はスーパーキノコを3つ食して3倍のサイズまで身体を巨大化し(その際、前述の増やした自分の残り人数を全員引き連れていたという)、織田、徳川軍の柵をなぎ払って鉄砲隊を捻り潰そうと試みたが、自分の残り人数は次々と鉄砲隊の餌食となり、彼自身も3倍に巨大化したことで当たり判定も3倍になってしまい、鉄砲の格好の的となって蜂の巣にされてしまったのである。しかし昌景は無数の銃創を受けても執念で突撃し、あわや信長の本陣に肉迫するほどであった。その奮戦振りは信長も称えるところであり、家康に至っては迫り来る巨大な昌景に狼狽し武田軍相手に二度目の脱糞をしてしまった。[2]