姫路城
姫路城(ひめじじょう)は兵庫県姫路市にある城。白漆喰の城壁の美しさから白過ぎ白鷺城の別名で呼ばれるが、世間一般にはもう一つの別名「江戸城」で知られており、これ以外にも数多くの別名をテレビによって勝手に付けられている。
歴史[編集]
14世紀には、黒田氏や羽柴氏の出世の足がかりという、特になんでもない城であったが、江戸時代初期に徳川家康の命によって、自称改修者を名乗る池田輝政がオセロの駒のようにして現在のような白い城に改築した。しかし、輝政は、何度となく奇怪な出来事に遭うようになり、その弱みに付け込まれていかがわしい少女に寺院を建立させられたが、刑部姫を粗末にしたばちが当たって病死したとされる。
輝政の子供たちも、忠継が岡山で毒まんじゅうを食ったり、輝興が赤穂で乱心して側室を斬殺したりと「たたりじゃあ」が止まらなくなった。姫路は池田家から召し上げられて、譜代大名が石高を減らされて入封するが、こちらもお家騒動だの女狂いのスキャンダルと刑部姫は絶好調。水木画伯の図解入り論文及びアニメ「目玉おやじ」で彼女の活躍ぶりが見れる。
明治時代には、二束三文で売られ、金物は子供の鉄砲の弾に、廃材は銭湯の薪、瓦は川棚温泉の蕎麦の器にされる予定であったが、壊すのが面倒なので即、日本陸軍に売り渡された。日本陸軍も処理に困ったので国宝ということにしておいて、無駄で面倒な解体作業に兵の花札の時間と5年分の宴会代を失うことを避けたとされる。こうして、日本国内2位の城として現存したが、後に、日本最大規模を誇示し、「目の上のたんこぶ」のような存在だった名古屋城が焼失したため、晴れて江戸城の代役の地位を獲たのである。
築城者[編集]
姫路城を築城した人物は、一般には南北朝時代の赤松貞範であるとされている。また主な改修者として豊臣秀吉や池田輝政の名前が挙げられる。しかし、常識的に考えて彼らが直接に築城に従事したとは考えられない。彼らが材木一本、もっこ一つ担いだわけがない。真の築城者は大工さんといって差し支えない。他にも瓦職人や左官や金具職人や、あと単純土木作業にお百姓さんとか、そのほか様々な職業の人々が実際の作業に従事したはずであるが、彼らの名前はほとんど伝わっていないのが現状である。
一応、江戸時代の(池田輝政による、と世間一般にいわれるところの)改修時に大工棟梁を務めていたのは桜井源兵衛という人である。後に奥さんに「天守が東に傾いている」と突っ込まれたショックで飛び降り自殺したという伝説が残っている人ではあるが、そういうインパクトのある話題でもなければまず名前など残っていまい。現在、清水門近くに川の改修記念碑と称した櫻井源兵衛の墓がある。
彼らが必死こいて働く横で偉そうにお茶でも飲みながら見物していた大名達ばかりが何もやっていないのに「築城者」と呼ばれている。これは、現代も同様で、熊本城の「一口城主令」がよい例である。世の中そういうものである。
形式と構造[編集]
天守閣は五重六階地下一階である。3つの三重小天守を付属している連立式天守である。同様の形式には、伊予松山城などが知られている。
天守閣の三階はとくに窓が高く、背伸びをしても外を覗くことさえ困難であったが、匠の技により石打棚という便利なロフトが付けられ、肩車役の兵の数の削減に成功している。
最上階は、展望できるスペースであるが、開口が狭いので代々がロマンチストだった城主には不人気であった。かわりに富姫や刑部姫が入居したことで、多くの物語を生む結果となった。
昔、地下に特殊部隊の訓練施設があって、忍者かぶれの連中が白壁に手裏剣を突き刺したり長刀で斬りつけたりと無茶苦茶をやったあげく追い出されたらしい。姫路城の地下には姫路市民も知らない何かが埋まっている。
敗戦の年に米帝空軍による大空襲で姫路市街地がほぼ焼け野原と化した際に、天守閣ほか主要建造物が殆ど無傷であったことを考えると、当時姫路城周辺には周辺に展開していた陸軍の手によって尋常ならざる防空体制が敷かれていたものと思われる。(余談ではあるが、このことを知っている年寄り達の中には、お城が余りに綺麗だったからアメちゃんが爆弾落とさんかったんや、と信じ込む連中もいるが、これはGHQの情報操作であり、実際には防空網をかいくぐった不発弾が天守閣に着弾している)
この姫路城の修復に尽くした男たちの物語を、某放送協会が地上の星で有名なあの番組で放送したのが2001年9月11日の午後9時00分~45分のことであるが、放送直後、アメちゃんの資本主義の象徴であったツウィンタワーがイスラームの聖戦による破壊に遭ったことから、姫路城には何らかの呪術的防衛術が施されているのでは、と華氏911では紹介されている。