うんたん
うんたんとは
概要[編集]
うんたんは石炭を運ぶだけではなく日本の近代産業の勃興となり、ひいては近代国家日本の繁栄の礎となった。現在でもうんたんは影ながらにして日本の経済、産業界において重要な位置にある。
石炭は植物、樹木、シダ類などの化石である。よく燃えるため燃料に使われてきた。現在も火力発電やセメント工業などに用いられている。特にオイルショック以降石油を使う火力発電所の新規建造が禁止されている関係もあり、石炭火力発電は重要な位置を占めている。かつて輸送の主力であった蒸気機関車は現在でもイベント用として運転され観光産業に貢献している。 石炭を乾留させるとコークスとなる。これは燃やした際の熱量が非常に大きいため、机やジーンズのポケットを留めるのに使われているリベットのなかでも、鉄橋や鉄塔や蒸気機関車のボイラーといった大型のものを接合させるのに使われている。 このコークスは銑鉄を作る際、鉄鉱石から酸素を還元させることにも用いられている。これは大量の炭素を含んでいるが、それを徹底的に取り除けば粗鋼が出来る。それにニッケルやクロムといったものを混ぜ、鉄鋼を作る。これはビルや橋[1]など建築物や、送電線を支持する鉄塔や水道管、ガス菅といった公共インフラ、鉄道の線路や車両など、自動車、船舶、飛行機などの輸送機関、身近なところではジュースや缶詰の缶や、ギター、ベースなどの弦にも使用されている。 コークス生産の廃物であるコールタールは染料や顔料に用いられている。 ジーンズの染料であるインディコや、アスピリンの材料であるアセチルサリチル酸や、防虫剤、染料などの材料であるナフタレンも生成される。 石炭を液化して石油を作り出すことが試みられ、その結果生成されたのが「GTL」と呼ばれる液体であり、自動車の燃料や灯油として利用されている。
石炭はかつて「黒ダイヤ」と呼ばれていたほどに重要な存在であった。 炭鉱で石炭を採掘しても、うんたんをしなければ山奥や離島などに石炭は留め置かれたままであり、炭鉱に石炭は不必要に貯蔵され、消費地には石炭は届かない。つまり石炭を利用するために「うんたん」は必要不可欠なのである。
うんたんの方法[編集]
石炭を採掘する方法として、日本の炭鉱においては「坑内掘り」が大多数であった。ニートを始めた人では全く歯が立たない典型的なきつい、汚い、危険の3K職場である。まず山の中や海の底[2]の坑内で「先山」の役割を果たす人が石炭層を崩して石炭を採掘する。 人力で行われていた当初は ツルハシやドリルで穴を開けた後ダイナマイトを仕込んで発破を掛ける方法で行われていた。経営規模の小さい中小炭鉱はその後も手掘り採炭を続けたものの、戦後は機械化が進み「カッター」という掘削機が使われたほか、大手は「ドラムカッター」と呼ばれる回転式の大型の機械を使って採炭していた。旧ソ連では高圧放水で石炭層を剥ぎ取る技術が開発され、日本においても採掘条件の厳しい坑道で使用された。
採掘された石炭を「後山」がトロッコやベルトコンベアなどで陸上に持ち出す。これが一度目のうんたんであるが、坑道の中という条件からか人目に触れることはほとんどない。このとき火や火花を出すとガスや炭塵(石炭の粉塵)に引火し事故が起きることがある。ダイナマイトを使う際も直接着火することはせず、電気と硝石を用いた特別な点火装置を用いていた。 坑内に漂うメタンガスが原因で起きるガス爆発、メタンや一酸化炭素が噴出するガス突出、石炭の粉塵が原因の坑内火災、海の下で間違えて穴を開ける海水流入など危険な事故も多々ある。大爆発の後ガスが噴出して死者に加え中毒者を多数出す、ガス爆発の遭難者の救助隊が二度目の爆発に遭難して二次災害を引き起こす、海水で坑道ごと潰されて遺体の搬出すら不可能であったなどの悲惨な事例もあった。これらの事故の対策のために坑内に避難用のビニールハウスが設けられたほどである。
坑内の気温は摂氏30度以上、かつ湿度は100パーセントであり、事故が起こりやすい環境と合わせて作業員を苦しめた。水筒を二升持って坑道に入り塩を舐めないと尿が出なくなり、常に酸欠、熱中症、 塵肺など危険と隣り合わせだった。その厳しい作業環境の中を作業員らは石炭を掘り続けたのである。
アメリカ、オーストラリア、中国、北海道や筑豊の一部の炭鉱では地面を削り石炭を採掘する「露天掘り」が主流であり、比較的命の危険には晒されないものの、事故は起こるときには起こることが実情である。
次に運び出した石炭から石など不純物を取り除く。これをせんたん=選炭と言う。そしてホッパーと呼ばれる石炭の貯蔵庫に貯蔵する。このとき発生した捨石を廃棄することによってできる山を北海道ではズリ山と、九州ではボタ山と呼んでいる。ズリ・ボタは採掘が終わった後の坑道を埋め戻し、地盤を安定化することにも使われた。
その後ホッパーから鉄道や船に積まれ運び出される。これが一般的に目に留められる「うんたん」である。石炭は大量に積んで置くとガスが原因で自然発火することがあり、水をかけるなどしてうんたんされる。鉄道の場合、ホッパーの下に石炭車を待機させておき、ホッパーの底の蓋を開いて積み込み、それを機関車で引っ張って港の貯炭場や目的地へと運ぶのである。 鉄道自体がイギリスにおいてうんたんを目的として生まれたこともあり両者の関係は深い。使われた石炭車は大きく二種類に分けられる。九州は小型の貨車の下部の蓋から石炭を排出したのに対して、北海道は比較的大型の車体で側面の蓋を開けて石炭を排出した。室蘭など一部の駅には、「ミュール」と呼ばれる機械で石炭車を引っ張り上げた後、「カーダンパー」で石炭車をひっくり返して石炭を降ろしていた。港へ運び出された石炭は貯炭場に保管され、やがて人力やクレーンでうんたんする船、専用の鉱石船や貨物船に積み込まれる。この船が各地の港や製鉄所、工場へうんたんするのである。
大馬力の蒸気機関車がたくさんの石炭車を引っ張る光景は、多くの鉄道ファンにとって語り草となった。例えば夕張炭鉱で採掘された石炭はD51によって夕張線、室蘭本線を通って室蘭港で船積みされ、主に京浜方面にうんたんされていった。時代が下ると北海道に低性能の石炭車が封じ込められ、本州方面で運用されることが無いように貨車の黒い車体に黄色の文字で道外禁止と書かれ、名物となっていた。
筑豊の石炭は各支線から筑豊本線を9600やD50によって直方駅へうんたんされ、長編成に組成され若松港や戸畑港、門司港、果ては冷水峠を越えて三池港へ運び出され、船積みされて京浜、阪神方面や八幡製鉄所などへうんたんされていった。若松港では駅から市内の貯炭場、港の埠頭までの道路上を路面電車のように電気機関車がうんたんしていた。三池港は潮の干満が激しく、水位を調整してそれを克服するためにパナマ運河と同様の閘門があり、石炭を積んでいたクレーン船大金剛丸とともに産業遺産として保護されつつ現役で使用されている。北海道では大企業が自前の専用鉄道を使ってうんたんしていたのに対し、九州では資本力が小さい炭鉱が多かったため、ダイヤの定量一杯に「影スジ」と呼ばれる臨時列車用のダイヤを引いておき、石炭が溜まるごとに列車が組成され、うんたんされていた。
単なる運転や航海のようであるが、その仕事は大変な労力を用いるものであった。蒸気機関車の場合は運転する何時間も前に火入れを行い蒸気を起す必要がある。運転中は常にボイラーに石炭を投炭しなければならず、運転室内の気温は場合によれば摂氏50度にもなった。運転台は密閉されておらず、運転中に煙が容赦なく中へ入っていくのである。当時煙が出ない無煙炭は特急列車専用であり[3]うんたん列車の多くは、煙が出るか出ないかは投炭する機関助士の手腕にかかっていた。煙にまかれて殉職した機関士、機関助士も数知れない。 蒸気船の機関室は船底の方にあり、大量の石炭を何日間もひたすらボイラーに投入していた。体感温度は暑く、火夫らは真っ裸になって石炭を釜に放り込んでいた。波、風、嵐などの悪条件のなかで船員らはうんたんしていた。 こうして石炭は各消費地に届けられるのである。
日本のうんたん史[編集]
近世、石炭の発見と利用の始まり[編集]
1469年(応仁3年)に現在は福岡県である三池藩で燃える石が見つかり、風呂焚きや製塩で使われ始めた。1721年(享保6年)に柳河藩、1790年(寛政2年)には三池藩により石炭の採掘が開始され、うんたんもそこから自然に発生した。当時は笊と天秤棒や馬、筑豊では 遠賀川や堀川の水運に「川ひらた」と呼ばれた船を浮かべうんたんしていた。 うんたんによって得られた石炭は当時肥後や瀬戸内で製塩に使われていた。後に三池藩が反射炉を使って製鉄などが行われ、幕府への石炭を献上も行われていた。献上された石炭は咸臨丸など軍艦に使用された。1869年(明治2年)、後の北海道岩内町に茅沼炭鉱軌道という、簡易なトロッコであるものの日本初の鉄道が開業した。これによりうんたんの効率は一気に上がった。
近代、明治維新と殖産興業[編集]
明治維新の後、政府の殖産興業のもと北海道、常磐、宇部、九州などの炭鉱が次々と開発され、それとともに政府や財閥のもとに数多くのうんたん鉄道が誕生した。最初期のものは石狩炭田であり、北海道初の鉄道である北海道炭礦鉄道はアメリカの技術を用い、三笠の炭鉱と小樽港を結ぶために誕生した。北海道開拓は石炭開発のためともいえたものであり、うんたん線が続々と誕生していった。特に夕張市は三井財閥系の北海道炭礦汽船と三菱財閥系の三菱鉱業の炭鉱があり、夕張線、三菱石炭鉱業大夕張鉄道線、夕張鉄道などが結び合っていた。
筑豊は麻生、貝島、安川ら「筑豊御三家」を代表とした地元資本の炭鉱、三井や三菱など中央資本の炭鉱、さらには中小規模の炭鉱が数多くあり、地元資本で作られた筑豊興業鉄道を幹に縦横無尽にうんたん鉄道が作られた。また離島でも炭鉱が開発され、蒸気船を使ったうんたんが行われ始めていた。代表的な例が世界文化遺産に登録された軍艦島である。
当時の日本はうんたんによって得られた石炭を製糸場、製鉄所、造船所、発電所、その他工場に使われていった。1872年(明治5年)には日本の近代化の先駆けである官営模範工場であった富岡製糸場が操業を開始する。1901年(明治34年)には八幡製鐵所東田第一高炉で火入れが行われた。製鉄所は大量の石炭を使うため、石狩炭田を後背地に持つ室蘭を代表とするような、炭鉱に近い場所に設けられた。八幡製鉄所の後身である日鉄[4]は「日鉄鉱業」と呼ばれる製鉄所自前のさいたん、うんたんする会社[5]を持つほどであった。その後八幡製鉄所は、各地の石炭や鉄鉱石を使用した経験から中国、満州から遥々うんたんする事となった。同時期、日本の産業化とともに沢山の工場が設置されていった。特に鉄鋼、造船など重工業は後に富国強兵、戦力増強や高度経済成長の牽引役となった。工場群は京浜、中京、阪神、北九州の各工業地帯をはじめ全国各地に生まれ、例えば大阪市は紡績工場を代表に林立する煙突からの煙によって「東洋のマンチェスター」「煙の都」と呼ばれた。
近代的な交通の整備も必要であった。1874年(明治7年)に三菱海運[6]が日本の商船としてはじめて上海航路を開設した。そして1898年(明治31年)、後身である日本郵船がアジアの海運業者で始めてロンドンへの航路を開設し、第一船として土佐丸が横浜港より出港した。その後北米シアトル航路に三池丸、豪州航路に山城丸などが日本の対外貿易を背負って出帆していった。また日露戦争において無線信号を戦術として世界で始めて使い「敵艦見ユ」を発信した信濃丸、ブラジルへの移民船笠戸丸など当時の大型商船はほぼ全てが蒸気船であり石炭が燃料であった。これらの船はうんたんをしただけではなく、海外、特に西洋から多くの技術や文化を運んでいった。さらには外国へうんたんして現地の市場に売ることによる外貨獲得も行われた。当時の石炭の積出指定港であった小樽、室蘭、門司、口之津、唐津ではうんたんするために貨物船に載せる石炭の音が響き渡っていた。
大型船舶の建造も1854年(嘉永7年)の鳳凰丸に始まり、1906年(明治39年)には三菱重工業長崎造船所において欧州航路用貨客船である常陸丸が建造された。第一次世界大戦中川崎造船では、現在では一般的な造船形態となった「ブロック建造」[7]を世界で始めて採用し、短期間の大量建造を実現した。1925年(大正15年)に建造された來福丸では建造開始から30日後に完成し当時の世界最短記録を達成した。[8]
1872年(明治5年)の新橋〜横浜駅の鉄道開業以来、鉄道網は順調に伸びていき様々な蒸気機関車が活躍していった。当初はイギリス、アメリカ、ドイツなどから輸入していた蒸気機関車も、1893年(明治26年)に鉄道庁神戸工場[9]にて「AE形」(後の860形)の名の国産初の機関車が誕生した。その後1913年(大正2年)に前述した9600形が、1923年(大正12年)にはD50形[10]が、1936年(昭和11年)にはユニット構造と電気溶接を多用したD51が誕生した。日本最大の幹線であった東海道本線ですら当初は全線が非電化であり[11]蒸気機関車の天下の中、毎日大量の石炭車を引いてうんたんしていったのである。
大日本帝国海軍は大嶺炭鉱の無煙炭に着目して採炭、うんたんし、自身の持つ戦艦や駆逐艦などに使用していた。[12]日露戦争の日本海海戦で戦艦三笠以下連合艦隊はロシアバルチック艦隊がうんたん船を上海で引き離したことを知り、 日本海海戦を歴史的勝利に導いたのである。また現在の松浦鉄道沿線の炭鉱群は、佐世保の海軍基地へ石炭の供給のために誕生したのである。
南満州鉄道設立とそれに伴う満州の開発は、うんたんの需要を作った。撫順市の炭鉱から鞍山製鉄所[13]や日本本土へ、ミカシ、ミカニ、マテイといった大型の蒸気機関車が満州の大地を経て大連へ、朝鮮半島の炭鉱からも、朝鮮総督府鉄道を通りそこから船でうんたんしていた。外地と呼ばれていた土地の石炭も経済発展に貢献していった。
明治時代から小・中規模の火力発電はあったが、[14]、大正時代に大規模な石炭火力発電所が誕生していった。1905年(大正15年)の、巨大な4本の煙突があった東京電力千住火力発電所、1918年(大正7年)に操業を開始し、後に増設により東洋一の規模と言われた8本煙突関西電力春日出火力発電所などが特筆される。これらは大量の石炭を必要としたが、どちらも船を使ってうんたんされていった。前者は隅田川に筏を浮かべて長閑にうんたんしていた。
関東大震災以降耐火、耐震性のために鉄筋コンクリート建築が増加し、これらも鉄筋を作るためのうんたんが増加する一因となった。丸ビル、明治生命館、第一生命館、ダイビルなどのオフィスビル、阪急百貨店や高島屋、大丸心斎橋本館といったデパート、東京の復興小学校や滋賀の豊郷尋常高等小学校といった学校など、戦前の近代建築群が建設されていった。
昭和初期に石油が台頭し始め、特に大量の燃料が必要な船舶においてはディーゼルに移り変わってしまった。しかし鉄道省の鉄道連絡船や朝鮮、台湾、中国などへの貨客船や、1935年(昭和10年)に本格的な操漁が始まった北洋漁業の蟹工船、鮭鱒工船といった大型漁船も石炭であった。この頃石炭の需要とともにうんたんも戦前最盛期を迎えるが、それは忍び寄る軍靴の足音でもあった。
大東亜戦争[編集]
ヨーロッパで始まった第二次世界大戦、真珠湾攻撃により大東亜戦争が始まると軍需用の石炭がうんたんされていった。世界初の海底トンネルとして名高い関門鉄道トンネルは、筑豊産の石炭を本州の工業地帯へ効率良くうんたんするために作られたものであり、完成後は海の下をうんたん列車が走った。そして軍需品の生産増大のためにもますますうんたんが増加した。
ところが当時、陸海軍を問わず補給を軽視する風潮があり、それが原因で海上の輸送路であったシーレーンが途絶し、中国や満州からのうんたんが絶望的になってしまった。 アメリカは開戦直後には潜水艦による通商破壊に乗り出し、やがてソナーやレーダーなどの最新兵器と、三隻で一つの班を作り互いに協力し合って日本船を撃沈する狼狽戦法に乗り出し、日本の輸送船を追い詰めていった。それに対して日本には船団護衛用の艦艇が不足しており、駆逐艦、海防艦のほかに、攻撃に弱い民間から徴用した貨物船、漁船、捕鯨船などを改装した特設艦艇なども使用しており、レーダーや対潜哨戒用の機器も不足していた。輸送船団も船足が速い優秀船と低質な船舶が混在しており、本来護衛するはずの艦も船足が遅く足手まといになることもあった。また乗船していた海軍士官が無理に危険な航路を走らせ、撃沈されることもあった。その状況下においても船員らは果敢に働いた。何度乗船していた船が撃沈されても命ある限り別の船に乗り継いでいった。しかしやがて船員も不足し始め、内航のうんたん船は通信士を下ろし手旗信号で通信させる有様であった。最終的には日本の商船の八割が遭難、船員の半分が殉職という損失を出すことになる。
船舶の不足を補うために前述したブロック工法と全溶接工法を多用した戦時標準船が大量に建造されるが、これらは処女航海で故障したり、暗礁に乗り上げただけで大破したり、鉄材よりも補強のコンクリートが多かったり、果ては完全にコンクリートで作られることになる[15]。コンセプトは「船体は3年、エンジンは1年持たせる」であり、エンジンにはおもちゃのポンポン船と同じ機構の物を使用していた。炭鉱関係者は「翼(飛行機)をください・・・」と思っていたと考えられるが、飛行機でうんたん出来る量は少なく[16]、船や鉄道に頼るほか無かった。船舶の不足は酷く、酷使された老朽船はもちろん、既存の船の強度を無視して改造する、船員を養成するはずの帆船さえも改造して使う有様であった。補給の軽視は貴重な物資、資材、戦力を失う事だったのである。
海上輸送の途絶により、国内輸送は一挙に鉄道へと転換するものの、やはり石炭不足、資材不足は避けられなかった。 1943年(昭和18年)には日本最高出力のD52形蒸気機関車、搭載量を増加したトキ900形貨車、翌年にはEF13形電気機関車などが誕生した。しかしこの頃に生まれたほかの車両と同様鉄板は薄く、複雑な部品は安易な代用品や、木材やコンクリートが使用されていた。雨漏りや細かな故障、果てはボイラーの爆発など、運用する側の気苦労は絶えなかった。そしてこれら全てに共通することだが、戦局の悪化と共に工作能力も質も低下していった。
国内のうんたんも厳しい状況に陥った。戦時中は鉱員や資材の多くが徴用され、人手不足、物資不足に陥っていた。人手こそ徴用や捕虜の使用で凌いでいたが、酷使による過労死や輸送していた船が撃沈されるなどした。炭鉱の坑道や機材も資材難から乱掘されていき、酷使され、それによる事故も多くなった。
本土空襲が激しくなると炭鉱、鉄道、港湾なども戦災を受け、また機雷の散布により船舶への被害が相次いだ。造船所近辺の機雷散布は建造した船を進水できない状態に陥らせるが、皮肉にもその頃には資材難で船自体の建造が出来なかった。輸送船は機雷を恐れて沿岸航行ができず、外海へ出れば潜水艦から雷撃を受けた。末期には護衛の飛行機や軍艦は無く、あっても燃料が無く、ほぼ無防備と言っても良い状態であった。比較的安全であるはずの内航であり、北海道と本州をうんたんするのに最重要であったはずの青函連絡船が二日間の空襲で全滅する有様であった。この頃には消費するはずの工場も軒並み戦災を受け機能停止に陥る。こうしてうんたんは一気に絶望し、敗戦を迎える。
戦後復興[編集]
戦後帝国陸海軍は共に解体され、朝鮮、満州、台湾、樺太、関東州などから大量の日本人の引き揚げにより食料や住居が不足していた。工場の機能停止に加えインフレのため戦後日本の経済は完全に破綻していた。新生なった国鉄は過剰人員に頭を悩ませ、また当時の金で総額25億6000万円という戦時補償が打ち切りとなり、新規造船の資金源を失った海運各社の財政基盤は悲惨なものであった。
しかしうんたんの需要が無くなった訳ではなかった。日本へ帰還した人々のために、GHQや日本政府は炭鉱などに職場を与えた。1946年(昭和21年)、当時の第一次吉田内閣は炭鉱や鉄鋼業に 食料品や生活物資を優先的に配給し、鉱員、作業員の賃金を補助し、これによって食料、肥料、鉄鋼、造船など国の基幹産業を重点的に支援する傾斜生産方式が行われた。そして戦後日本の復興を夢見た人々によって炭鉱、うんたんは見る見るうちに復活した。
荒廃した鉄道も下山事件を引き起こした人員削減は完了し、特急列車の復活や木造客車の鋼体化改造などで活況を呈した。海運においては沈没船の引き揚げや戦標船の改造による船質向上や、政府主催の計画造船により船隊の充実も図られた。当時の世相もあり、建造された船の多くはうんたんするための船であった[17]。
戦後日本は外国から原料を輸入し、それで鉄鋼や船を作る加工貿易が活発になる。石油コンビナートや臨海工業地帯といったあらゆる施設が各地で建設された。日本の鉄鋼は高品質であることが話題になり、世界各国へ輸出されていった。造船は日本のお家芸と言われるほどとなり、何万トンもの船を建造した。それに合わせ製造業、運輸業の企業合併などを進めて国際競争力を高めていった[18]。
1956年(昭和31年)に日本の造船量はイギリスを抜き世界第一位となった。製造も輸送も石炭の天下の中、炭鉱は鰻上りに増産に追われ、うんたんした。こうして日本は経済白書に「もはや戦後ではない」と言わしめるほど復興し、高度経済成長へ繋げていったのである。日本を敗戦国から経済大国へ生まれ変わらせる一翼を担ったのがうんたんであった。当時八幡製鉄所を抱えていた北九州市は製鉄所の煙を「七色の煙」と呼び、地元民の誇りとなっていた。炭鉱のある町は活況を呈し、うんたん鉄道は全国各地から愛好家が訪れるなど、うんたんが輝いていた時代であった。
エネルギー革命以降[編集]
ところがエネルギー革命が起こると状況が変わった。1962年(昭和37年)の石油輸入自由化を機に採炭、うんたん量が減ってしまった。町の銭湯ですら重油炊き、ガス炊きが当たり前となり、都市ガスすら石油の仲間である天然ガスになる有様であった。
そもそも日本の炭鉱は危険で高コストという現実があった。1963年(昭和38年)には三井三池炭鉱三川坑にて戦後最悪と言える1300名近くの死傷者を出す炭塵爆発事故が発生する。また、皮肉にも経済大国となったことにより、国産炭よりも輸入炭のほうが輸送のコストも含めて安くなり、消費者は海外から安い石炭を買うようになり、それに伴い炭鉱への収入は減っていった。鉱夫も死に物狂いで働くため必然的に人件費が高くなり、赤字になるのは当然であった。
それでも不採算の小さな炭鉱を閉鎖して[19]採算の良い炭鉱に絞り、最新技術を駆使して人件費やコストを下げようという機運が起こった。これを「炭鉱のスクラップ・アンド・ビルド」という。北海道炭礦汽船は社運を賭け、当時の最先端技術を兼ね揃え「ビルド鉱」と呼ばれた夕張新炭鉱を作った。おりしもオイルショックが起き、それによって国内の炭鉱が見直されてきた。
ところが1981年(昭和56年)にその夕張新炭鉱でガス突出・爆発事故が起き93名が死亡。この事故で夕張新鉱は閉山となった。その後1989年(平成元年)に同社は幌内炭鉱を最後に自社採炭から撤退し後に倒産した。[20]これは「日本の炭鉱だってまだやれる」という希望を粉々に打ち砕いた。さらに犠牲者83名を出した三井三池炭鉱有明坑火災、犠牲者62名を出す三菱南大夕張坑ガス爆発などの大事故が決定的になり、炭鉱の衰退は加速する。かつて炭鉱の町と持て囃された町の灯は消え、ほとんどの町は財政難に陥り、夕張市をはじめ財政再建団体への道を歩み出すことになる。文字通り山ほどうんたんしていた線路は、都市近郊路線へと変貌した一部を除き列車も人の移動も無くなり、やがて線路は次々と剥がされていった。
こうしてうんたんは海外へ活路を見出すのであるが、日本経済の形も変わりつつあった。1960年代の鉄鋼不況により鉄鋼会社の倒産や高炉の閉鎖などによる事業縮小が相次ぐ。それに加え日本が儲かりすぎたことにより貿易摩擦が起きた。 漢江の奇跡を体験した韓国や人件費の安い中国などに鉄鋼、造船が抜かれもした。1987年(昭和62年)の富岡製糸場閉鎖、1988年(昭和63年)の北洋母船式鮭鱒漁の終了など、かつてうんたんが支えていった産業が次々と消えていった。おりしもバブル景気のなかでうんたんを必要としていた重厚長大産業は影を潜め、代わって軽薄短小に産業の主役は移っていったのである。そして国が火力発電用の石炭の買い取りを終了したことにより、炭鉱の壊滅は決定的となった。
「石炭を燃料に運ぶのも石炭」という正真正銘の石炭列車は1975年(昭和50年)12月24日、追分機関区所属のD51241牽引の6788列車による夕張発追分着を最後に消滅した。旅客列車は同年12月14日、C57135による室蘭発岩見沢着の225列車が最後であり、国鉄の現役蒸気の幕引きにうんたんが関わっていた事になる。翌1976年(昭和51年)3月2日に引退した、追分駅でのうんたん列車の入れ替えに従事していた39679、49648、79602の3両の9600形がうんたんを支えていた国鉄蒸気機関車の最後になった。このうち3月25日に火を落とした79602は、九州と北海道という二つの大きな炭鉱の地でうんたんに関わり続けた一生であった。[21]これ以降は「うんたんするけど、機関車の燃料は石油」といううんたん列車が走り続ける事となった。トラックもまたうんたんに使われたが、元々搭載力の小さいトラックを使うほど落ちぶれた炭鉱は閉山するほか無かった。[22]
軍艦島は1974年(昭和49年)に無人島となり、筑豊の炭鉱は1976年(昭和51年)の貝島炭鉱閉山で幕を下ろす。当時は坂を転げ落ちるかのように炭鉱が消えていた時期であった。日本を代表する存在であった夕張の炭鉱は三菱の大夕張、南大夕張を最後に1990年(平成2年)に閉山。1997年(平成9年)にはうんたん発祥の地の三井三池炭鉱が閉山。2001年(平成13年)に長崎県の池島炭鉱が閉山し、うんたんを生んだ九州の全ての炭鉱が閉山した。翌年に北海道釧路市の太平洋炭礦が閉山し、その石炭を輸送した太平洋石炭販売輸送のうんたん列車を最後に、江戸時代以来日本の産業を支えてきたうんたんが一度姿を消した。その後炭鉱は地元企業の釧路コールマインに受け継がれて稼働を再開、太平洋石炭販売輸送によるうんたんも再開されたが、産出量の減少にはかなわず2019年(令和元年)6月30日をもってうんたんは廃止された。
うんたんの今[編集]
現在、国内の鉄道でのうんたんは船によってうんたんされた石炭を三井埠頭から熊谷のセメント工場までうんたんする太平洋セメントのみであるが、2020年(令和2年)3月の廃止が決定しており、国内の鉄道によるうんたんは消滅する予定。
世界各地での船でのうんたんはまだまだ盛んである。石炭が復権しつつあるなかで、オーストラリアやインドネシア産の高品位な石炭が、中国やインド向けなどに数多くうんたんされている。
各地の炭鉱を産業遺産として保存する運動があり、2012年(平成23年)には筑豊の炭鉱夫であり画家であった山本作兵衛による炭鉱画が世界記憶遺産に、2015年(平成27年)には『明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業』としてうんたん関連の遺構が世界文化遺産に登録された。各地の鉄道関連の展示施設にもうんたん関連の車両が保存され、例えば京都府京都市の京都鉄道博物館には9633、D50140といったうんたん列車の機関車が保存されている。
その京都市内にあると言われている [23] 私立桜が丘高校軽音楽部では、石炭が無いのにうんたんが行われていることが分かった。これは貨車や船ではなくカスタネットを用いて豊崎病の感染源であり、U5(うんたん症候群末期症状)を起こして日本の産業、生産機能を低下させる効果があるという事が分かった。「うんたん♪ うんたん♪ うんたん♪ うんたん♪ うんたん♪ うんたん♪うんたん♪ うんたん♪ うんたん♪ うんたん♪ うんたん♪ うんたん♪うんたん♪ うんたん♪ うんたん♪ うんたん♪ うんたん♪ うんたん♪(以下無限ループ)」「うんたん うんたん 唯たん 唯たん 唯たん♥ 唯たん♡ 唯たん♥ 唯たん♡(*´Д`)ハアハア(以下同じく無限ループ)」「唯は俺のよry」「じゃあ俺は澪ry」「りっちゃんはry」「たくあん眉はry」「あずにゃnry」「さわちゃry」「のどかたry」「憂ry」「純ちゃry」という声も確認されている。厚生労働省は一旦はこの言葉を規制する方向で検討したが、石炭産業からの反発で撤回した。石炭のうんたんを知る鉄道ファンからも「うんたんはうちらの方が本家じゃウ゛オケ!!」という声もあり、アニオタとの抗争が勃発する心配があったが、ニコニコ動画などにおいて両者の関係は良好であり、けいきゅう!、けいせい!、けいはん!、けいおう!などといった動画、うんたんから見た鉄道の歴史を学ぶ動画などが投稿されたほか、叡山電鉄や京阪石山坂本線、当時の北近畿タンゴ鉄道などでコラボレーション企画が行われた。うんたん♪
しかしこのカスタネットを軽やかに叩く女子高生の姿からは、とてもうんたんが日本の近代化や産業の発展に尽くし、現代の日本への道筋を作ったことを想像できない。これも時代が変化して人々の意識が変わった結果であろう。
脚注[編集]
- ^ 一般的な鉄橋は勿論であるが、瀬戸大橋、明石海峡大橋といった吊橋のケーブルも含む。
- ^ 太平洋炭礦、三井三池炭鉱有明坑、三菱鉱業高島炭鉱、松島炭鉱池島炭鉱などが挙げられる。
- ^ 現在の大井川鐵道やJRなどのSL列車は殆ど無煙炭を使用している。
- ^ 会社分割と合併を繰り返し現在の新日鐵住金。
- ^ 同社はうんたんのほかにも製鉄所に必要な石灰石、鉄鉱石の採掘・輸送も行った。現在京都鉄道博物館に収蔵されている1080号蒸気機関車もかつて同社の所有であった。
- ^ 同社の貨客船新潟丸、高砂丸が修理のためイギリスへ回航する際に搭載した九州産の米が日本企業(三井物産)初の輸出といわれている。
- ^ 船の部品ごとをまとめて建造し、ドックでそれを接合する方法。船を建造する船台を占拠する時間が短くなり、より多くの船が建造できる。
- ^ これにより大儲けした当時の社長は欧米から絵画、彫刻、浮世絵などを買い漁り、それが現在国立西洋美術館で展示される「松方コレクション」となる
- ^ 後に鷹取工場となり2000年(平成12年)に閉鎖された。
- ^ 当時は9900形。
- ^ 当時の陸軍が空襲で電力施設が破壊された場合運行が出来なくなることを危惧していたため。戦前の省線の電化区間は東海道本線東京〜沼津と京都〜明石間といった一部区間のほかは、横須賀線や山手線、中央線などの都市区間、上越線の山間部、信越本線の横軽間といった山間地などであった。
- ^ 無煙炭でも条件が悪ければ煙が出たため、その後世界の軍艦は石油使用に改められる。日本は石炭に拘り、それなりの進化をさせれば先の戦争に勝っていた可能性もなきしにもあらずである。
- ^ 昭和製鋼所を経て中国鞍山鋼鉄集団 となる。
- ^ 昭和30年代までは水力発電が主流で火力発電が補助という「水主火従」であった。日本は急流な河川と山地が多く、水力の方が有利であったため。
- ^ 広島県の漁港に防波堤として現存している。
- ^ 人数に直すと陸軍の一〇〇式輸送機が11人乗り、海軍の零式輸送機が21人乗り。なお、現代ではエアバスA380が全席エコノミークラスに直すと823人乗り、アントノフAn-225は客席を設置すると2000人程度、といった大型輸送機が登場している。
- ^ 初期は建造できる船の大きさに制限があったため、比較的小型な内航用の船舶しか建造できなかったのも一因である。これらの規制は順次撤廃されていく。
- ^ 1963年(昭和38年)の海運集約、1964年(昭和39年)の三菱三重工の合併、1970年(昭和45年)の新日鉄誕生などがあげられる。
- ^ 中には山形県の油戸炭鉱の様に、経営自体は安泰だったのに将来に見切りを付けられ、潰された炭鉱もある。
- ^ その後再建され、現在は従業員20名程の輸入会社としてひっそりと営業中である。
- ^ 同機は最終日に運転されていたD51と共に追分機関区の炎上により消え去ったが、当日に予備機だった49648のみ中頓別町の
琴吹寿公園に保存されている。 - ^ ただし元より小規模な露天掘りを行っている一部の炭鉱では、現在でもトラックを使って細々とうんたんしている。
- ^ 二期4話において京都へ修学旅行に出向いていることが確認されている