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ハンス・ウルリッヒ・ルーデル

出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
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満面の笑みを浮かべるルーデル閣下

称号

  • スツーカ大佐
  • ソ連人民最大の敵(スターリン公認)
  • スツーカの悪魔
  • アンサイクロペディアに嘘を書かせなかった男
  • 空の魔王
「自分を見放したらそれこそ負けなのだ!」
ハンス・ウルリッヒ・ルーデル

ハンス・ウルリッヒ・ルーデルHans-Ulrich Rudel1916年7月2日 - 1982年12月18日)は、第二次世界大戦の際に活躍したドイツ軍人。航空機パイロット。

朝起きて牛乳飲んで朝飯食って牛乳飲んで体操して出撃して昼飯食って牛乳飲んで出撃して晩飯食って牛乳飲んで出撃してシャワー浴びて寝るという毎日を送っていたら、何時の間にか戦車519両を撃破し、世界最強の戦車撃破王になっていた。

航空機も9機撃墜しており、爆撃機パイロットの分際でれっきとしたエースである。かつ30回撃墜されているので被撃墜王でもある。間違いなく彼のスコアは世界記録であり今後絶対に更新されることはないだろう。むしろ更新されたら困る。

総合戦績[編集]

  • 出撃回数2530
  • 被撃墜回数30回(全て対空砲による)
  • 戦闘による負傷5
  • ソ連軍によってかけられた賞金10万ルーブル
1940年当時のソ連の労働者の平均年収は600ルーブルほど。600ルーブル=400万円と換算すれば・・・6.7億円 !

戦果[編集]

主な搭乗機[編集]

  • Ju 87スツーカ
  • フォッケウルフ Fw190
  • メッサーシュミット Me110
注:アンサイクロペディアは、嘘と出鱈目にまみれています。
以上の文章も嘘や出鱈目である可能性が高いです。以下の文章だって嘘や出鱈目である可能性が高いんです。
……と、言いたい所ですが、アンサイクロペディアにあるまじき事態なのだが……ルーデルの逸話は全て事実である。なんてこった!

かつてのルーデル[編集]

少年篇[編集]

ルーデルが8歳の時のある晩、両親は彼に留守番を押し付けて近所のお祭りに行ってしまった。当然ながら憤慨したルーデルを宥めるため、母親は土産話をはじめた。中でもルーデル少年が物凄い食いついて来る話が、パラシュート降下する男のショーだった。あまりにもしつこく聞いてくるので、母親はルーデル少年に落下傘の玩具を作ってくれた。ルーデル少年は、それで毎日のように遊んでいたが、ついには自ら蝙蝠傘を持って二階からダイヴしてしまった!怪我は無かったが、怒られたのは言うまでも無い。

そしてルーデル少年はこれを境に「飛行機の操縦士になろう!」と決意。空を飛ぶことよりも高い場所から落ちることに魅了されている気もするが……そもそもパラシュート好きが普通目指すのは降下猟兵である。しかし後述の通り、ルーデルの飛行家としての経歴は、降下とは切っても切り離せないものとなる。

青年篇[編集]

20歳になったルーデル青年は、飛行機学校を志した。だが、姉が名門学校に入学してそっちの学費で手一杯の実家に、息子を飛行機学校へ通わせるような余裕は無かった。大人しく諦めて「体操の教師にでもなろうかなー」などとブラブラしていたルーデルだったが……。そこへ幸運にも、戦争に備えていたドイツが空軍を設立し、予備役将校の募集を開始した!合格率1%の難関試験をダメモトで受験したルーデルは何と一発合格を成し遂げ、パイロットとしての道を歩き出す事となった。

ビルトパーク・ウェルター軍学校に入学したルーデルは、当然ながら花形の戦闘機乗りを目指した。しかし、卒業間近に「今年の卒業生は全員スツーカ隊行き」との噂が。しかも実際に、ヘルマン・ゲーリングが「我々は新型機スツーカ(急降下爆撃機)の操縦者を求めている!」と盛大に演説をぶち上げるのを聞いてしまった。それなら仕方ないと渋々ルーデルはスツーカ隊を志願。

ところがいざ配属先が発表されるとルーデル以外全員が戦闘機隊に配属されていた。で、後にルーデルは語る。「噂を信じて馬鹿正直に志願してしまったものだ。しかし最初は嫌々だったが、配属されてスツーカを実際に操縦してみた途端にすぐ、スツーカ隊にいること自体が至上の幸福として感じられるようになった。」 どう見ても天職です。本当にありがとうございました。

魔王誕生篇[編集]

最新型の爆撃機スツーカの扱いにも慣れたころ、ルーデルは不本意にも偵察部隊への転属を命じられてしまう。ポーランドとの戦争で偵察部隊として初陣を飾り、見事二級鉄十字章を獲得するも、ルーデルはスツーカ隊への帰還を希望していた。この頃、高高度偵察に適したパイロットを選抜する身体検査があった。ここで落ちればスツーカ隊に戻れると期待したルーデルではあったが、ここで早速彼ならではの不死身っぷりを発揮し、「異常高度に耐えうる」と合格判定を貰ってしまう(この能力は戦後いかんなく発揮される)。

1940年、ドイツフランスに宣戦布告すると共にルーデルはスツーカ隊へと帰還するが、上司との折り合いが悪いルーデルは「暇さえあれば牛乳を飲んで体操している変人」として皆が出撃しているのに、いつも居残りを食らっていた。その頃の気持ちについてルーデルは「出撃命令でエンジンが唸り出すたびに、拳を耳につめこみたくなる。スツーカ隊は、クレタで歴史を作っている。そう思って、私は口惜しさに男泣きに泣いた」と語る。出撃出来ないのが何より辛いのは、この頃に原因があるらしい。

しかしついに運命の刻は訪れた!1941年6月22日午前四時、ラジオで独ソ戦の開始を聞いたルーデルは、矢も盾もたまらず宿舎を飛び出して故障機格納庫へ向かうと、修理の完了した機体を受領。その足で司令部から許可をもらい、一目散に出撃!その後ルーデルは淡々と爆撃し続け、一ヶ月後には一級鉄十字勲章を獲得。空の魔王が誕生した瞬間であった。

ある日のルーデル[編集]

対戦艦篇[編集]

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部隊最年少のシャルノブスキー伍長を後部座席に乗せて出撃したルーデルは、ソ連の戦艦マラートへと急降下爆撃を敢行、見事に命中。しかし相手は戦艦であり損害は軽微。結局逃げられてしまう。

その5日後、対戦艦用の1t爆弾が到着。これを備えて出撃したルーデルは戦艦マラートに対して再び急降下爆撃!シャルノブスキーの「戦艦が炎上しております!」の叫びで、自分が見事マラートを爆発切断炎上させた事を知る。1t爆弾は、効力半径が3000フィートに達するため、それ以上の高さから投下しないといけないのだが、ルーデルはわずか900フィート付近で爆弾を投下、ダイブブレーキなしで直角で急降下という記述がある。…誤訳か何かと信じたい。

無事に帰還したスツーカ隊に下った新たな命令は「再出撃して巡洋艦キーロフを破壊せよ!」という無茶なもの。勿論ルーデルは喜んで出撃しようとしたのだが、師匠である部隊長ステーン大尉の機体が故障したため、乗機を貸す事に。シャルノブスキーも後方機銃手として同乗し、ルーデルは居残りとなった。しかし……帰還してきた部隊の中に、ステーン大尉の機体は無かった。キーロフからの対空砲火で操縦不能に陥った大尉は、敵艦へと特攻したのだという。ルーデルは恩師と友人と乗機をいっぺんに失ってしまったのだ。

  • その後、戦艦オクチャブリスカヤ・レヴォリューツィヤ(ガングート)を攻撃、ルーデル機のものを含め3~6発命中するも、惜しくも全部不発で撃沈には至らなかった。
  • ここでの戦果をまとめると、戦艦1隻・駆逐艦1隻撃沈、さらに戦艦1隻共同撃退。これが3ヶ月目の新人の戦果である。
  • なお、その後のルーデルに敵艦撃沈の戦果が絶えてしまったのは、沈める敵艦が存在しなかったからである。

部下救助篇[編集]

ルーデルと2番目の相棒ヘンシェル。

ルーデルは少なくとも4回敵地強行着陸を試みているが、そのうちもっとも有名な件を紹介する。

  • 部下の乗ったスツーカが被弾して不時着した為、彼らを救うべくルーデルも着陸した。不時着した部下二人とは首尾よく合流出来たものの、いざ飛び立とうと滑走したらスツーカが不整地で横転する。4人は敵地に取り残されてしまった。一番近い味方の陣地までは約40km。機銃手のヘンシェルが「ソ連に捕まるくらいなら川に飛び込もうよ!」と言うので幅600ヤード(約548m)、水温3~4℃の河を泳いで渡る。ルーデルと部下二人はどうにか泳ぎきったものの、言い出しっぺのヘンシェルが真っ先に沈む。慌ててルーデルが再び河に飛び込んだが、助ける事は出来なかった。ヘンシェールッ!!
  • 味方のルーマニア兵かと思って話しかけたらソ連兵だった!だが、SMGの銃撃を肩に一発食らった以外はかわすも、ここで救出した部下二人ともはぐれ、そのまま逃走する羽目に。軍用犬まで使った数百人体制での捜索が始まるが、何とか回避。 「それにしても勘のにぶい軍用犬だ」
  • 夜になり民家を発見したルーデル。窓から侵入しようとしたら、住人に見つかって怒られてしまう。謝ってドアから入りなおしたルーデルは、住人の老夫婦と意気投合。同じベッドで川の字に就寝し、次の日に礼を述べて立ち去った。
  • その後、約40kmを二日で踏破して味方陣地にたどり着く。全身負傷、服はぼろぼろ、泥まみれ血まみれのルーデルは、最初味方兵士にすらドイツ軍士官だと信じて貰えず、騎士鉄十字章を示してようやくルーデル本人であると確認が取れた後、お偉方からすぐさま帰還し入院せよとの命令が下った。
  • 無論速攻で無視した。理由は「帰国する気持ちになれない」。それもそのはず、イワンどもが調子こいてラジオで「ルーデルを捕らえた」とプロパガンダを垂れ流しまくり、多くの死線を共に潜り抜けた戦友ヘンシェルまで喪っていたことも相まったのか、ルーデルはマジギレしたという。
  • この事件が元で、のちにルーデルには「味方飛行場以外での着陸を禁ずる」という前代未聞の命令が下された。そのため、1944年夏に撃墜され不時着した副官のヘルムート・フィッケル少尉とその相棒を救出した時には、降下→そのまま地表を滑走→救助、乗載→再離陸、という流れで、一応「着陸はする事無く」救助を達成している。ルーデル本人は「地上で停止しなきゃ着陸にならない。うまくトンチで出し抜いてやった」と自賛していた事であろうが、勿論これは敵地着陸など比較にならない程危険な変態機動であった事は言うまでもない。

ヘンシェルの仇討ち篇[編集]

  • 翌々日、中隊はルーマニアのヤッシーへ移動。その際ルーデルの為にと、ワザワザ後方から軍医が派遣されてきたが、これを無視して前線へ。彼曰く、「肩の傷など問題とせず、私は敵攻撃に向かうつもりだ」…でも、まともに歩けないほどボロボロの状態で、新しい相棒のロースマンにスツーカのコックピットまで担いで行ってもらっている。
  • しかもヤッシーに着いて早々(帰還から2、3日後)、上記の状態でバルチにいた強力な敵機甲部隊を爆撃・殲滅。2日間の合計で100両超の敵戦車の内26台を破壊。ルーデル一人で実に四分の一以上を撃破した計算になる。
    • その際の言葉。「最後の出撃のときは、目を皿のようにしなければならなかった」 、「どこにも戦車の姿は見えない」 、翌朝の明け方の偵察では、「すべてが静かに、まるで死んだように見える」

新型戦車篇[編集]

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  • ブダペストにて新型のソ連軍戦車らしき物を発見したが「イワンめ、また新型を作りおったか」とぼやきながら即座に始末した。ルーデルによればこの日はイワンにとって最悪の日であったそうだが、そもそもルーデルの出撃した日は全て該当しそうな気もする。
  • で、この時破壊した新型戦車の残骸を確認しようと舞い戻ったら高射砲の攻撃を受け被弾。ルーデル自身も負傷し、なんかこう始めは左足が刺すように痛かったのだが、段々と恍惚感に変わってきたそうである。ルーデルが「ブダペストまで持つかな?」と言ったのに対して、新たな相棒ガーデルマンは「大丈夫ですよ」とさらりと返した。この時点でガーデルマンもだいぶ染まってきていたようだ。
  • 更に医者の診断では「退院まで6週間かかる」と言われたが、入院8日目にソ連軍が迫りつつある事を知るやいなや「よし行こう! すぐ退院だ!」と元気よく病院を飛び出してしまった。ちなみにそれを見送った医者は力無く首を振っていたそうな……。

総統閣下の勲章篇[編集]

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  • そうしてソ連戦車のスクラップを積み重ねたルーデルに対してアドルフ・ヒトラーも次々に勲章を贈与していたのだが、戦果が余りにも凄すぎた故にとうとう彼に見合う勲章が尽きてしまった。そこで遂にルーデルの為だけに新たに黄金柏葉剣ダイヤモンド付き騎士鉄十字勲章なる勲章が作られ、これを受け取った。
  • そんなルーデルが戦死する事を恐れたのか、ヒトラーは再三にわたって「君を前にして面と向かっては言いにくいが、もうこれ以上は飛ぶな」と言っていたのだが、悉く拒否。前述の勲章を授与された際「もう二度と私に地上勤務をしろと言わないのならば、その勲章を受け取りましょう」と言い放ったという。だが懲りない総統閣下は再び飛行禁止に処するも、これまた懲りないルーデルはこっそりと出撃を繰り返す。
  • ……ところが幾ら粉飾しようとも無断出撃は隠し通せなかった。後にルーデルが語るところ、ルーデルの飛行禁止と同時に誰がスクラップにしたかわからないソ連戦車が急増したため。
  • なお黄金柏葉剣ダイヤモンド付き騎士鉄十字勲章は、ルーデルに続く新たなる英雄が現れることを願い、円卓の騎士とか使徒とかに準えて合計12個作られたのだが、結局他に受賞した者はいない。何せ、敵機350機撃墜の黒い悪魔やら敵戦車140輌撃破のヴィレル・ボカージュの虎戦車乗りやら40隻・30万トン撃沈のUボートエースといった世界水準で見れば立派な人外ズどもでも、ルーデルに比べれば落ちるとして受賞を逃しているのである。というか、ルーデルみたいなのが他に11人もいたらドイツが勝ってた。

大砲鳥初陣篇[編集]

  • 1943年7月、ルーデルは37mm砲2門(1門12発、左右合計24発搭載)を搭載した試作Ju87G型で、対戦車攻撃を行うことになった。目的は試作テストなのだが、時期が時期だけに実戦訓練という形になった。
  • しかしこの機体、37mm砲の凄まじい反動で、撃てば減速し二門同時に撃たないとバランスを崩す、というトンデモな代物。自ら火力増大を望んでいたはずのルーデルが「操縦が恐ろしく難しい機体」と弱音を吐いている。さすがのルーデルも、今回ばかりは無茶が過ぎたようだ……。
  • と思ったら、攻撃を受けたソ連兵によれば、「対戦車砲のついたスツーカがものの数分で12両のT-34 をスクラップにしやがった!」そしてその少し前にもこの機体で上陸用船艇70隻を一挙に撃沈(後述の無双篇)したり敵航空機を粉砕。言ってる事とやってる事が違うじゃねえか!
  • とまあ対地攻撃で無敵ぶりを発揮。タンク・キラーとして恐れられる、カノーネンフォーゲルの産声である。
  • だがしかし、ルーデル以外にこの機体で活躍した奴の噂を聞かない時点で、なんというかお察しな機体でもある。

無双篇[編集]

  • 「偵察機の確かめたところでは、アチタリの付近とエイスク港には、小舟の集団があり、スツーカ隊にとって絶好の獲物である」というニュースが入った。かくしてルーデルの編隊は湖沼地帯を進軍中の敵2個師団(1個師団=最低6,000人)を叩き潰すことになった。一騎当千とかいう次元すら超えている。50kmの距離を進軍する無動力のボートの群れに対して重爆撃を加えまくったルーデル。小舟のほうもそれなりに頑張って隠れようとするが、的が多すぎてルーデルはあまり気にならなかったようだ。ここまでくるともはや一方的な虐殺だが、「仕事が暇になったわけではない」とルーデルは回想している。
  • 散々な目にあったソ連軍は、ルーデルにだけで少なくとも70艘撃沈されるなどの大損害。どんな損害を被ろうが圧倒的な物量攻めで押し通す事で知られるあのソ連軍が、この時ばかりは被害の大きさに耐えかねてまさかの撤退を強いられる羽目になった。

エースパイロット撃墜篇[編集]

  • レフ・シェスタコフという65機撃墜のソ連でも有数のエースパイロットがいた。彼は、エースとエースの一騎打ちを挑むことを夢見て、1944年に入ったころからずっと派手な塗装で知られていたルーデル機を狙い続けていた。
  • そして3月13日、ついにその機会が訪れ、彼はこの日ルーデル機と思しき1機のスツーカを撃墜!だが気の毒なことに彼が撃墜したのはルーデルの副官ヘルムート・フィッケル少尉の機体であった。そして次の瞬間シェスタコフ自身も撃墜されたが、彼を仕留めたのがどうやらルーデルらしい……
  • 戦闘機爆撃機では機体の性能差が有り過ぎだろ」とか「戦闘機対スツーカで一騎討ちって何かおかしいだろう」とかツッコミたいことは山ほどあるが、「シェスタコフ機はルーデルに撃墜された」との資料は実在する
機関銃で撃墜したのだろうか、あるいは高速の旋回による物すごい圧力で翼桁が砕けて墜落したのだろうか。首にかけた受話器で、すさまじい騒音を聞いた。ソ連兵の叫び声も。ソ連軍に何が起きたのかを考えたが、それはとても重大なことではないかと思えた。夕方のラジオのメッセージで、あのラグの操縦者はソビエトの英雄と謳われた殊勲将校であったと知る。私は保証する。彼は優秀なパイロットであったと。
レフ・シェスタコフ について、ルーデル

敵編隊迎撃篇[編集]

  • 2100回出撃を達成した頃、ポーランドのミーレックにあったルーデルの基地は、地中海方面から来襲した米軍機の大編隊に襲われた。ドイツ側の被害は大きかったのだが――「我々スツーカ隊はただちに追撃、これに壊滅的損傷を与えた」
  • 何度読み返しても彼の戦記の該当ページには300機の編隊に壊滅的損傷を与えたと書いてあるのだが…いくら何でも鈍足のスツーカでB-17迎撃は不可能だ。我々アンサイクロペディアンも、そこまで荒唐無稽な嘘はつけん!
  • そんな訳で、ウィキペディアンの真似をして真面目に調べてみると、どうやら攻撃終了後の米軍機がソ連軍基地に着陸した所を爆撃しての戦果であると思われる。B17米軍重爆撃機がいくら長大な航続距離を誇るとはいえ、ここまで長距離を飛んで無着陸でUターンしての帰還は不可能だ。ああなるほど、これなら納得できる。
  • ……んな訳ゃねぇだろ!!B-17・300機に攻撃されたら、小規模な都市は壊滅だぞ!そんな爆撃食らった直後に反撃・殲滅するなんてこいつやっぱり人間じゃないんじゃないか?

負傷篇[編集]

  • ルーデルは休暇中も書類を偽造して出撃し、病院送りになっても病室を抜け出してまで出撃し、ソ連戦車部隊に急降下爆撃を仕掛け続けたという。
  • そして例によって例の如く対空砲によって撃墜され、後席に座っていたガーデルマン共々重傷を負ったルーデル。ところが彼は歩いて陣地へと復帰。先に救出され肋骨3本骨折の治療を受けていたガーデルマンを見つけるや否や「休んでいる暇はないぞガーデルマン、出撃だ!!」と彼を引っ張って戦場に向かい、撃墜されてから数時間後(被撃墜-救出-帰還までの4時間を含め)には恨めしい高射砲を思う存分破壊した。
  • 実はこの時の攻撃で、「機体が攻撃を受けてバラバラになり、後部座席にいたガーデルマンが遥か前方に投げ出された」とルーデルは回想している。そんな相棒を引っ張って戦場に出ていくのだから、全く素晴らしい根性というべきか、イカレているというべきか……。
  • ところが、さしものルーデルも本当に死にかけたことがある。1945年2月8日、飛行中に敵の対空砲で撃たれ右足が吹っ飛んでしまったのだ。後席のガーデルマンに「足が無くなった」と言ったら「何言ってんですか。足が吹っ飛んだら話なんかしていられませんよ。そんな事より左翼が燃えてます。不時着しましょう」と返された。なのでそのまま不時着した。
  • 当然、魔王ルーデルといえども病院送りになったのだが、見舞い客が訪れると珍しく泣いている。流石に片足になったら辛いのだろうと友人たちが慰めの言葉をかけると「もう二度と高飛びも出来ないしスキーもできないが、まだ一本残っているから脚のことはどうでもいい。この祖国の危機にイワンどもの戦車をしばらく撃破出来ないのが悔しい」という事だった。そして実際に六週間後、鋼鉄製義足を装着して復帰した。その後、入院していることになっていたルーデルは書類を偽造して出撃し、やっぱり相変わらずソ連戦車部隊に急降下爆撃を仕掛け続けたという。

総統閣下の信頼篇[編集]

  • 1945年を迎えると、戦局はとうとう絶望的になり、ドイツ軍が逆転する望みは完全に断たれた。そんな状況にあって、ヒトラーが信頼するのはただひとり、ルーデルであった。
  • 大戦末期の1945年4月14日、ヒトラーは「全ジェット部隊の指揮を取ってくれ」とルーデルに頼み込むが、ルーデルは断固拒否。「ジェット機とか良く知らないんで」とか言ったそうだが、言い訳はバレバレ。要は後方で指揮するより、自分で出撃したいのである。
  • さらにヒトラーは、自殺するわずか3日前にもルーデルを召喚しているのだが、「そんな事をされたら一大事」と、ソ連軍が一足先にルーデルの着陸場所として指定されたベルリン市内の場所をルーデルに脅えながらも占拠して阻止した。もしこの時のルーデル召喚が実現していれば、歴史も大幅に変わったかも……。

投降篇[編集]

  • ついにドイツが無条件降伏した事を知ったルーデルは、連合軍に降伏する事を決意する。しかしその途中、ソ連機に遭遇。「昨日と今日で、そう急に変わってたまるものか」と言って撃墜した。いや、あの、無条件降伏……
  • 連合軍に捕虜として投降したルーデル。しかし無礼な連合軍兵士が無言で勲章を奪おうと掴みかかったため、ピストルを突きつけられた瞬間に鉄拳教育。そして士官が来るまで、操縦席に引き籠って待機。流石に他の兵士も手出しは出来なかった様だ。で、やって来た士官に連れられて捕虜の待機室に行ったところ、他のドイツ兵士達もルーデルの事を知っていたので、全員から敬礼で迎えられる。それを見た連合軍士官から「ドイツ式の敬礼はやめてくれないか? あと、英語が話せたら英語で頼む」と注文をつけられ、対するルーデル、表情一つ変えずに口を開いた。
  • 「私は習った通りに敬礼をしているだけだ、改める気はない。そしてここはドイツだ。頼まれたってドイツ語以外は喋りたくないね。そもそもドイツ空軍は空の戦いで敗れてなどいない。ただ圧倒的な物量によって押し潰されただけだ。バイエルンに着陸した理由は単にソ連占領地域を避けたに過ぎない」そして唖然とする米軍士官に「……ま、そんなことはどうでもよろしい。シャワーと食事を頼む」と要求。あんた命が惜しくないのか。
  • 幸い(?)連合軍は心が広かったらしく、一応の敬意をもって遇されたようだ。
  • その後、両足義足の英軍撃墜王ダグラス・バーダー大佐と会見。前線で突貫で作られた間に合わせの義足で我慢しているルーデルの為に、わざわざロンドンから義足屋を呼び、無償で新しい義足を提供。また彼がソ連の捕虜にならないよう全力で支援をしてくれたという。類は友を呼ぶとはこのことではないだろうか。

その後のルーデル[編集]

尋問篇[編集]

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  • 投降したルーデルは連合軍から様々な尋問を受けるのだが、最もしつこく質問されたのは彼の乗機にはどんなカスタムが施されていたかについてだった。ルーデルは高射砲に落とされた事はあっても戦闘機に撃墜された事は皆無だから、回避性能を増す為にさぞかし凄まじい改造をしたに違いないと想像する連合軍将校に、ルーデルは自信満々に「戦車の装甲をぶち抜けるよう、37mm対戦車砲を外付けしてもらった」と答えた。
  • もともと低性能なのに対戦車砲搭載でさらに鈍重化…そんなんでは敵戦闘機に狙われて生き延びられるわけが無いと指摘する連合軍将校。
  • 「そんなに不思議なのかね? 私にはこれという秘訣は無かったのだが……」
  • 人外の所業は凄過ぎて一般人の参考にならないの一例である。

収容所篇[編集]

  • 他にもドイツの行っていた強制収容所について聞かれたルーデル。そして回答は全然知らない
  • しかし付け加えて…「だが、戦争の常だ、多少のことはやむを得まい。いつの時代、どこの国でも悲惨なことは起こり得る。君たち紳士がもしこのような写真に関心を払うなら、東の方に行ってみるがいい。写真ではない実物が、現に東方の蛮族の手によって行われているのだ」
  • これにムッとした連合軍将校は「典型的なナチ将校だな」と吐き捨てたが、「真実を真実として告げるのが、なぜ典型的なのだろう。それが、どうして非難の口ぶりで語られねばならないのか」、とルーデルも怒りを露にしている(しかしルーデルはソ連大嫌いだから、彼の言う"真実”は偏見混じりだというのが定説)。
  • ルーデルの勲章を見た英国老大尉が「この勲章の為に何人死んだのか……」と呟いたので「ソ連で稼いだものだよ」と教えると、一転して上機嫌になった。このあたりイギリス人は良くわかっていらっしゃる。

戦後のルーデル[編集]

余生篇[編集]

仲睦まじいルーデル夫妻。間に出来た子供の一人は砲丸投げの選手をやっていると言う。
  • 終戦後は南米に脱出。独裁者と友人になったりしながら実業家として過ごし、28歳年下(結婚当時21歳)の嫁さんを貰った。
  • 未だ各地で戦犯として拘束されている戦友を救出し、或いは逃走を続けているアドルフ・アイヒマンヨーゼフ・メンゲレをはじめとする彼らへの支援を行うべく『ルデル・クラブ』を結成。まっとうなドイツ軍人支援組織だったものの、欧米で執筆された多くの冒険小説では「ナチス残党が結成した謎の秘密結社」扱いであり、更にルーデルはその恐るべき首領扱いだったが、誰も気にしない
  • また義足でありながらテニスや登山にも精を出す。アンデス山脈の最高峰の一つ、ユヤイヤコ(6,900m)にも挑むが、その際に友人であるノイベルトが滑落し、死亡。一旦下山して死体を捜索、発見したルーデルは、唖然とするガイドたちをよそに友人の亡骸を担いで再度山を登り始めた。で、数時間後に帰還しての第一声が「これからノイベルトはずっと、この山の頂で眠るんだ」……友人思いではあったらしい。

弟子たちの活躍篇[編集]

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  • アルゼンチン空軍の設立にも協力。その教え子たちはルーデルの薫陶によりフォークランド紛争の際に大活躍。イギリス海軍の艦艇をガンガン沈めまくった。
  • それでも結局アルゼンチンは負けたじゃねえかというツッコミがあるかもしれないが、その責任の大半は「開戦時に対艦ミサイル:エクゾゼを5発しか調達できなかった軍上層部」「頑張っている空軍を尻目に制海権を確保しようともしない海軍」「爆弾の整備をおざなりにして不発弾ばかりにしてしまった整備兵」にある。
  • しかし魔王の薫陶を受けたこのときのアルゼンチン空軍の対艦攻撃は、イギリス人をして「主翼でマストのアンテナを切りそうな(低高度を飛んでくる)」と言わしめている。超音速ジェット機で、しかも地形追従レーダーも無い状態で、まともなパイロットならこんな低空飛行が出来る訳が無い!

A-10篇[編集]

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  • そしてフェアチャイルド社に頼まれてA-10神の開発に尽力。

A-10開発時のルーデル様のお言葉

  • 操縦性に癖あったら殺す
  • 機銃の一発や二発で動かなくなるようなヤワい機体はお断り
  • 弾と燃料一杯つめて長く戦えるようにしておくように
  • 火器管制とかぶっ壊れても手動で撃てるように
  • 墜落時のために飲料水と浄水器も多く搭載すること
  • いざという時に軟着陸できるように手動で脚下ろせるように
  • 片翼がたとえ取れてしまっても安全に着陸できること

結果としてA-10は「速度は遅いがローコストで何発撃たれても落ちず戦車を一発で吹っ飛ばせる」代物になり、湾岸戦争で歩兵からは大絶賛!ルーデルの対地攻撃思想が現代戦でも通用する事を証明した。誕生から30年近く経つにも関わらず、未だ現役。現在も「戦闘ヘリより安く、戦闘機より対地攻撃に強い」A-10に代わる機体は存在しない。さらに2016年には前代未聞の無期限契約延長決定!ここにルーデルDNAは永遠に語り継がれることとなった。

  • それはそうと、A-10のコンセプトはスツーカというよりもライバルのシュトゥルモビクの生き写しだったりする。自分の理想を追求した結果が、アカの機体と瓜二つだったという皮肉な事実に対して、ルーデル自身のコメントは無い。

スキャンダル篇[編集]

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  • ルーデルは『急降下爆撃』を始めとする自伝を執筆。「ローマ教会が脱出に手を貸してくれて助かった」だの「ナチスの戦争は正しかった」だのと空気を読まない発言を繰り返し、色々な人の肝を冷やさせた。のみならずドイツ軍に招かれて公演を行った際、上記の事を堂々と力説。
  • ところがルーデルを招待した二人の空軍将校カール・ハンツ・フランケヴァルター・クルピンスキー大喜びで記念写真を撮ったり、本にサインして貰った挙句、手放しでルーデルを褒め称えた。
  • 曰く「アカの手先としてモスクワで働いてた共産党員のヘルベルト・ヴェーナーに比べてルーデルさんは素晴らしい!」「なにせ彼は銀の食器一つ盗んでいないのだから!!」
  • で、当然の結果ながら、ルーデルを招いた責任を取る為、二人は退役に追い込まれた。
  • さらに軍人を退役に追い込んだ国防大臣も、これは不当人事だとして辞任に追い込まれた。

一方のルーデルは知らん顔でモロッコヨーグルを箱買いしていたとさ

葬式篇[編集]

  • 1982年死去。ルーデルの葬式の際、禁止されているにも関わらず参列する西ドイツ軍人に、西ドイツ空軍機2機が追悼飛行を行い、ナチス式の敬礼をする元軍人やら、元ナチス党員やら、ネオナチやらが参列し、戦時中の国歌やら軍歌やらが盛大に流され、またまた大問題に発展する。
  • 「あれは単なる訓練飛行である。下で誰かが葬式をしていた? 知らんよ」
  • ただしルーデルは未だ生存している…という説がマジで存在する。トンデモ説のひとつとして斬り捨てたい所だが、何せルーデルの正確な墓所は秘密事項とされているため、無碍に否定できない所がある。
この記事にはユーモアが不足しています。治療には十分な栄養と日光愛情DHMOが必要です。
ユーモアの摂取方法にも十分気をつけましょう。

……とはいうものの、こんな嘘くさい事実に対して、これ以上嘘を加える事なんて不可能だよ!
ルーデル伝説、まだまだ続くよ!

その他のルーデル[編集]

日本で大人気篇[編集]

Bouncywikilogo.gif
  • アレのドイツ語版よりも英語版のほうが記事が充実しているのはまだ理解できるが、日本語版のほうが圧倒的に分量が多いのはどう考えてもおかしい。
  • あまりにもチートなルーデルを語るときには、ウィキペディアンはおろかアンサイクロぺディアンまでも真面目にページを書く羽目になってしまった。
  • ドイツでは2005年にルーデル個人の写真集まで出版されている。祖国でも大人気である。

ルーデルのスコアは大嘘です!!![編集]

エースパイロットの「公式戦果」なるものは、多くの場合正確でない。本人や仲間が撃墜数を過大に報告したり、司令部が戦意高揚のためエースの活躍を誇張して宣伝したりするからである。例えば史上最大の撃墜王であるハルトマンも、実は疑わしいスコアがかなり多かったりする。

ルーデルの「戦果」もまた、正確性に欠けている。なぜなら彼は前述のように病院を脱走して前線にまぎれ込み、誰が壊したのかわからない戦車を大量生産したり、同僚や部下が休暇をもらえるようマイレージの如く自分のスコアを譲ってあげたり、逆に指揮官に任命されたあとも自身が戦場に留まり続けるために自分のスコアを過小に報告するなど、何度も粉飾を繰り返していたからだ。だから公式戦果を鵜呑みにしてはならない。

というわけで、上のルーデルの公式戦果大嘘です!!!デタラメです!!!状況や人々の証言から未公開の戦果をあわせてより信憑性の高い数を挙げれば――

  • 撃墜数:11機。うち5機は37mm砲により消滅。
  • 戦車:1150輌以上
  • 装甲車・トラック:1090台以上
  • 火砲(100mm口径以上)195門以上
  • 装甲列車:8両以上

……あれ?  増えた?

注:アンサイクロペディアは、嘘と出鱈目にまみれています。
以上の文章も嘘や出鱈目である可能性が高いです。

…と、言いたい所ですが……これでもまだ、控えめな予想です。

……もう駄目だこいつ、存在自体がギャグだ

栄光ある後部機銃手たち[編集]

初代:アルフレッド・シャルノブスキー(Alfred Scharnowski)
戦艦マラート撃沈時の後席。部隊最年少。
その後の戦艦キーロフ攻撃では、ルーデルの恩師・ステーン大尉の後席となり、大尉と共にキーロフに特攻して戦死。
当時のルーデルはまだ新米で未熟だったため、取り乱しがちな彼を冷静沈着なシャルノブスキーが支えていた。
結果、戦死したシャルノブスキーのクソ度胸は、見事にルーデルに受け継がれることとなった。
という訳でルーデルも最初から空の魔王だった訳でなく、先輩や同僚に鍛えられた結果なのである…のは事実だ。が、ただそれだけという生易しいものではない事は、その後のルーデルの戦果が示している。
むしろステーン大尉ともども、この世に魔王を生み出した張本人と形容すべき存在である。
二代目:エルヴィン・ヘンシェル(Erwin Hentschel、1917年10月29日 - 1944年3月20日
騎士十字章授賞。 後方機銃で敵戦闘機撃墜という離れ業も果たしたエース。
ルーデルの後席搭乗員の中で最もキャリアが長い……が、ネタにするような面白い逸話が無いので記事にできない。
その最期については前述の通り。水没。彼の死はルーデルも悔やんだ(が、これはルーデルのせいでもある)。
三代目:ロースマン(Rothmann)
名前は不明。影が薄い。いい奴だが経験不足。当たり前だ。本業は整備士なのだから。
とりあえず人手不足時に近くにいたのが運の尽き。空の魔王にとっ捕まって後席に放り込まれた被害者。
最大の手柄は、負傷して歩けないにも関わらず出撃したがるルーデルを、スツーカまで担いでってあげた事だが....
「この勲章をヘンシェルと一緒に貰えれば良いのだが、今後ろにいるのはロースマンだ」
「この困難な出撃にヘンシェルがいてくれれば良いのだが、今後ろにいるのは(ry」
「口を動かす前に撃て!」
…とか色々と酷いことを言われた挙句、敵機に囲まれて銃弾を浴びる中、「うーん押しつぶされる……」と言い残して精神的に再起不能。整備士に逆戻り。
尤も、こんな状況に平然としてるルーデルの方が異常なのである。
四代目:エルンスト・ガーデルマン(Dr. Med. Ernst Gadermann、1913年12月25日 - 1973年11月26日
相棒ガーデルマン
ルーデル閣下と談笑するガーデルマン(右)
騎士十字章授賞。医学博士。専門分野は心臓・循環器。通称「スツーカ・ドクトル」。
本来は軍医で戦闘要員では無いのだが、着任当時からルーデルとスポーツ好きという点で意気投合。
親友として仲良く一緒に訓練をやっていたら、いつの間にか正規の機銃手になっていた。
おまけに後方機銃手としての抜群な腕前と、素晴らしい医療技術から部隊中で引っ張りだこ。んな訳でルーデル専属という訳でもなかったのだが、ヘンシェルを失って落ち込んでいるルーデルを励ましていたら、いつの間にかルーデルとコンビになっていた。
後部機銃手としてルーデルと一緒に850回以上出撃して騎士十字章を授与された、筋金入りの英雄の一人。前述のエースパイロット撃墜も、実はガーデルマンの戦果という説もある。
ある時は機体が撃墜され、機体が約100mの範囲に四散していて、後ろに座っていたガーデルマンがルーデルの遥か前方に投げ出されていた、といった修羅場をくぐりぬけた。ところがその時、肋骨を三本骨折していたにもかかわらず、「休んでいる暇はないぞガーデルマン、出撃だ!!」とルーデルに引きずられて行き、機体を換えての出撃につき合わされた。
……ロースマンよりよっぽどかわいそうだとも思うが、そのうちに慣れたらしい。
その不死身っぷりはルーデルといい勝負。どう見ても天職です。本当にありがとうございました。
その為、右足を失い出血多量で意識を失いかけるという大ピンチに陥ったルーデルを、的確な応急処置によって救う事も出来た。
その応急処置とは…「脚が無くなったら痛くて喋れるわけないだろう」「気絶している暇があったら操縦桿を引け」と大声で何度もルーデルを叱咤し、今にも気絶しそうなルーデルに何とか飛行を継続させて、帰還させる事であった。どう考えても「休んでいる暇はないぞ」と出撃させられたときの仕返しである。
でもまあ、それでルーデルの命が救われたのは、れっきとした事実。そしてその後は、不時着し燃え盛る機体からルーデルを引っ張り出し、ぶっ飛んだ右足から噴き出す血を止め、世間一般で言う所のまっとうな応急処置も施している。
しかしルーデルが入院中、ちょっと遠出をしてしまったのが運の尽き。戦争末期の混乱で移動もままならず、ルーデルとは終戦まで再会できなかった。片足を失ったルーデルが入院期間を自主的に切り上げて退院するという無茶をやらかすなどとは想定していなかったのである。当たり前だ。誰が想定できるかそんなもん。
戦後は1972年ミュンヘンオリンピックで医学教授陣のチーフを務めるなど、世界的な名医として活躍。
1973年11月26日、ハンブルグでの講演中に心臓発作を起こし、そのまま亡くなった。
尚、最終階級は少佐である。
五代目:エルンスト・ニールマン(Ernst-August Niermann)
もともとは従軍記者として派遣されていたが、ある日突然ルーデルにスカウトされて後方機銃手にさせられた。ルーデル曰く「愉快な男」。先代の医者といい、先々代の整備士といい、素人を機銃手にするあたりルーデルの人を見る眼の鋭さ無茶っぷりは尋常ではない。
と、思いきや、実はすでに何度も出撃を重ねていたベテランであった。しかも米軍機の空襲のまっただ中に、防空壕から飛び出して記録映像を撮影するという並はずれた度胸、もといルーデルに匹敵する無茶っぷりも示している。さらにその記録映像の出来栄えは素晴らしいものだったとか。
ガーデルマンと離れ離れになって以降はルーデルの後席に収まり、最後の出撃にも同行。そしてルーデルらと共に米軍に投降した。捕虜生活も一緒にし、盗まれたルーデルの義足を探したりもしたが「一介の軍事報道員」という事であっさりと釈放された。まあ間違いではないが。
ところが頼まれもしないのに、その後ルーデルとアルゼンチンへ渡るなど、行動を共にし続けている。すっかりルーデルに染められてしまったらしい。まさに「爆撃の友」である。

関連項目[編集]

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銀
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この記事は2008年流行記事大賞にて銀賞を受賞しました。
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