一国一城令
一国一城令(いっこくいちじょうれい)とは、江戸幕府によって行われた史上初めての景観保護政策である。
城郭の巨大化[編集]
武士の館から発展した日本の城は、室町時代までそれほど大規模ではなく、館に堀をめぐらし櫓を立てて敵への備えとした程度のものが多かった。その後、戦国時代には山の上に築かれた山城が主流となったが、軍事施設に特化した城はまだ装飾の少ないものが大半を占めていた。しかし、戦国時代の終わりに城の政庁としての機能が重視されるようになると、城は山から平地に降ろされ、さらに領主の威厳を示すため、高く積み上げられた石垣や何重にもなる華美な天守閣が作られて城は際限なく巨大化していった。
こうして巨大な城が各地に次々と建設されたが、その一方で「城のせいで山が見えない」「海が見えない」「洗濯物が乾かない」といった苦情が領民から殺到していた。これに対応するために江戸幕府が発布したのが、日本で初めての景観保護条例とされる「一国一城令」である。
一国一城令[編集]
一国一城令は1615年に発布された。その要旨は、一つの令制国には一つの城しか置いてはならないということである。これによって、各地にあった巨大な城の多くが取り潰され、日本の景観が大きく改善したことは言うまでもない。
さらにその後、1657年の明暦の大火で江戸城の天守が焼け落ちた後、幕閣の保科正之らは江戸の景観保護のため、天守を再建しないことを決議した。これは諸大名の模範となり以降は天守の建造・再建も控えられた。
江戸幕府が倒れた後も、明治政府によって景観保護は一層推し進められ、ほとんどの城が取り壊されて、[1]ここに日本の広い空はようやく取り戻されたのである。しかし近年になって、日本のあちこちに復興天守や模擬天守と呼ばれる天守をやたらに立てる動きが広まっており、先人の教えを無下にする行為として問題視されている。
関連項目[編集]
- 一国一城の主…一国一城令によって非常に狭き門となった城主の地位を手に入れた運の良い人々。
脚注[編集]
- ^ ついでにお寺もたくさん壊された。