ポリティカル・コレクトネス
ポリティカル・コレクトネス(英:political correctness、PC)とは、言葉の使い方に偏見や差別が含まれていないことを指す言葉である。日本語では「政治的に正しい」と訳される場合もあるが、一般的には「言葉狩り」を婉曲にオブラートに包んであたかも言論の自由を侵害するものではないかのように装うために言い換えているものであると認識されている。すなわち、この言葉自体がある意味ポリティカル・コレクトネスなのである。
実例[編集]
身体的特徴に関するもの[編集]
- めくら→視覚的にチャレンジされた
- つんぼ→聴覚的にチャレンジされた
- おし→言語的にチャレンジされた
- ブス→顔面的にチャレンジされた
- チビ→垂直的にチャレンジされた
- デブ→水平的にチャレンジされた
- ハゲ→毛髪的にチャレンジされた
- 出っ歯→歯列的にチャレンジされた
- 老け顔→顔年齢的にチャレンジされた
- インポ→性機能的にチャレンジされた
- 短小→性機能的に垂直的にチャレンジされた
ジェンダーに関するもの[編集]
- 看護婦→看護師
- 保母・保父→保育士
- 痴漢・痴女→痴士
- 悪漢・悪女→悪士
- 漢民族→士民族
- 漢字→士字
- 悪代官→悪代士
- 野郎・女郎→野士
- 任侠→任人
- AV男優・AV女優→セクシャル・アクター
- 娼婦・男娼→セクシャル・セラピスト
- 慰安婦→セクシャル・セラピスト
- 腐女子→腐士子
- 男爵→士爵
- 嬲る、または嫐る→士士士る
- 役員・管理職に占める女性の割合・役員・管理職に占める男性の割合→役員・管理職に占める士の割合
- キッコーマン→キッコーパーソン
- マンホール→パーソンホール
- マンチェスター→パーソンチェスター
- ウルトラマンタロウ→ウルトラパーソンハナタロウコ
- ホモサピエンス→LGBTサピエンス
- ビキニ→小面積水着(ビキニは女性が着るものという概念を無くそうとしている)
- 港区女子→港区士子
- 強姦→強士士士
- 受付嬢→受付士
- キャリアウーマン→キャリアパーソン
- (ロシア語、ドイツ語など)女性名詞、男性名詞→中性名詞
など、数多い。ただし日本サッカー協会の「チェアマン」が「チェアーパースン」になる日は当分先のことだろう。
色に関するもの[編集]
遠い未来に宇宙人とのファーストコンタクトを果たした暁には、青や緑も「肌色」と呼ばれることになるのは間違いないだろう。
親族に関するもの[編集]
親族が死刑囚で絞首刑で死んでたりしても当人に罪は無いので親族の最期に関して言い換えなければならない。
- (英)Remus passed away during an important civic function held in his honor when the platform upon which he was standing collapsed.
- (訳)彼自身の名誉に関わる重要な市民の義務を果たそうとした時に立っていた台が崩れて他界した。
地名に関するもの[編集]
- 裏日本→日本から見てユーラシア大陸側・ユーラシア大陸から見て日本側(「日本海側」という表現はポリティカル・コレクトネスに顕著に違反していると韓国の有志達が日々口にしており、使用は厳禁である。)
- 部落→被差別集落
- 本州→三十四州
- 四国→四県
- チバラギ→千葉の植民地・茨城
- 東シナ海→東中華人民共和国海
地名に関しては、上記のように統一見解がなされている場合は問題が少ないが、現実には複数国家が関与し、それぞれの思惑が異なるケースが多く見られる。
この様な場合、両者の意見を取り入れた形で決着するのが真のポリティカル・コレクトネスと言えるだろう。
- 日本海(東海)→東日本海
- 竹島(独島)→ドイツ竹島
- 尖閣諸島(釣漁島)→尖閣フィッシングアイランド
- 北韓(南鮮)→大韓朝鮮民国 民主主義人民共和国(だいかんちょうせんみんこく みんしゅしゅぎじんみんきょうわこく)
動植物名に関するもの[編集]
- ハダカデバネズミ→歯列的にチャレンジされたヌーディストのネズミ
- ハゲタカ→毛髪的にチャレンジされたタカ
- イザリウオ→身体的にチャレンジされた魚
- メクラウナギ→視覚的にチャレンジされたウナギ
- オオイヌノフグリ→標準的サイズより大きな犬の精巣
- チョウセンメクラチビゴミムシ→主にコリアに分布する視覚的にチャレンジされた標準的サイズより小さな(ただしこの虫の責任ではない)社会的に重要視されないという不当な扱いを受けている塵芥を処理する虫
考察[編集]
どの表現が差別にあたるか、というのは当人がどの立場を取るかということに常に依存している。ここでは真のポリティカル・コレクトネスについて考察してみよう。
次のような例文を見てみる。
これはごく普通の、日記の書き出しあるような文である。だがポリティカルコレクトネスの観点からすれば、これは正しい文章ではない。
- 「僕」
これは筆者が男性であることを連想させる言葉だが、筆者が男性ではない可能性がある。ボクっ娘などという言葉の進出に見られるように、「僕」という言葉は女性の一人称にも用いられることがある。だがポリティカルコレクトネスを追求する以上、そのような社会情勢を無視し、筆者が男性であることを強く連想させる言葉をそのまま用いるわけにはいかない。ここは中性的な「私」を用いなければならない。
- 「朝」
この表現も正しくはない。地球は丸い。筆者がいる地域が朝でも、そうではない地域は常に存在している。「朝」と一方的に断定するのは朝ではない地域に住む人々を見下しているということである。ここは世界標準時を用いて記述するのが正しい。 「協定世界時21時~24時に(日本時間6~9時)」となる。
- 「お母さん」
これは正しい表現ではない。なぜなら、この文章を執筆した本人からすれば「お母さん」つまり母親であろうが、ポリティカル(=政治的)に公平な立場からすれば、「日本国籍を有している一人の女性であり、筆者の母」と記述するのがより正しいと言えるだろう。だがこれも完璧には正しい表現ではない。「日本国籍を有している…」の部分についてだが、母親が日本国籍を取得しているとは限らないのだ。日本語で書いてあるからと言って、筆者が日本人だと断定し、母親も日本国籍を有していると考えるのは差別にあたる。日本国内にも在日朝鮮人や在日アメリカ人など、様々な人種的マイノリティが存在することを考慮すべきである。よって「日本国籍を有している」を削除した「一人の女性であり、筆者の母親」と表記するのが正しい。だがこれも完璧には正しくない。現在、日本国内には家族観の変化に伴って実母に育てて貰っていない、養子が数多く存在していることを考慮しなくてはならないからだ。この筆者の母も実母ではない可能性を鑑みなければ政治的に正しくはない。 以上を踏まえれば、正しい表現は「母だと筆者が認識している一人の女性」である。
- 「おいしい」
これも政治的に正しくない。おいしいと感じたのは筆者の主観である。その主観だけを公然と表記するのは、そのご飯をまずいと感じる人たちのことを見下している。
「筆者がおいしいと主観的に感じた」が正しい。
- 「ご飯」
ご飯という言葉には飯という漢字が含まれているが、これは日本語では炊かれた白米のことも指す。白米を食べない人も世界には存在する以上、ご飯という言葉を使うわけにはいかない。「食料」にすべきである。
以上を全て踏まえた上で正しい表現は以下の通りである。
だがこれも正しくはない。
- 「私」
この言葉はある一人の人間が自分のことを指して言ったように世間一般では認識されている。だがここで疑問が生じる。筆者が人間だと決めつけるのでは差別ではないのか、という疑問である。昨今では人工知能の研究も進み、質問などを投げかけてコンピューターに文章を作らせるのは容易なこととなっている。またチンパンジーなどの類人猿は簡単な作文能力があるのだ。上記の文はチンパンジーが作文した文かもしれない。これらの存在を無視し、「私=人間」という社会通念が広く浸透している言葉を用いるのは差別であろう。「人間に限らない自我」が正しい。
- 「協定世界時21時~24時」
協定世界時21時~24時が朝だと決めつけるのは差別である。夜勤明けの人や、いつまでも寝ていたい大学生にとって、日本時間6~9時は朝ではない。筆者が夜勤明けの人である可能性も考慮しなければならない。「筆者が起きて朝だと感じたが、物理的にはその地域で朝ではない可能性がある時間」
- 「母だと筆者が認識している一人の女性」
この文は母=女性だと決めつけている。同性愛が広く認められている昨今の社会の中で、母を女性だと決めつけるのは男性の同性愛者に対する侮辱である。筆者は男性の同性愛者のカップルに育てられている養子かもしれないのだ。さらに「一人の」もおかしい。母は一人ではない人もいるのだ。母が別の女性と一緒に家事をしている家庭かもしれない。よってここでは「母だと筆者が認識している、一人もしくは複数人の女性または男性」に訂正すべきである。
以上を踏まえると、こうなる。
だがこれも大きな問題がある。この文全体の問題として、日本語を使用しているのが大きな問題である。日本語を話せるのは日本人と第二次世界大戦以前の植民地出身の高齢者、あとは若干名の日本語学習者に限られており、日本語がわからない人の方が世界には多い。よって地球上で最も使用者が多い英語を使用すべきである。だが、安易に英語を使用するのにも問題がある。それは英語が世界で通じるのはあくまで人間の住む世界に限られているという点である。この世界で意志をもって作文できる存在は人間だけではない。上で述べた通り、チンパンジーは作文できるほどの知能と意志を持っている。イルカや鯨も超音波を用いて高度なコミュニケーションを行っている。こういったマイノリティを無視するのはポリティカルに正しくない。
では、どう表記すべきだろうか?英語を話す人にも、そうでない人にも、人ではない意志を持った存在にも、同じように公平な表記方法はあるのだろうか?以下はそういった問いに応えるものである。
どうだろうか?上の文を読んで、理解できただろうか?
おそらく理解できた人はいないだろう。それどころか、文があったことすら認識できないであろう。だがそれは、あなたが英語を話せても、英語が話せていなくても、同じように感じたはずである。さらにあなたが視力がない全盲の人であっても、失読症の人であっても、文があったことに気づかないのは同じだろう。また人間が読んでも、チンパンジーが読んでも意味が取れないのは共通である。IQ200の天才でも、そこらへんに生えているコケであっても意味がとれない。すなわち人間であっても、人間でなくても同じように感じる文。これこそが公平であり、政治的に正しい文といえる。
真にポリティカルコレクトネスな文とは、誰にも理解できない文のことなのである。
関連項目[編集]