令制国
令制国(りょうせいこく)とは、日本が統一国家になる明治時代まで存在した国々のことである。
概要[編集]
奈良時代、日本政府は天皇の威光だけでは統治することが出来ないと思い、わざわざ60余りの細かい区分にして統治することにした。それが令制国の始まりであった。
なお当時、東北・北海道・沖縄地方は統治の対象外になっており、それらの地域に対しては毛人、蝦夷、流求(後の琉球)などと蔑んで呼び、「天皇は偉い」ということをアピールさせていた(実際には何の効果もなく、特に北東北に関しては逆にぶちきれて戦争沙汰になったわけであるが)。
平安時代、朝廷は東北の蝦夷を討伐する。しかし、この地域だけは陸奥と出羽の二つ(当初は陸奥のみ。現在の山形市付近も陸奥国)で済まされることになった。この地域は強力な政府が無いと、また反乱を犯すと思われていたらしい。同じような事情で吉備を備前・備中・備後・美作、豊を豊前と豊後、筑紫を筑前・筑後に分割したりもしている。
この分割統治策、結局は大方の予想通り、天皇の威光が届かなくなって個々が独立する事態になっていく。それどころか令制国の区分も守られなくなり、平安時代以降68であったはずの国は、江戸末期には306もの藩に分割されてしまっていた。もはや有名無実といって良かった。
明治政府は当初、この国制度を復活させ、新たにアイヌから略奪した北海道に国を設置し、東北を分割して実態に合わせた政治を行おうとした。しかし、いつまでも分割されたままでは近代中央集権国をつくるのは不可能だと思い直し、国の思い通りになる道府県の設置へ変更する。こうして廃藩置県が実施され、藩と共に有名無実化していた旧国名も姿を消した。
現代に残る令制国名[編集]
令制国名は前述したとおり、律令制崩壊後、室町時代や戦国時代には既に意義を失っていたが、思わぬ形で名残をとどめることになった。地名である。
特に重複する地名・駅名を区分するのに国名は便利であった。道府県名をつければいいように思うが、京都や大阪のように逆に分かりにくくなるという事例もあるため、山城や河内のような令制国名が好まれたのである。
また、廃藩置県4年後の平民苗字必称義務令に伴い、突然庶民が苗字を付けなければならない事態となったときも、令制国名は威力を発揮した。おかげで国名を付けた苗字は武蔵や播磨や周防、長門に代表されるように、多く見られるようになった。その他「大和」に象徴されるように、軍艦の名称ともしても活用された。
役に立たなくなったものを廃止した後に限って、その意義が見出されるという皮肉さを、この事実は示している。
首長[編集]
- 大国・上国・中国・下国に分けられたが、首都に近い畿内でも和泉は下国、近畿の伊賀も下国。「東の果て」と「更科日記」に書かれた野蛮人の棲む常陸でも大国とランキングの基準がよく判らない。
- 守・介・大掾・少掾・大目・少目は大国のみ。上国は守・介・掾・目。中国は守・介・目。下国は守・目で伊豆などは目すら現地赴任せず在京なので目代しか居らず、源頼朝の血祭り1号のターゲットにされた。