史上最強打線

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
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史上最強打線とは、読売巨人軍が2004年に実施した強力打線を形成させる計画のことである。このコードネームを考案したのは読売巨人軍の最高指導者である長嶋茂雄で、この計画においても影の指導者である。

概要[編集]

20世紀になった頃の読売巨人軍は、ゴジラのアメリカ侵攻に伴い転換期に迫っていた。読売巨人軍はゴジラがシーズン本塁打50本を記録した本拠地東京ドームに目をつけた。東京ドームは左中間および右中間が狭くなっており、ボールをただ引っ張る強打者には好感触の球場である。そこでいわゆるドームランを構造上量産できる環境を利用し、打線にも新聞マネーで連れてきた強打者らをギチギチに詰める。このような手法で生え抜きスーパースターができるまでの間、強力な打線で成績を伸ばそうということになったのである。これには今以上の指導力を持っていた長嶋茂雄も、王貞治の幻影を意識していたのか乗り気であり、ミスターの名のもと積極的に球界に誇示することを決めた。そのため史上最強打線と命名されたわけである。 また巨人軍には以前から高橋由伸阿部慎之助など強打な生え抜きが潜んでいたことも相まって、フロントは数人の助っ人を呼ぶだけで済んだことも短期間で重量打線が完成した要因といえる。

打線構築が完了した2004年は史上最多ホームラン259本を記録したが、あまりにもホームランを量産しすぎたせいで100打点を越える結果を出せた打者は現れず、どこかダイエーや近鉄の優勝打線とはインパクトに欠ける結果となった。なお2004年シーズンは投手陣が重量打線の擁護を上回るほど崩壊し優勝できずに3位に終わる。またペタジーニが抜けたことにより、2005年からは史上最強打線も空転し始め、巨人弱体化を狙った刺客である仲見世リキャプラーなどの暗躍、後の麻薬王タフィ・ローズが監督の悪太郎と内戦を始めたことでチームが完全に崩壊。5位に終わった。

この凋落っぷりにナベツネは激怒し、悪太郎後の麻薬王タフィ・ローズなどを大放出し、史上最強打線は闇に葬られることになった。

打線[編集]

打順 名前 守備 打率 本塁打 打点 解説
1 仁志敏久 (二) .289 28 60 背番号は原辰徳が背負っていた「8」、少年時代に原辰徳のサイン入りバットを懸賞で貰うなど、幼少期から熱烈な巨人教育を受けた生え抜き選手である。巨人らしからぬ繊細なプレーで力強い巨人軍のバランスをとっていた伏兵で、史上最強打線の時代では一番バッターとして重量打線を文字通り引っ張ってきたが、最終的には2006年に自ら志願して暗黒時代の横浜へ追放となった。
2 清水隆行 (左) .308 16 60 新聞マネーが吹き荒らす補強の嵐が巨人の生え抜きにとって最大の天敵であったりするが、その中でも外様の連中巨人に栄転してきた選手とも互角に活躍した選手だった。毎年のように打率3割を残すだけでなく、ノーヒットノーラン完全試合が達成できそうな投手に強い。このように薔薇色の成績を残すだけでなく、ナベツネの名をもとに盟主を名乗る巨人軍の面子も手厚く保護するなど紳士と言わせる選手である。ただ一番の仁志と同じように第二次原政権では地位が揺らぎ、原辰徳にしれっと除け者扱いされたことにより志願して所沢に左遷された。
3 タフィ・ローズ (中) .287 45 99 2003年には51本ものホームランを叩き込んだ、まさしく史上最強打線の一員としてふさわしい選手である。近鉄界隈では特に崇められている存在だが、最終的に自ら合併されることになるほど貧乏な近鉄球団がローズの年俸を払えなくなってしまったことで、新聞マネーで引き寄せ獲得することに成功したのである。奇跡的な入団だったためナベツネはローズに珍しく高待遇を用意し、ローズも新聞マネーに見せられ生涯巨人を宣言。2004年は100打点には僅かに届かなかったが、巨人打線の核として打棒を振り回し大暴れ、45本ゴジラにも見劣りしない巨人の3番になった。ただ2005年はローズにとって最悪の一年となった。とある試合でローズはXXXXXコーチに守備について窘められ、グラウンドではなくベンチで大暴れしてしまい、「ジャイアンツダイキライ!」と新聞記者の前で言ってしまった。新聞会社のお金でプレイする巨人の選手として、新聞記者の前で暴言を吐くという愚行を犯してしまったことで、ジャイアンツ内では孤立し打撃成績も最悪だった。その結果、あまりの凋落ぶりから戦力外通告を喰らって母国アメリカに帰国。かつてのラブラブ関係は二年目にして破綻してしまった。なお翌年はマイナーでの放浪に明け暮れていたが、結局オリックスに自ら志願し入団。なんと三年間オリックスの強打者として活躍した。最終的に得をしたのはオリックスだったのである。
4 高橋由伸 (右) .317 30 79 1997年、逆指名制度とかいう巨人ばかりが得をするような制度で巨人に入団した。ナベツネと由伸ともに満足する入団となったために、長嶋茂雄から溺愛に近い育成を受け、巨人における数少ない品格ある強打者として活躍した。ローズとは違い年単位のホームランは少ないが、ローズのように成績を落とし悪太郎と揉めて呆気なく放出されたりすることもなく、野球人生を生涯巨人で終えた。巨人軍が原辰徳を至高の成功例として意識していたこともあり、爽やかな生え抜きである由伸も第二の原としての監督業を歩むことが期待された。現役引退からそのままエスカレーター方式で監督を任されたのだが、カープが25年間の鬱憤を晴らすように3連覇を果たし、対して巨人は主力の不調もあってか2年目の13連敗が悪目立ちしてしまい、3年間の監督体験を終えた。翌年には原辰徳がのこのこと監督復帰し、巨人軍はあっさり優勝しましたとさ。
5 小久保裕紀 (三) .314 41 96 上の由伸と同じように、恩師のゴリ押しに応えてダイエーを逆指名し入団。こちらは王貞治に可愛がられるようになった。時には不振に陥ったり、うっかり脱税に手を染めてしまったこともあったが、何気にホークスの顔であった。しかし2003年のオープン戦で捕手と正面衝突し、大怪我を負ってしまう。中々凄まじい大怪我であったこともあり、シーズンを棒に振って米国で手術を受けリハビリを行ったほどだったが、あろうことか、治療費自腹など球団社長から嫌がらせを受け、憤慨した結果ダイエーと絶交してしまった。そこでONの絆をもとに巨人が無償でトレードされた。2004年、2005年とともに活躍を見せるも、当時の悪太郎政権は業績は振るわず、そのうえ原辰徳が監督に戻ってからは不振に陥るなどし、首脳陣との距離感が開くようになる。最終的には「尊敬する監督(王貞治)のもと野球をしたい。」と理屈を作り、結局ホークスに逆戻りすることとなった。
6 ロベルト・ペタジーニ (一) .290 29 84 全盛期では3割30本が当たり前といった強打者であり、同じ東京にある乳製品球団に在籍していたこともあり、ゴジラのライバルとされてきた。ところがペタジーニの年俸は大変高額であり、乳製品で経営を回す乳製品球団にとって払い難くなったことにより巨人に入団する。なんとゴジラのライバルがゴジラの代わりとして巨人入りすることになったのである。ただ彼が守るサードには怪物キヨハラがおり、外野の守備につくことになった。シーズンではスタンドを沸かせる壊滅的な守備を見せるも、3割30本を何年か連続で達成した。しかし悪太郎キヨハラのような強打者は一人で十分だと、ペタジーニをファーストでの併用に回す。結果的に高すぎる彼の年俸も相まって2004年に退団した。巨人軍は二者択一でキヨハラを残したわけだが、結果的に二人とも失うことになる。
7 阿部慎之助 (捕) .301 33 78 またまた逆指名で入団したスター選手である。大ナマズ・重戦車などと敬称される大型キャッチャーで、同年代のキャッチャーの中でも往年の名捕手に並ぶような成績を残した。引退する2019年のみを除き毎シーズン二桁ホームランを打ち続けるなど、巨人の大型兵器としてその名を轟かせた。悪太郎政権ではチーム全体が成績不調に陥った中、この大ナマズ男は変わらず打ち続けており、新聞マネーで巨人に鳴り物入りし不調に苦しんでいた外様スター選手らの顔に泥を塗り続けた。そういう意味では阿部こそが「史上最強打線計画」を自らの活躍で否定し、断念させたのかもしれない。
8 二岡智弘 (遊) .269 9 49 現在となっては巨人軍のショートといえば坂本勇人だが、彼が台頭する前はこの二岡が内野における重要な守備位置を任されていた。また清水や仁志ほどではないが、時にはシャープな打撃を見せるなど、非常に若々しい選手だった。しかし史上最強打線が終焉した後、2008年には例の騒動を起こしてしまい、金遣いの面で嫌われていた巨人軍の名誉に直接ドロを塗ってしまった。これにより自軍の選手会長でありながら、読売新聞によって9800円というレッテルを貼られ、長嶋茂雄の進言によって蝦夷地へ流刑となった。
控え 清原和博 (一) .228 12 27 近年でも高校生にも関わらず全国的に有名な選手が居たりするが、清原はまさしく甲子園の大スターであった。PL学園野球部体罰英才教育で培われた強靭な心身でもって甲子園でまさしく大暴れ。見返り金で稼ぐ首脳陣は巨人教育も熱心に取り組んでいた影響で、清原本人も巨人入りを熱望していた。しかし巨人は槙原の後継として同じPL学園の看板だった桑田真澄を指名。プロになれるだけ偉業である上に5球団もの指名を受けたのにも関わらず、会見ではフラれたショックのあまり涙を流した。これが清原全盛期の終焉であり、以降は怪物としては足りないほど球界では異端のスターとして茨の道を歩む。西武時代では秋山幸二デストラーデと最強クリーンナップを組むも主要タイトルを中々決められず、ついには所沢には居られないとして、勝手に同情していた田尾安司らの尽力で導入されたFA制度を利用することにした。桑田と倦怠期に入っていた読売新聞と、文字通り暗中模索だった阪神電鉄が激しい攻防戦を繰り広げる。最終的には思いを寄せていたジャイアンツへの加入を果たしたが、華々しい活躍を見せたのにも関わらず、清原としては不本意な時代となった。ゴジラが清原以上に大暴れしていたためか主役の座から離れてしまい、長嶋茂雄の史上最強打線計画のリストに加えられるも控えが続いてしまう。また同時期には貧乏くじを引いて監督をやらされていた悪太郎と激しく対立。2005年には一年かぎりの暗黒時代の憂き目にあっていた紳士軍のベンチの空気を冷え込ませ続け、最終的に戦力外通告になった。清原のケースは通常の戦力外通告より重い意味合いもあったのだろう。
控え 江藤智 (三一) .227 4 15 他の選手とは違い巨人教育には冒されず、ノビノビと強打者に成長した江藤は広島へあっさり入団。その後は広島式帝王学の影響に浸りホームラン王争いに加えられるような4番打者に成長。その後は出る杭を打とうとする読売新聞に口説かれ、ついには長嶋茂雄に「僕の33番あげるから。」との一言に押され入団した。2000年からいきなり活躍を始めたが、ゴジラが米帝に遠征で離れたのにも関わらず、2002年から成績が低迷しだした。また江藤は帝王学の影響から扱いが難しく、ついには起用すら急減するようになった。2005年には代打要因との一応の名札はついたものの、他選手と同様に成績は上向かないまま、人的補償で所沢へ行ってしまった。江藤の後にも、一時期は活躍したものの年々起用が減っていった結果、静かに出ていった外様選手が数々出てくるようにもなった。

実のところ[編集]

小久保、清原、ペタジーニ、ローズ。やはり4番を乱雑に並べただけに感じるが、実にその通りなのである。こうなった原因として読売新聞ゴジラを過度に崇拝していたことが挙げられる。つまり巨人軍はゴジラを中心としてチームが回っている様を忘れられず、いつもの他球団からの補強が気付かぬうちに4番で埋め尽くされ、ただのホームラン打線となってしまったのだった。

関連項目[編集]

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