孫権
孫権(そんけん)は、広島県呉市出身の実業家、政治家。呉市の初代市長である。また三国志を代表する酒乱である。
実業家としての孫権[編集]
182年、現在の呉で誕生。中小企業の社長である孫堅の次男として誕生した。次男という立場であり、少年期までは跡取りという意識は全くなかったようである。
だが、192年に父の孫堅が死去。兄である孫策が会社の跡を継いだものの、200年には急死してしまった。 このことを受けて、弱冠18歳の若さで社長に就任することになってしまった。
208年には、地元である呉に曹操グループの進出が画策された。このことを受けた孫権は、劉備興業との提携で阻止。曹操グループの呉進出を阻止した。これは後に赤壁の戦いと言われ、実業家としての孫権の最大の見せ場であった。
赤壁の戦い以降も劉備興業との提携が続き、孫権もこれも後押ししていた。
だが219年、蜜月の関係であった劉備興業との関係を切り、かつての敵であった曹操グループと組むようになった。
その後数年は劉備壊滅へと全力を注いでいたが、223年には再び劉備興業と提携を結ぶこととなった。
この変節漢っぷりを受けて、社員からの不満が爆発。非難を大量に浴びてしまい、社長職を辞任するまでに至ってしまった。
このことから後世では孫権厨房と呼ばれることがある。
政治家への転進[編集]
社長職を辞任した後、孫権は東京へと上京。政治学を学ぼうと早稲田大学政治経済学部へと入学した。 その後四年間を東京で過ごすこととなった。早稲田大学に入学した当初は国会議員への転進を目指していたものの、後に故郷の呉の市長になりたいと志すようになった。
228年に早稲田大学を卒業し帰郷。第一回の呉市長選挙に立候補し、二位の候補にトリプルスコア以上の差をつけて、トップ当選を果たした。以降、再選を続け支持基盤の確立に尽力し、4期目においては時の総理大臣の曹操の協力を得て県知事選挙に出馬し劉氏や士氏を破って初当選を果たす。さらにその8年後道州制の導入に伴って呉州を作り、初代州知事に就任した。しかし多選を重ねる一方で腐敗も進み、228年以降は特に自身がたびたび不祥事を起こした。州知事の三期目では後継者争いが激化し州議会が混乱する中、呉市の病院で死去した。
孫権は父・兄とは違い天寿を全うし曹操・劉備よりも長生きしたが、元々イカレてたのか、荒天の進水式で大興奮したり、酒宴で酔った振りをした部下を癇癪に任せて斬殺しようとしたり、不老不死の秘薬を求めたり、神と名乗る者を信じたり、後継者争いを引き起こして自ら発展させた呉市をドブに捨てる。ついでに諫言した陸遜を自殺に追い込むなど、老醜が目立った。その生涯は、溢れる才能も人格がゼロなら全て毒、いくら長生きしてもボケてしまえば意味が無い事を示した好例と言えよう。
備考[編集]
孫権の業績から、後世では中国版山内一豊あるいは毛利輝元と言われることがある。