フリードリヒ・エンゲルス

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顔にモリゾーがしがみついている。
神は死んだ。共産主義者の神マルクスも死んだ。だが、エンゲルスだと?私はお前を知らないし、同じフリードリヒを名乗るとはけしからん!
フリードリヒ・エンゲルス について、フリードリヒ・ニーチェ

フリードリヒ・エンゲルスとは、共産主義の父カール・マルクスの母であり、妻であり、良きパートナーであり、愛人であり、弟であり、妹であり、相談相手であり、介護相手であり、検閲により削除相手であり、漫才の相方であり、心の友でもある共産主義者である。

生涯[編集]

幼年期と青年期 [編集]

1820年ドイツ紡績工場主の子として生まれる。お笑いが嫌いで冗談の効かない父に内心反抗しつつも、従順に幼年期を過ごす。笑いの無い幼年期における唯一の彼の楽しみは、時折営業で地元を訪れるお笑いショーにこっそり出掛けることだった。成長してギムナジウムに入学、そこで彼は文化祭の余興としてクラスメートと行った漫才(彼はツッコミを担当した)に興味を持つ。ギムナジウムで漫才の練習を重ね芸に磨きをかけるも、父は実業家として彼を育てたかったため中退させ家業に就かせた。生家で実業家を目指して働くも、志を捨てきれず志願兵としてベルリンへと向かう。軍務にかこつけて彼はベルリン大学で聴講し、そこでヘーゲル左派の哲学と、当時講師として赴任していた漫才師横山やすしに師事し、大学の他の聴講生と「うなずきトリオ」を結成するなど、漫才に心酔する。

ベルリンに行かせなかったならば、彼は共産主義というファナティズムや漫才という芸の道にのめり込むことなく、またマルクスという毛モジャのペテン師に会うことも無く、ただ単に一資本家として労働者を虐め倒して暴利を得て、それなりに幸せな生涯を終えていただろう、と後年、彼の父は涙ながらに語ったという。

マルクスとの出会い[編集]

彼はその後資本主義者の巣窟であるイギリスへ単身赴任した。彼自身資本家として労働者を虐める傍ら、『イギリスにおける労働者階級の実態(ラーゲ)』や、『イギリスにおける労働者階級の体位(ラーゲ)』を著す。このとき生涯のパートナーであるマルクスに出会った。彼らの仲は始めぎこちないものであったが、趣味が同じで、しかもボケ(マルクス)とツッコミ(エンゲルス)の合性もあったために話が盛り上がり、その仲は次第に綿密なものへとなっていった。経済嫌いだったマルクスを経済学や三段オチに目を向けさせたのはエンゲルスだった。

その後エンゲルスは以前に加入していたうなずきトリオを脱退、マルクスに合流し二人は行動を共にする。イギリスからフランスへ、フランスから追い出されたのでベルギーへ、ドイツへと、ヨーロッパの各地を転々と巡業していたが結局イギリスへ舞い戻る。宿が相部屋だったこともあって、その間に二人の仲がより一層強固なものになったことは言うまでも無い。諸国を転々とする間に漫才ネタ『共産党宣言』を共著し、資本家でありながら労働者に団結を呼びかけた。この著作(パンフレット)はその大半をマルクスが執筆したようだが、ところどころではエンゲルスがツッコんだ。イギリスでは彼はビジネスマンとしてうまいぐあいに働き、無職であったり作家であったりの不規則な生活のマルクスを誠心誠意支えたという。その時にはもはや二人の仲は揺るぎの無いものになっていたといえるだろう。ある人はその仲を「二人の人間が、一人の人間となった」と例えているとも言われている。彼がいなければ共産主義も闇に埋もれたままで済んだだろうとも指摘する資本主義者もいるそうである。

ちなみに、うまぐあいに働いたビジネスの一つに軍事評論家がある。的確な分析能力は、マルクスが「マンチェスターの将軍」と絶賛するのみならず、ジャーナリズムの世界でも高く評価され、イギリスの軍オタも崇拝……要するに、「イギリスのエバケン」だったのだ。それらの小論文は、エンゲルスのネタ帳が遺稿全集みたいな堅苦しい形で活字化された際に、彼が真面目な文章も書けたことを誇示するために収録された。特に、19世紀に英国がアフガニスタンに介入して起こった一連の戦争に際して、狂信的なイスラム教徒の存在や軍閥化が起こりやすい社会的な条件などについて詳細な分析を繰り広げて「アフガンは放置」と提言。当時の英国のみならず、アフガンに介入する後世の大国も苦戦するだろうことも、いち早く予見し、警鐘を鳴らしていた。だが、このことは忘れさられ、1980年代にソ連のアフガン介入が悪戦苦闘状態になるなか、たまたま、あるソ連軍人がエンゲルスのネタ帳をペラペラとめくっている時に「発見」。ソ連の心の父とも言うべき彼の分析に、最も進んだ共産主義者であるソ連軍人の誰一人として気づいていなかったことが極めて遺憾な問題とされ、ソ連軍の政治部及び情報部局内では粛正の嵐が吹きまくり、大量の政治将校と情報将校が解任された。

マルクスの死後[編集]

1883年、マルクスが没する。最も大切なパートナーを亡くした彼が嘆き悲しんだであろうことは想像に難くない。それ以後は右手が唯一無二のパートナーとなって彼を慰めた。彼はその後の生涯をマルクスが書き散らしボケまくった思い出いっぱいの大ネタ『資本論』第2・3巻の草稿を整理・加筆(ツッコミ)してあの頃を偲び、ぴーしつつ、出版することに捧げた。また、素人芸人のオーディション番組の審査員を行うなど、漫才の後進の発掘・育成にも力を入れた。

1895年8月、ロンドンにて死去。遺言によって遺灰はNGK(ニュルンベルクグランド花月、ドイツ上方演芸の殿堂)の地下に埋められた。

受賞歴("マルクス・エンゲルス"として)[編集]

  • 今宮こどもえびす新人漫才コンクール福笑い大賞
  • 上方(=高地ドイツ)演芸大賞新人賞
  • NHK上方漫才コンテスト優秀賞
  • M-1グランプリ準優勝
  • 花王名人大賞審査員特別賞
  • 上方お笑い大賞奨励賞

関連項目[編集]

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