名和長年
名和 長年(なわ ながとし)は鳥取県の英雄(笑)である。一介の豪族の分際でありながらたまたま後醍醐天皇が隠岐に流されたことで帝と邂逅し、立身出世を遂げた。表の顔は新興の海運業者だが、裏では海賊行為に明け暮れていた札付きのワル、二重の意味での「悪党」である。
貴顕にあらざる身分ながら、優れた才覚によって成り上がった、楠木正成らと並ぶ南北朝の騒乱期を象徴する人物の一人。だが、似たような出自、境涯の正成の人気の陰に隠れてしまい存在感が希薄化している。それでも戦時中は皇国史観から正成や新田義貞のついでに忠臣と讃えられたが、戦後になると人気、認知度は下落し、今では歴史オタぐらいにしか認知されていない。所詮は鳥取県(笑)の英雄である。
その数奇な生涯[編集]
名和長年とその一族は伯耆国で海運業、漁猟を生業とする傍ら、度々よそ様の船を襲撃するなど海賊行為を行い莫大な富を蓄え勢力を拡充していた。家紋の帆掛舟は、表は海運業、裏では海賊という長年の営為の象徴と言える。そんな長年だが、隠岐島から脱出してきた後醍醐天皇とその一行に金品目当てで襲い掛かった事が大きな転機となる。金品を強奪するため天皇一行に襲い掛かった長年は、逆に後醍醐の巧みな弁舌に惑わされすっかり馴致させられてしまった、さらに、帝の書いた船の絵の落書きをありがたがって家紋にしてしまうなど、その頃から長年は帝の忠犬としての人生を歩み始めたようである。
長年に似た気風の千種忠顕が長年を洗脳したと記載してある史料もある。以降、長年は帝の忠実な走狗臣下として後醍醐天皇の隠岐脱出の手引きをし、北条氏打倒のため奮戦する。長年は後醍醐天皇を船上山に匿い、北条の追っ手を相手にゲリラ戦を繰り広げた。
鎌倉幕府が滅びると、長年は論功行賞で後醍醐天皇を扶翼した功績を賞賛され、また商業に精通していた事を買われて市司の東市正に抜擢された。しかし後醍醐天皇の朝令暮改の波紋は商業分野にも広がり、おまけにいくら商業に卓越しているといっても伯耆と京都では流通の勝手が違うので、長年は市場の安定化に大層苦心し、京都の商人達から「田舎侍」「役立たず」などと罵倒された。また長年が海運業と海賊業、表と裏の仕事で貯蓄した財は建武の親政の潤沢な資金源となったが、後醍醐天皇は金の使い方が分からなかったためあっという間に蕩尽してしまい長年は涙目になった。
1336年、足利尊氏が反旗を翻して京都に攻め上ってきた際新田義貞と共に迎撃し、奮戦するも劣勢に追いやられヘタレの負け犬義貞が逃げ出した事で捨て石にされる形となりあえなく京都で戦死を遂げた。[1]長年に先立って戦死した楠木正成の死には多くの人々が悲しんだが、長年が死んでも誰も気にしなかった、むしろ、皆長年が死んだことに気がつかなかった。首を取った足軽も、その髪の薄いしょぼくれた顔を見て、まさか長年とは思いもしなかったであろう。
やはり、正成と大きく違うのは所詮鳥取県(笑)の英雄とどまりであったからであろう。長年の死後名和一族は九州に落ち延び、南朝方として少弐、島津らと戦ったらしいが、長年死後の名和氏の顛末についても気にしている人は少ない。
人物[編集]
楠木正成、千種忠顕、結城親光とは親交が深く、長年を合わせて彼ら4人は「三木一草」[2]と呼ばれた。特に正成とは得体の知れない出自、鎌倉末期に台頭した新興勢力(悪党)、運送業を生業とする、ゲリラ戦に卓越している、最期は新田義貞に捨て石にされたなど、共通点が多かったこともあってかとりわけ仲が良かった。似通った境遇でありながら人気、認知度には霄壤の差がある長年と正成だが、長年の芳しくない人気には鳥取県の地味さがいみじくも反映されていると言える。正成のお膝元である大坂の人々が露骨なほどに正成の軍略、忠節を喧伝してきたのに対し、鳥取の人は長年にわたって殆ど顕彰活動をしてこなかった[3]ことも長年の今日の地味さの原因である。
伯耆風[編集]
建武の親政に参与するようになってからは他のみやこびとに習って京都風の装束を身につけるようになったが、伯耆の田舎者である長年は衣冠や狩衣の正しい着装方法が分からず、烏帽子のつけ方を間違えたりして公家や京都の人々から失笑を買った。今風に言うならネクタイの正しい着け方を理解できない、背広の着方が変なサラリーマンと言えばお分かりいただけるだろう。京都の人間におかしな正装を馬鹿にされた長年が「これは我が地元伯耆のファッションだ」と開き直ったため滑稽な着方で正装する「伯耆風」という言葉が生まれた。今でも正装が出来ないサラリーマンを「伯耆風」「名和殿」などと揶揄したりする。一部の都会人は鳥取県民は皆名和長年のように正装が出来ないという偏見を抱いている。
また、身だしなみが形式通りにできないゆとり世代の社員のことを、年長者が侮蔑を込めて「名和長年」「伯耆守」と呼ぶことがある。そして、こっちの「ホウキ」で身なりを整えろ、と、箒でその新入社員の身体をベチベチ殴打することがよくある。しかしここまでやると今のご時世ではパワハラである。
名和長年は建武の新政ではそこそこ出世できたが、服装など、マナー・身だしなみの類がもっとしっかり出来ていれば、田舎者と馬鹿にされずにより栄達できたんじゃないのと歴史学者達から指摘されている。
出自[編集]
楠木正成同様下賤の出身であるが、正成と違って系図を改竄、捏造する技術を有していた長年は自分が村上源氏の血族であるという系図をでっち上げた。長年の技巧に後醍醐天皇や公家達もあっさり騙されてしまったようで、南朝の泰斗北畠親房も神皇正統記で「名和長年は村上源氏」とお墨付きを与えている。
地元鳥取での人気[編集]
南北朝時代の英傑の一人でありながら非常に地味な印象があるが、これでも地元鳥取県では郷土の英雄として称揚されていた。が、戦国時代に城兵の命と引き換えにSEPPUKUして果てた吉川経家(鳥取出身でない上、鳥取にいたのは数ヶ月程度)という立派なサムライが輩出されてからは 彼に人気を取られてしまい、今では鳥取県民にさえも殆ど忘れ去られている。